君がいた世界の色

陽菜は、その日の放課後、屋上に葵を呼び出した。



「ねえ、行きたい場所リスト、作らない?」

 唐突にそう言った彼女の顔は、少し照れたような笑顔だった。

 髪が秋の風に揺れて、陽の光がその頬を優しく照らす。



「行きたい場所リスト?」



「うん。これから2人で行きたいところ、いっぱい書くの。で、1個ずつ叶えていこうって」



 それは、まるで残された時間を測るような提案だった。けれど陽菜は、まるでそんな素振りを見せることなく、いつも通りの明るさで言った。

 それが逆に、胸に染みた。



「いいね、やろう」



「やった!」

 彼女は小さなノートを取り出して、真ん中に線を引いた。左に「陽菜」、右に「葵」と書かれている。



「じゃあ、順番に書こ!」



「僕からでいい?」



「うん!」



「……夏祭り。行ってみたい」



「わ、私もそれ書こうとしてた!」



「それじゃあ……花火も見る?」



「うん、見る!」



 ノートの真ん中には、「夏祭り・花火大会」と2人の文字が並ぶ。



「次は私ね。星空、見に行きたい。めっちゃ高い場所から」



「夜景もあるといいな」



「うん!」

 彼女は嬉しそうに「夜景・星空を見に行く」と書き足した。



 その夜、陽菜は病院のベッドの上で、こっそりそのノートを見つめていた。

 照明を落とした病室の中。壁にかかる時計の秒針の音が、やけに大きく響く。



「あと、いくつ……叶えられるかな」



 でもその声には、悲しみはなかった。

 それよりも、次のデートを思い浮かべる高揚感が勝っていた。



 そして週末。

 2人は、浴衣姿で夏祭りへと向かった。



 陽菜の浴衣は、藤色に小さな桜が舞っている。

 葵は見慣れない彼女の姿に、言葉を失った。



「な、なに? 変?」



「いや……綺麗だな、って」



「うるさい」

 彼女は顔を赤らめて、そっぽを向いた。

 だけれど、手だけは葵の指先に近づけていた。



 人混みを避けながら、ふたりはたこ焼きを半分こしたり、金魚すくいに挑戦したり。

 陽菜は、子どもみたいにはしゃいだ。

「……見て見て! あの屋台、射的!」



「やってみる?」



「うん!」



 陽菜は一発で景品の小さなぬいぐるみを落とした。

 それを、何も言わずに葵に渡す。



「……え、いいの?」



「だって、今日の思い出でしょ。持っててほしい」

 そう言って微笑む陽菜の笑顔はまぶしく感じた。



 夜も更けてきた頃、ふたりは小高い丘に登った。

 そこからは街の灯りと、遠くに広がる花火大会の打ち上げ場所が見渡せた。



 空気が少しひんやりとしていて、陽菜が小さく身を震わせる。



「寒い?」



「ちょっとだけ」



 葵は黙って自分の上着を彼女の肩にかけた。

 その瞬間、陽菜は目を丸くして、そっとその袖を握った。



「優しいね、葵は」



「……陽菜のためなら、なんでもするよ」



「ふふ、ありがと」



 そして。



 ドン、と大きな音が空に響いた。

 見上げると、色とりどりの大輪の花火が夜空に咲いていた。



 赤、青、黄色、緑。

 音に胸が震えて、光に目が奪われる。



 陽菜は、静かに泣いていた。



「……どうしたの?」



「ううん、嬉しくて……。ずっと、こういうの、夢だったから」



「叶って、よかった」



「まだだよ」



「え?」



「まだまだ、叶えたいこと、いっぱいあるもん。全部、一緒に、叶えていこ?」



 葵は無言で頷いた。

 陽菜は空を見上げたまま、そっと手を伸ばす。



「ねえ、葵」



「なに?」



「今日の花火、忘れないでね」



「忘れるわけない。」



「……約束ね」

 空に咲き続ける花火が、まるでふたりの誓いを祝福するかのように、何度も打ち上げられた。

 この夜の景色が、彼女の心の奥に、深く深く刻まれた。



 

