家の鍵はめろ先輩が持っていたスペアキーで入ることができた。憧れの先輩が隣に住んでいるだけでびっくりなのに、まさかアパートの大家さんだったなんて今でも信じられない。
そして翌日の朝、俺はなぜか先輩の家にいた。昨日の出来事を少しだけ整理すると――。
『なあ、お前って、朝強い?』
『え、まあ、はい。中学の時はサッカー部でほぼ毎日朝練だったので、早起きは得意ですよ』
『じゃあ、明日俺のこと起こしてくんない?』
『起こすって、モーニングコール的な……?』
『そんなのスマホのアラームとおんなじだろ。それじゃ無理だから、直接起こしにきて。これうちの鍵』
『め、めろ先輩の鍵っ? ごくり……』
『そんなわかりやすく生唾飲むやつ初めて見たわ』
『だ、大事な鍵を俺に預けていいんですかっ?』
『いいよ。でも、さすがにそれは失くすなよ。うちの鍵はそれしかないからな』
そんな会話があり、俺は言われたとおりに鍵を使って家に上がった。めろ先輩の家の間取りはうちと同じワンルームだけど、観葉植物や絵が飾られていて部屋もおしゃれだった。
「わっ、これ、インスタで被ってたキャップだ」
スチールラックの上にきちんと整理されている洋服や帽子。それから、お店のディスプレイみたいにスニーカーもたくさん並んでいる。不審者のように部屋をまじまじ見ている中でも、ベッドで寝てる先輩は微動だにしない。
「め、めろ先輩、起きてください。朝ですよ」
控えめな声で話しかけたけど、先輩は眠り続けている。あんまり見すぎてはいけないと思いながらも、めろ先輩の寝顔が綺麗すぎて見惚れてしまう。
無防備のめろ先輩がメロすぎて苦しい……!
まつ毛長いし、肌つやつやだし、一生見ていられるけど、残念ながら学校に行く時間が迫っていた。
「め、めろ先輩、そろそろ起きないと遅刻ですよ?」
「…………」
「めろ先輩、めろ先輩ってば」
「ん……」
「ほら、早く起きて支度を……わっ!」
先輩の肩を揺らした瞬間、強い力で腕を掴まれ、そのままベッドに引きずり込まれた。
「な、な、なっ!?」
気づけば俺は、めろ先輩の腕の中にいた。抱き枕だと勘違いしているのか、しっかりと先輩から抱きつかれている。
え、ど、どんなご褒美? 俺、今日死ぬの? え?
視線を上げると、めろ先輩の顔が目の前にあった。綺麗だし、いい匂いだし、頭が変になりそう。
「め、めろ先輩。嬉しいけど、これ以上は心臓がもたないのでダメです!」
「…………」
「本当にダメですって。じゃないと俺……」
致死量のドキドキを浴びすぎて死ぬ――そう言おうとした時。
「……ん、ちひろ……」
めろ先輩が寝ぼけた声で呟いた。今、ちひろって言った……よね? ちひろって誰だろう。もしかして先輩は、その人と俺を勘違いしてる?
もしも『ちひろ』さんが、彼女だったらどうしよう。いや、めろ先輩はモテるから付き合ってる人がいないほうがおかしい。そっか。めろ先輩、彼女がいたんだ……。
「あれ、いつ来た……?」
勝手にショックを受けていると、先輩がようやく目を覚ました。寝言のことを覚えてないみたいで、めろ先輩は片手を伸ばして枕元に転がっていたスマホを手に取った。
「時間ギリギリ……ではねーな。けっこう早めに起こしてくれたんだ?」
「はい、念のため」
「サンキュ。で、なんでお前も一緒に寝てんの?」
「めろ先輩が引っ張ったんじゃないですか」
「引っ張った? ああ、悪い、また……」
〝また〟という言葉に、胸がざわつく。まるで誰かをベッドに引き込むことがしょっちゅうあるような言い方だ。
「……めろ先輩にそういう人がいるなら、俺に頼まなくてもよかったんじゃないですか?」
「そういう人って?」
「彼女ですよ、彼女」
早口で伝えながら体を起こすと、めろ先輩もそれに合わせるようにベッドから起き上がった。
「彼女ってなんのこと?」
「とぼけてもダメですよ。さっき寝言でちひろって呼んでました」
「あーちひろね。彼女じゃねーよ。実家で飼ってる犬」
「え、い、犬っ?」
「うん、マルチーズだからちひろ。俺が付けた」
「〝ち〟しか合ってないじゃないですか」
なんだ、犬か、犬だったんだ。彼女じゃなかったことがわかったら自然とほっとして顔がゆるんだ。そんな俺のことを、めろ先輩がじっと見ている。
「お、俺の顔になにか付いてますか?」
「ちょっとさ、前髪上げてみて」
「え、前髪?」
「うん、こうやって」
めろ先輩の大きな手が、俺のおでこに触れた。色素が薄い茶色い瞳に見つめられると、冗談抜きで吸い込まれそうだ。
「やっぱ、お前ってちひろに似てるな」
「えっ」
「人から言われない? 犬っぽいって」
「そんなの言われたことないですよ。どの辺が犬なんですか?」
