片岡(かたおか)茉白(ましろ)、十六歳。
 ――俺は今日、全身全霊の勇気を振り絞って、世界で一番カッコいい人を呼び出しました。
「それで? なんだよ、話って」
 裏庭に差し込む放課後の夕日。目の前にいるのは、一学年上の光葉(みつば)夢路(めろ)先輩だ。
 みんなから下の名前で呼ばれているめろ先輩は、とにかくビジュがいい。髪の毛は襟足長めのウルフカットで、左耳と口にピアスをひとつずつ着けている。
 立っているだけで雰囲気があるめろ先輩に憧れている生徒は俺以外にもたくさんいて、女子たちは毎日のように『メロい、メロい』と騒いでいる。
 たしかに、メロい、メロすぎる。先輩が放っているカッコいいオーラに倒れそうだ。
「あ、あの、俺のこと知らないと思うんですけど、一年一組の片岡茉白って言います! 入学式の時に先輩から花飾りを付けてもらった者です」
「花飾り?」
「覚えてませんよね。でも、それでもいいんです。あの時、めろ先輩のことを初めて見てこんなにカッコいい人がいるんだって、息が止まりそうになったんです。それで、あの……」
 緊張で、言葉が続かない。少しでも先輩に近づきたくて、認識されたくて、ずっとめろ先輩の姿を追いかけていた。いつか話しかけよう。挨拶だけでも……なんて思っていたけど、勇気が出なかった。そこで俺は最終手段として、めろ先輩のシューズロッカーに手紙を入れた。
【今日の放課後、裏庭に来てください】
 無記名の怪しい手紙だったはずなのに、先輩はこうして裏庭に来てくれた。
「こ、怖いって思われるかもしれないんですけど、インスタもフォローしてます! 先輩のプライベート写真も勝手に見させてもらってて……すみません、キモいですよね」
「別にキモくないだろ」
「え?」
「誰でも投稿を見れるように設定してんのは俺だし、見られたくなかったらそもそも非公開にしてるから」
 う……優しすぎて泣きそう。こんなよくわからない後輩の話を聞いてくれるだけじゃなくてフォローまでしてくれるなんて……え、神様?
 ますますめろ先輩への気持ちが大きくなった俺は、グッと手に力を込めて覚悟を決める。めちゃくちゃ緊張するけど、先輩の大事な時間をこれ以上奪うわけにはいかない。
「めろ先輩、今日はお話があって呼び出しました」
「うん」
「俺、初めて先輩を見た時からずっと憧れてて、こんなことを言うのはおこがましいって自分でもわかってるんですけど、どうしても聞いてほしいことがあるんです」
「なに?」
「えっと、その……」
「大丈夫だから言え」
「……っ、い、いつも洋服どこで買ってますか!?」
 お腹の底から絞り出した声は、まるで山びこみたいに校舎の外壁に跳ね返って、こだましていた。
 き、聞いた、聞いてしまった。おそるおそるめろ先輩の反応を窺うと、驚いたようにきょとんとしていた。
「え、は? 服?」
「すみません、急に失礼ですよね」
「失礼とかじゃなくて、俺はてっきり……」
「?」
「や、なんでもない」
 めろ先輩は襟足をそっといじりながら言葉を濁す。緊張で気づかなかったけど、今日は髪をハーフアップにしていて、後ろで小さなお団子を作っていた。なにそれ、可愛すぎる。
「なんで俺に服なんて聞くんだよ?」
「今週末にクラスの親睦会があるんです……。俺、服のセンスがなくて、せめてダサく思われないようにしたいと思いまして……」
 めろ先輩は、インスタに私服をよく載せている。派手すぎず、地味すぎず、どんなアイテムでも着こなしてしまう先輩は、カッコいいだけじゃなくてオシャレだ。
「先輩の洋服を真似しても先輩になれないことはわかってます。俺とじゃ住む世界が違いますし……」
「住んでるところは同じだろ」
「ぜ、全然違いますよ! めろ先輩は俺にとって神様みたいな人ですから」
「勝手に人のこと神化すんじゃねーよ」
「すみません……」
「ちょっと、スマホ貸して」
「え?」
「早く」
「は、はい!」
 差し出したスマホを先輩はすかさず受け取り、素早い指さばきで操作し始めた。そして「ん」と返されたスマホを確認すると、画面にはズズタウンのホームページが表示されていた。
「俺がよく着てる服。とりあえず何着かカートに入れといた」
「えっ、本当ですか? ありがとうございます!」
「俺、基本的にネットでしか服買わないんだよ。今セールで安くなってるのもあるし、注文すればすぐ届くから週末までには間に合うと思う」
「すごい、めろ先輩と同じ服だ……」
 インスタで見たことがあるTシャツとデニムのパンツ。売り切れないようにすぐ買う、絶対に!