 花火が終わると、周囲の人たちは少しずつ帰り支度を始めた。

 祭りの熱気に包まれていた時間が、急に現実に引き戻されたような、そんな感覚が辺りを包む。



 陽菜と葵も、ゆっくりと丘を降り始めた。

 人混みとは反対の、小道の方へと。



 ふたりの足音だけが、静かな夜道に響く。

 さっきまで頭上に咲いていた花火の余韻が、胸の奥でまだやわらかく灯っていた。



「……今日は、本当にありがと」

 陽菜が、ぽつりと呟いた。

 その声は、どこか儚く、風に消えそうなほど小さかった。



「僕のほうこそ、ありがとう……」



 その言葉に、陽菜はそっと顔を上げた。

 その横顔には、先ほどの涙の痕がうっすらと残っている。

 けれど、その瞳はまっすぐに前を向いていた。



「ねえ、葵」



「うん?」



「もしも、私がいなくなってもさ⋯⋯」



 その言葉に、葵は歩みを止めた。

「待って……なに、急に」



「ううん、別に変な意味じゃない……ただ、ふと思ったの。たとえば私がいなくなっても、今日のこと、思い出してくれたら、きっと私は、ずっとそこにいる気がするなって」



 笑いながら言う陽菜の顔は、いつものように明るくて、優しかった。

 でも、その優しさの奥にあるものに、葵は気づいてしまっていた。



 強がっている。

 本当は、怖いのに。

 悲しいのに。

 泣きたいのに。



 それでも、陽菜は葵の前では、絶対に崩れない。

 だからこそ、葵は胸の奥がぎゅっと苦しくなった。



「……僕、忘れないよ。絶対に。だから、いなくなるなんて言うなよ」



「……ごめん、変なこと言っちゃったね」



「陽菜」



「うん?」



「僕、もっとたくさん一緒にいたい。一緒に笑って、一緒に泣いて、ケンカして、また仲直りして……ずっと、陽菜の隣にいたい」



 陽菜は目を見開き、立ち止まった。

 月明かりが、2人をそっと照らしていた。



「……そんなの、泣いちゃうじゃん」



 そう言って、陽菜は顔を伏せた。

 浴衣の袖で、そっと目元を拭う。



「……ごめん、泣かせるつもりはなかった」



「違うの、葵が優しすぎるから……なんか、安心しちゃって」



 陽菜は笑いながら、ぽつぽつと話し始めた。

「ね、知ってた?私、ほんとは強くなんかないんだよ。平気なフリして、明るくしてるだけで……夜になると、ひとりで泣いちゃう日もある」



「うん」



「でも、葵と出会って、初めて怖いって言えなくなった。……だって、守りたいって思ったから。葵の前では、弱いとこ見せたくないって、そう思ったの」



 葵はそっと陽菜の手を取った。

「陽菜が強くあろうとする気持ち、すごく伝わってるよ。でも、たまには頼ってもいい……全部、受け止めるからさ」



 陽菜はその手を、ぎゅっと握り返した。



「……ありがとう」



 小道の脇には、小さな神社があった。

 提灯の灯りがまだ残っていて、静かに揺れている。



 陽菜はふと足を止めて、境内に入った。

「ね、ちょっとだけ寄ってもいい?」



「うん」



 2人は並んで、賽銭箱の前に立つ。



 陽菜は、小さな硬貨を静かに投げ入れた。

 そして、目を閉じて、願いごとを唱える。



 その横顔を、葵は黙って見つめていた。



 (神様、あと少しだけ。どうか、葵と過ごす時間をください。)



「何をお願いしたの?」



「んー、内緒」



「ずるいなぁ」



「だって、叶わなくなっちゃうもん」

 そう言って、陽菜は笑顔を見せた。



 帰り道、再び歩き出すふたり。

 夜の風が、少し冷たくなっていた。



「次は……どこに行こうか?」



「星空、見に行こう。あのリストの次」



「うん、行こう」



 その答えに、陽菜はうれしそうに頷いた。



「葵⋯⋯」



「うん?」



「ずっと一緒にいたいって、言ってくれたよね」



「言ったよ」



「……私も。私もね、ずっと、葵と一緒にいたい」

 その言葉に、葵は微笑み、手を握る力を少しだけ強くした。



 空には、もう花火は跡形も残っていなかった。