春になった。満開の桜と木々の新緑、美しい草花がうららかな春の日差しに映えている。
無事に試験に合格し、今日から高校生活が始まる。
桜の花が舞う中、葵は正門を通った。
見渡す限り、ざっと200人ほどの生徒たちが、それぞれの不安や期待を胸に登校している。
「さて⋯⋯これからどうやって過ごそうかな。ネッ友に言われて頑張ったけど⋯⋯」
校舎を見る。3階建ての立派な校舎。屋上もあるようだ。
校舎の中心にある中庭は高い建物に囲まれており、日差しが届かず少し暗い。
昨日のことを思い出す。
合格の通知を受け取り、家に帰った葵は久しぶりにパソコンを開き、ゲームを立ち上げようとした。
しかし、画面にはこう表示された。
『アルヤさんは1週間前にゲームを削除しました』
あのネッ友僕に勇気とやる気をくれた、あの人が、ゲームをやめてしまっていた。
悲しかった。やっと自分が立ち直れたと思ったのに、もうその姿は見られないのかと。
スマホを見る。前に親に買ってもらった機種だ。
ロックを解除すると、通知画面に一通のメッセージが届いていた。
『ごめん、高校生になるし、色々忙しくなるからゲーム辞めるわ。せっかく俺らスマホで繋がってるんだしさ、電話で話そ?』
ホッとした。もう話せないのかと思っていたから。
嬉しくて、一滴だけ涙がこぼれた。
プルルルル⋯⋯。
3分間、電話をかけ続けた。でも、出ない。
もしかして忙しいのかと思う一方で、また悪い考えが頭をよぎる。
⋯⋯あのネッ友は、俺のことが嫌いになったんじゃないか?
そんなことを考えながら、正門を通り、校舎へ向かう途中で葵は立ち止まった。
風が強く吹き、葵の短い髪が揺れる。
強張った表情のまま、しばらく立ち尽くしていたが、意を決して玄関を通る。
教室には「1年3組」の室名札。
ドアを開けると、教室内はすでに賑わっていた。
「!?⋯⋯人多すぎ⋯⋯無理なんだけど⋯⋯」
小さく呟いて、そっと自分の席に腰を下ろす。
騒がしく笑う生徒たちもいれば、本を読んでいる人もいる。
葵の手は汗ばんでいた。久しぶりの学校、そして、家族以外の人前にいることが怖かった。
時間が経ち、チャイムが鳴る。
「皆さん、こんにちは」
ドアが開き、教室は静かになった。
前に立ったのは、背の高い男の先生。
「今日から皆さんの担任をさせていただくことになりました、紅井です。よろしくお願いいたします。」
「まずは、1人ずつ自己紹介をしていきましょうか。では、一番の天野さんから。」
最悪だ。お願い神様、時間を遅くして⋯⋯僕を助けて。
「では次、22番、西村くん、お願いします。」
嘘でしょ。時間が経つの、早すぎる。
「に、西村葵です⋯⋯よろしくです⋯⋯。」
耳は真っ赤に染まり、顔は真っ青なまま席に戻る。
終わった。やってしまった。変なやつって思われたに違いない。
チャイムが鳴る。
「あっ、それではこれで朝礼を終わります。礼。」
「ありがとうございました!」
「解散!」
周りの生徒が一斉に席を立ち、授業の準備を始める。
「優しそうな先生で良かったねー!」
「一時間目からサボろっかな〜」
くだらない。なんでみんな、こんなことばかり言うんだろう。
まだ時間があるし、トイレにでも行こうか。
そう思って席を立ち上がろうとしたそのとき。
「ねえ、西村くんだったよね⋯⋯?」
「えっ⋯⋯あっ⋯⋯梛川さん⋯⋯」
葵の後ろにいたのは、優しげな表情の女の子。名前は、梛川陽菜。
同じクラスの女子だ。
「ねえ、仲良くなろうよ!」
「え⋯⋯?」
こんなこと、リアルで言われたのは初めてだった。咄嗟に口が動く。
「なんで僕なんかと?もっといい人いるでしょ。こんな、人と目も合わせられない人なんかと、関わらないほうがいいよ。」
「えー、だって西村くん、私と相性良さそうだし?そんなこと言わないでよ。私、けっこう君のこと好きだよ?」
「は⋯⋯?」
え⋯⋯嘘でしょ。これはまずいことになるかもしれない。
ドクンッ⋯⋯ドクンッ⋯⋯
気づけば、自分は静かな体育館の真ん中にいた。
柔らかな太陽の光が差し込み、誰もいないはずの場所に、葵と梛川さん、2人だけが立っている。
「西村くん⋯⋯」
「はい⋯⋯」
「わ、私と⋯⋯付き合ってくれますか?」
「⋯⋯。」
さっきまでフランクだった彼女の口調が丁寧になり、顔は真剣に赤らんでいた。
それを見て、葵の胸もドキドキし始める。
「あの⋯⋯」
「うん?」
「いいけど⋯⋯僕、恋愛経験ゼロだし、中学校の頃まで不登校だったけど、それでもいいんですか?」
「いいよ!全然いい!あと⋯⋯付き合ってくれるの?」
「うん⋯⋯いいです」
「やった!」
その笑顔を見て、葵は思った。
今、初めて、女の子を可愛いって思えた。
今までは、自分をいじめてきた女子ばかりで、「女」そのものに苦手意識すらあった。でも、目の前の梛川さんは、そんな感情を少しずつとかしていく。信じてみてもいいかもしれない。そんな気がした。