「お前さ」
「はい!」
「本当に入学式だけ?」
「へ?」
「最初に会ったの、その時で間違いないかって聞いてるんだけど」
「そうです、間違いないです! 胸に付けてもらった花はずっと取っておいてありますし、あの時のことは今でもはっきり覚えて……うっ」
 俺の声を遮るように、先輩から片手で顎を掴まれた。親指は顎の下、他の指は口角あたりにかかり、ぎゅっと力を込められているせいか、自分のほっぺたが吊り上がっているのがわかる。
「せぇんはい、いたいれす」
「ついでに連絡先入れといたから」
「だれのれすか?」
「俺のだよ、アホ」
 えっ、めろ先輩の連絡先っ!?
「知っといたほうが色々と便利だろ」
 先輩は俺の顎から手を離したあと、そのまま背を向けて歩き出した。色々ってことは、これからも洋服とかその他諸々も聞いていいって意味?
「めろ先輩、本当にありがとうございます!」
 大きめの声でお礼を伝えると、先輩は右手をひらひらと振った。俺はカートの中の洋服を見つめながら、先輩とのひとときの余韻に浸る。
「あ~~~めろ先輩、好きすぎる……」
 一瞬だったけど、先輩に触ってもらえた。めっちゃいい匂いもした。
 まさかこのあと〝あんなこと〟が起こるとは夢にも思っていない俺は、完全に浮かれていた――。

 *


「じゃあ、これからよろしくってことでかんぱーい!」
 日曜日の午後。親睦会は、駅前のカラオケで行われた。広いパーティールームに集まったクラスメイトと、ドリンクバーのグラスを順番に合わせた。
「片岡くん、その私服オシャレだね!」
「そのセットアップ、超似合ってる!」
「はは、ありがとう」
 俺が着ているのはもちろん、めろ先輩に勧めてもらった洋服だ。選んでもらえたことが嬉しくて速攻買った服は、届いてみてびっくり。めろ先輩は俺に合うサイズを最初からカートに入れてくれたみたいで、全ての丈がぴったりだった。
 洋服が届いた日にお礼のメッセージを先輩に送った。思いが強すぎて長文になってしまったメッセージの返事は、『グッジョブ』のスタンプだけだった。……犬のスタンプ可愛い。めろ先輩は犬が好きなんだろうか。
 【犬は好きですか】【休日はなにをしてますか】【暇だったら遊んでください】
 色々と送ってしまいたいことがあるけど、しつこい後輩だと思われるのが嫌で、スタンプの返事もあえて新しい話題は振らずに、リアクションで我慢した。
「なあ、ましろっちって一人暮らしなんだろ?」
 みんなが次々と流行りの曲を入れている中、隣に座っている柳楽くんに話しかけられた。柳楽くんは友達から『なぎぴょん』というあだ名を付けられていて、俺もそう呼ばせてもらっている。
「うん、春休みにこっちに引っ越してきて、今はアパートで一人暮らしだよ」
「一人暮らしとかいいなー! 遊び放題じゃん!」
「でも、バイトもしてるから、今はほとんど遊ぶ時間もないよ」
「そうなん? 高一で一人暮らししてるから、てっきりましろっちは社長の息子だと思ってた」
「社長じゃなくて、美容師の息子だよ」
 漫画とかの設定では金持ちの高校生が一人暮らしをしてたりするけど、うちの場合は逆だったりする。
 俺には中三と中一の食べ盛りの弟がふたり、その下に小三と小一、そして幼稚園の年中組の妹がいる。つまり俺は六人きょうだいの長男で、母さんは去年シングルマザーになった。
