君がいた世界の色

数日後、陽菜と葵は水族館の入り口に立っていた。

 朝の空気は爽やかで、やわらかな陽の光が二人を優しく包み込んでいる。



「今日は楽しもうね」



 葵の言葉に陽菜は小さくうなずいた。

「うん……」



 その声はかすかに震えているようにも聞こえたが、彼女はいつも通りの笑顔を見せていた。



 入り口をくぐると、まずは色とりどりの熱帯魚が泳ぐ水槽が2人を迎えた。



 水面に揺れる光と魚の鱗の煌めきが、美しいモザイク模様のように映る。

 陽菜はじっとその光景を見つめていた。



「きれいだね」

 葵が言うと、彼女は静かにうなずいた。



「うん……ずっと見ていたい……」

 

 目の奥のどこか寂しげな光が、葵の胸に痛く刺さった。



 2人はゆっくりと水槽の周りを歩きながら、陽菜は時折、葵の腕に触れては、柔らかな温もりを確かめていた。



 水槽の中の魚たちは自由に泳ぎ回り、その無邪気さはまるで、陽菜の心を映す鏡のようだった。



 しばらく歩くと、陽菜がふと足を止めた。

「ねぇ、葵くん、あのクラゲ、見て」



 指差した先には青白い光を放つクラゲがゆらゆらと漂っている。

 透明な体はまるで海の宝石のように幻想的だった。



 葵もじっと見つめながら。

「すごいね……」

 そうつぶやいた。



「こんなに美しいのに、ずっと漂っているだけなんだね」

 陽菜の言葉に葵は少し驚いた。



「急にどうした?」



「なんでもない……ただね」

 陽菜は言葉を濁して、また歩き始めた。



 その雰囲気に、葵は彼女の心の内を知りたいと強く願った。



 やがて2人は、水族館の目玉の1つである大きなシャチのプールにやってきた。

 観客席にはすでに多くの人が集まっていて、間もなくショーが始まる時間だった。



 陽菜は葵の腕を強く握り。

「葵、一緒に見よう」



 2人はそっと隣同士に座った。

 ショーが始まると、水面が激しく波立ち、大きなシャチが力強くジャンプを繰り返した。



 水しぶきが観客席まで届き、歓声が上がる。



 陽菜は目を輝かせながらも、その顔にはかすかな痛みの影が漂っていた。

「きれい……」



 彼女の小さな声に、葵はそっと手を伸ばして陽菜の肩に触れた。

「大丈夫?」



 



「うん……平気」

 でも、胸元がゆっくりと上下する様子に、彼女の苦しさが隠せないことを葵は感じ取った。



 ショーが終わると、2人はゆっくりと歩き始めた。

 

 次にたどり着いたのは、水族館の中で最も大きな水槽だった。

 そこには悠然と泳ぐジンベエザメの姿があった。

 巨大な体がゆったりと水中を進むたびに、周囲の水が揺れ、静かな波紋が広がる。



 陽菜はその前に立ち、静かに見上げていた。

「すごい……本当に大きいね」



 葵は隣に立ち、そっと彼女の肩に腕を回した。

 

 陽菜は体を寄せ、葵の胸に顔をうずめる。



「こんなに広い海の中で……私はほんの小さな存在なんだね」

 その言葉に葵はぎゅっと彼女を抱きしめた。



「そんなことないよ。陽菜は僕にとって、世界で一番大切な人だ」



 陽菜は涙をこぼさないように、かすかな微笑みを浮かべた。



「ありがとう、葵……」



 



 2人はしばらくその巨大な水槽の前で静かに過ごした。



 葵は陽菜の小さな震えを感じ取り、そっと背中をさすった。



 歩き出すと、陽菜がふと立ち止まり。

「葵、ねえ……お願いがあるんだ」



「なに?」



「また来てほしい。こんな風に、一緒にいろんな場所に行きたい」



 葵は目を見開いた。

「もちろんだよ。約束する」



 陽菜は笑顔を見せながらも、その笑顔はどこか儚く、まるで夕暮れの空のように淡く揺れていた。



 その後、2人は水族館の奥へと進み、熱帯魚の間を通り抜け、カラフルなサンゴ礁の展示を眺めた。

 

 陽菜はふとベンチに腰を下ろした。

「ちょっと疲れた……」



 葵はすぐに彼女の隣に座り、そっと手を握った。

「無理しなくていいよ。ゆっくり休もう」



 陽菜は少しだけ目を閉じ、深呼吸をした。

「ねえ、葵、私は……これからどうなるんだろう」



「わからないけど、俺は君のそばにいる。必ず」



「ありがとう……それだけで十分だよ」



 葵は陽菜の手を強く握り返し、彼女の顔を見つめた。

「ずっと一緒にいよう」



 陽菜はその言葉に小さくうなずき、目を閉じてまた微笑んだ。



 



 夕暮れが近づき、水族館の照明がやわらかく灯り始める頃、2人は出口へと向かった。

 外に出ると、空は淡いオレンジ色に染まっていた。



 陽菜は少し苦しそうに胸を押さえた。



 葵はすぐに腕を回し、支えた。

「無理しないで」



 陽菜は微笑みながらも、すぐに顔を伏せた。

「ありがとう、葵。今日のこと、一生忘れないよ」

 

 葵は彼女の言葉を胸に刻み、しっかりと抱きしめた。