「嬉しいとしっぽ振りそうじゃん。あと匂いとかすぐ嗅ぎそう」
「に、匂いなんて嗅ぎま……」
いや、嗅いでるな? さっき同じベッドで寝た時、先輩の匂いをめっちゃ嗅いだ。
「も、もう話してる時間なんてないですよ! 早く着替えてください!」
「着替えは手伝ってくんねーの?」
「~~~っ、俺は外で待ってます!」
逃げるように部屋を出たあと、めろ先輩の家のドアに背中を預けながら、その場にしゃがみこんだ。
「だーーっ、しっかりしろ俺!」
めろ先輩といると、いつもの俺ではいられない。こんな調子が続いたら、先輩のことが『好き』だって、簡単にバレてしまう。
――『入学おめでとう』
入学式の時、めろ先輩にコサージュを付けてもらった瞬間から、俺の頭の中は先輩でいっぱいになった。
インスタを眺めるだけでは物足りなくて、いつも校舎のあちこちで先輩の姿を探した。
親睦会の服選びに悩んでいたのは本当だけど、裏庭に呼び出した理由は、一秒でいいからめろ先輩の瞳に映りたかったからだ。
……でも先輩を困らせたくないから、この気持ちを伝えるつもりはないし、心の中で想っていればそれだけで十分だと思っていた……のに。
「めろ先輩がカッコよすぎるのが悪いんだ……」
もっと近づきたい、もっと近づいてほしい、なんて思ってはいけない。俺はただの後輩でいなくちゃいけないんだって、自分に言い聞かせた。
「なあ、ましろっち。なんでさっきめろ先輩と一緒だったんだよ?」
朝のホームルームが終わると、前の席のなぎぴょんが後ろを向いてそう聞いてきた。どうやら、めろ先輩と並んで登校しているところを見られていたらしい。
「実は誰にも言わないでほしいんだけど……」
「わかった! 付き合ってるんだろ?」
「え、違う、違う! 昨日お隣さんが大家さんだって話したけど、それがめろ先輩だったんだ」
「え、マジ?」
「うん、マジ」
学校に向かうまでの道すがら、めろ先輩は少しだけ自分のことを話してくれた。先輩が一人暮らしをはじめたのは俺と同じ高1の時からで、その頃から大家業も兼ねているらしい。
「大家さんってどうやったらなれるんだろう。そういうバイトがあったりするのかな?」
「いや、単純にめろ先輩の親が不動産業やってるからだろ」
「え、そうなの?」
「俺も噂に聞いただけだけど、父親がすごい人で、ここら辺のアパートだけじゃなく、都内にビルやマンションをいくつも持ってるらしいぜ」
「じゃあ、俺が住んでるアパートはめろ先輩のお父さんのものってこと?」
「多分な。つまりめろ先輩も大金持ちってわけだ」
「お金持ちなのは、先輩じゃなくて親でしょ」
「そうだけど、大家をやってるのも普通に考えて跡を継ぐためだろうし、どっちにしても将来は安泰だよ」
ブーブーブー。そんな話をしていると、ポケットの中のスマホが鳴った。画面には中一の弟・碧空からの着信が表示されている。地元の中学では防犯対策のためにスマホを持ち込むことは許されているけど、こんな時間に電話がかかってきたのは初めてだ。
「もしもし、どうした?」
『兄ちゃん、俺、俺……っ』
「え、泣いてる? な、なにかあったのっ!?」
『うう、兄ちゃん……』
「わかった、わかったから落ち着いて話して」
『兄ちゃん。俺、ディズニーに行きたい……』
「えっ?」
思わず、教室中に響き渡るほど大きな声が出てしまった。詳しく聞くと遠足の行き先が、今年からディズニーではなく八景島シーパラダイスに変更になったらしい。
「八景島もいいところだよ。イルカショーも見れるし」
『イルカショーもいいけど、俺はディズニーに行くのが夢だったんだ。兄ちゃんも知ってるだろ?』
確かに碧空は、中学の遠足を誰よりも楽しみにしていた。うちは大家族だからなかなか旅行にも行けないし、ましてやディズニーなんて夢のまた夢。碧空が行きたいとせがむたびに『中学生になれば行けるよ』と、言い聞かせてきた。
『しかも友達に聞いたらみんなディズニーに行ったことがあるんだって……。行ったことがないのは世界で俺だけかもしれない……』
「いやいや、けっこういると思うよ?」
『だから遠足の代わりにみんなで行こうって約束したんだけど、母さんにメールで聞いてみたらダメだって言われた……』
「あー……」
碧空はかなり落ち込んでいる様子だ。まあ、俺も中学の遠足を楽しみにしてたから気持ちはわかる。
「友達と約束したのはいつ?」
『5月5日』
「え、ゴールデンウィーク? すぐじゃん」
『でも、ゴールデンウィークが明けたら中間がはじまるからその前に行こうってみんなで決めて……』
碧空だって母さんが頭ごなしに反対したわけじゃないことはわかっているはずだ。さすがに急すぎるし、ここは兄として諦めるように説得するべきなんだろうけど、碧空だけが行けないことを想像すると胸が傷んだ。