 美容師の母さんはいつも明るいし、きょうだいはみんな仲が良いから、母子家庭になっても毎日変わらずに楽しかった。でも、中三の弟は今年受験生だし、思春期を迎えた妹たちにもプライベートな部屋が必要になる。そこで色々と考えた結果、俺は学校から程近いアパートを借りて一人暮らしをすることを選んだというわけだ。
「アパートって、どの辺? 夜とかましろっちの家に遊びに行っていい?」
「ごめん。隣に大家さんが住んでるから夜は無理かも」
「えっ! 大家が隣に住んでんの?」
「うん、そうみたい。まだ会ったことはないけどね」
 引っ越しの荷解きが落ち着いたら挨拶しようと思っていたけど、結局忙しさを理由にして今もできてない。
 大家さんって、どんな人なんだろう。怖い人じゃなければいいな。

 親睦会は二時間でお開きになり、アパートの101号室に着いた瞬間、俺はあることに気づいた。
「え、うそ、ない、ない、ないっ!?」
 カバンを引っくり返しても、ズボンのポケットを調べても、家の鍵がどこにも見当たらない。失くさないようにちゃんとキーケースに付けておいたのに……。
 え、どっかで落とした? カラオケ? それとも途中で寄ったコンビニで?
 鍵がないと家の中に入れないし、予備のスペアキーは母さんが持っている。連絡することもできるけど、ここまで来るのに時間がかかるし、余計な心配はかけたくない。と、なると――。
 俺は隣の部屋の102号室に視線を向けた。アパートの北側の窓は廊下に面していて、日が落ちると窓の明かりが確認できる。大家さんの部屋の電気は付いていた。
 まだ挨拶をしてない手前、鍵を失くしましたと泣きつくのは相当気まずいし、申し訳ないけど、ここはもう開き直って大家さんに頼るしかない……!
 ピンポーン。おそるおそるインターホンを押した。なかなか出てもらえず、もう一回押そうとしたところで……。
『はい』
 スピーカーから、低い男の人の声がした。
「あ、あの、急にすみません。俺、隣に住んでる片岡なんですけど、家の鍵を失くしてしまって……」
『わかった。ちょっと待ってて』
「は、はい!」
 インターホンが切れて、俺はドアの前で姿勢よく待機する。俺の勝手なイメージで、大家さんはおじさんか、あるいはうちのじいちゃんくらいかもしれないと想像していたけど、声を聞く限り若い感じだった。
 というか、どこかで聞いたことがあるような、ないような……?
 ガチャ。暫くして102号室のドアが静かに開いた。そこから出てきたのは――。
「な、な、なんで……」
 俺は自分の目を疑った。なぜなら目の前にめろ先輩がいるからだ。完全オフモードの先輩は、上下黒のスウェットを着ていて、シャワーを浴びた後なのか下ろしている髪は濡れていた。え、色気やば。
「俺……めろ先輩の幻覚見えちゃってる?」
「安心しろ。これは幻覚じゃなくて現実だ」
「げ、現実ですか? ちょ、ちょっと待ってください。なんでめろ先輩がこの部屋から出てくるんですか?」
「だって、住んでるから」
「住んでるって……ハッ! ひょっとして大家さんはめろ先輩の親御さんとか……?」
「違う、俺が大家だよ」
「え? すみません、よく聞き取れなかったのでもう一度言ってもらえませんか?」
「だから、俺がこのアパートの大家なの」
「ええええっ!?」