「わかったよ。俺がなんとかする」
『本当にっ?』
「うん、また折り返し連絡するから」
『ありがとう、兄ちゃん! 愛してる!』
通話が終わったあと、俺は一気に我に返って頭を抱えた。なんとかするなんてカッコつけたのはいいけど、正直俺も手持ちの余裕がない。
「ましろっち、どうした? 緊急事態?」
電話のやり取りを側で聞いていたなぎぴょんが、心配そうな顔をしていた。
「た、単発で入れるバイトってどこかにないかな……」
「単発? ましろっちバイトしてるだろ?」
「そうなんだけど、ちょっと出費が……」
春休み中に受かったラーメン屋は、老夫婦で営んでいるため週三日は店自体が休みで、その穴埋めをするために先週からコンビニのバイトも始めた。
初給料は今月末に貰える予定だけど、5月は小学生組の妹たちの誕生日が控えている。ちなみにプレゼントはすでにネットで注文済みだ。
「金に困ってるなら、めろ先輩に相談してみれば?」
「そんなことできないよ」
「べつに金を借りろって言ってるわけじゃなくて、固定費を調整してもらうんだよ。光熱費は無理だろうけど、家賃とかさ」
「家賃……」
うちの家賃は、管理費込みで六万円。母さんは親として家賃を払うと言ってくれたけど、半分の三万円は自分でなんとかすると約束した。財布には、今月分の家賃が入っているけど……。
*
「めろ先輩、今月の家賃を分割にしていただけませんか!?」
その日の昼休み。めろ先輩を呼び出した俺は、屋上の踊り場で土下座をした。
「え、なに、急にどうした?」
「実は色々な出費が重なってしまいそうで……。入居したばっかりでこんなことを頼むなんて非常識だってわかっています。来月には必ず全額払いますのでどうかお願いします!」
「いいよ、別に」
「え?」
俺は思わず、気の抜けた声を出した。床につけていた顔を上げると、先輩は「そんなことしなくていいから」と、赤くなっているであろうおでこを擦ってくれた。
「金は払える時に払ってくれたらいいよ。それでもきついなら家賃の値下げを考えてもいいし」
「そ、それはダメです!」
アパートに住んでいる他の人たちはみんな大人だけど、自分だけ特別扱いなんて許されないし、しちゃいけない。
「めろ先輩は大家さんなんですから、下手に出ないでください。もっとこう、ドシッと構えないと!」
「お前、自分から頼んできたのに言ってることめちゃくちゃじゃね?」
「そうですけど、分割だって本来はそんなにあっさり許しちゃダメなんですよ」
「誰にでもするわけないだろ。お前だからだ」
「え?」
「お前を信用してるんだよ」
信用、されてる? めろ先輩に……?
喜んでいい立場じゃないのに、自然と顔の筋肉がゆるんだ。
「でも、まあ、そっちの言うことを聞くんだから、俺のお願いも聞いてもらおうかな」
「はい、なんでも言ってください!」
「じゃあ、今日の夜もうちに来て」
「えっと、それは、めろ先輩の夜のお手伝いをしろという意味でしょうか……?」
「夜の手伝い、してくれるわけ?」
「お、俺にできるか分かりませんが、めろ先輩がしてほしいことなら精いっぱい頑張ります!」
「頑張るなよ。てか、お前こそ俺に気を許しすぎなんじゃねーの?」
「めろ先輩だからです。他の人には……こんなこと言いません」
自分の顔が、みるみる熱くなっていくのがわかる。
あれ、俺ってば、自分の気持ちを隠すんじゃなかったっけ?
これじゃ、バレバレすぎない?
「手伝いっていうのは変な意味じゃなくて、今日はカレーを作る予定だから食いに来てくれると助かる」
「カレー! 先輩、料理するんですか?」
「うん、わりと得意。でもカレーは大鍋で作りたいから、いつも食いきるのが大変なんだよ」
「そうなんですね。俺、カレーが一番好きな食べ物です!」
「じゃあ、七時頃うちに来れる?」
「あ、すみません、今日は八時までバイトなんです……」
「それなら終わったあとでいいよ。時間に合わせてカレーも煮込んでおくし」
「ありがとうございます! 八時ぴったりに上がってくるので待っててください!」
「ふっ、わかった、わかった」
はしゃいでいる俺を宥めるように、めろ先輩が髪の毛をわしゃわしゃ撫でてくれた。
下唇についている口ピはカッコいいのに、笑うと見える犬歯は可愛い。俺のことを犬みたいだって言ったけど、めろ先輩もなんだか犬っぽい。
「犬種で例えるならシベリアンハスキーかな……」
「なんの話?」
「いや、なんでもないです! カレー楽しみにしてますね!」
めろ先輩と夜も会える! カレーも食べれる!
今日のバイトはいつも以上に頑張れそうだ!