「じゃあ、早速デートに行こーよ!」
「いいけど……どこ行くの?」
「んー、映画とか? そのあとスイーツ食べたり!」
「わかった。……エスコート、頼むね」
「任せて!」
さっきまで赤らめていた顔は、もうすっかり元に戻っていた。でも、できることなら――もう少しだけ、見ていたかった。
「帰ろっか」
「そうやね」
本通りへと続く階段を、ふたり並んで降りていく。
家に帰ると、いきなり母が声を上げた。
「どうだったの!?初日!」
「ん? ああ、楽しかったよ。それと……梛川さんって子と付き合うことになって、明日デートに行く」
「はぁ!? 初日で!?」
母の反応に続いて、リビングの奥にいた父まで驚いた顔を向けてきた。
「まじか、お前」
「……ちょっと失礼じゃない?」
「ま、まぁ……気をつけて行きなさいよ?」
「わかってるって」
翌朝。
財布、服、スマホ。準備を整えて家を出た。
待ち合わせ場所に着いて少し経つと、向こうから手を振りながら彼女が駆け寄ってきた。普段の制服姿とは全然違う。ふわりと揺れるスカート、明るい色のカーディガン、少しだけ巻かれた髪。
あまりに可愛くて、しばらく言葉が出なかった。
ドクン、ドクン……自分の心臓の音しか聞こえない。
「……西村くん?」
「えっ? あ、はい!」
「なんで敬語?」
「いや、なんでもない、です」
「ねえ、敬語やめてってば、笑」
「あ、わかった」
「ありがと!」
並んで映画館まで歩いていく。彼女の手が、時折さりげなく僕の手に触れてくる。たぶん、偶然じゃない。
映画館に着いて、チケットを選んでいると、彼女がスマホの画面を見せてきた。
「これ、今人気のやつ! 恋愛系なんだけど、いい?」
「うん、いいよ。見よう」
「やった!」
上映が始まり、彼女の膝にはポップコーン。キャラメル味らしい。僕は塩派だけど、なんだか今日はキャラメルも悪くない気がする。
ふと横を見ると、スクリーンの光を映した彼女の目が、きらきらと輝いていた。
「……綺麗な目だな」
そう思って見つめていたら、彼女と目が合った。
「!!」
慌てて目を逸らした僕の顎を、彼女がそっと掴む。ぐいっと顔を近づけられた。
……近い。近い。
スクリーンの明かりだけのはずなのに、お互いの頬が赤いことが、はっきりとわかる。
「やっぱ、まだ早いか!」
「え?な、何しようとしてたの?」
「秘密! いつか教えてあげる」
「そ、そう……」
「うん!」
その後もしばらく、小さな声で他愛のないことを話した。彼女は何度か僕を見て、何か言いたげに笑った。
上映が終わる頃、彼女はぼろぼろ泣いていた。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫!」
鼻をすすりながらも、泣き笑いを見せる彼女は、さっきよりずっと近い存在に思えた。
劇場を出て、歩きながら僕が言った。
「……朝から出かけてるし、そろそろお腹空かない?」
「だよね! 私も思ってた!なにか食べに行こうよ!」
「うん。どこか近くで探そうか」
ふたりは歩きながら、カフェを探し始めた。
ほどなくして、駅近のカフェにたどり着いた。木目調の看板とガラス張りの入り口が目印の、どこか落ち着いた雰囲気の店だ。
席に案内され、ふたり並んでメニューを開く。
「さっきの映画、おもしろかったね〜」
「うん、予想以上だった」
「泣いてたの、バレてた?」
「めちゃくちゃ」
「うわ〜、恥ずかしい⋯⋯」
彼女は笑いながら、メニューの端で顔を隠す仕草をした。照れてる顔も、可愛いと思ってしまう。
店員が水を置いていったタイミングで、彼女がぐっとこちらへ体を寄せてきた。
「あのさ、西村くんって頭いいんでしょ? 誰かが言ってた。よかったら、私に勉強教えてくれない?」
「え、別にいいけど⋯⋯。僕、頭良くないよ。中学の頃、不登校だったし、勉強も全然やってなかった」
言い終わってすぐ、しまったと思った。
彼女の表情が少し曇る。
「⋯⋯もう、不登校の話はいいよ。今はちゃんと通ってるじゃん。昔のことより、今でしょ?」
その声に、どこか寂しさが混じっていた。自分は、どうでもいい過去に縛られて、目の前の彼女の言葉をちゃんと受け止めていなかった。
「⋯⋯ごめん、梛川さん」
彼女の目が一瞬だけ丸くなる。
「別にいいよ。ていうか、私もちょっと言いすぎた、ごめん」
「うん⋯⋯」
気まずい空気を和らげるように、彼女が少しだけ明るい声で言った。
「あ、あとさ。恋人なんだし、そろそろ下の名前で呼び合わない?」
「え⋯⋯いいの?」
「それ私が聞きたいんだけど」
「じゃあ⋯⋯いいよ」
「やった! 改めてよろしく、葵!」
その一言で、胸の奥がドクンと跳ねた。
「⋯⋯うん。よろしく、陽菜」
彼女はニコッと微笑んだ。その笑顔は、どんな映画よりも、鮮やかだった。
「ねえ、葵、ここまで解けたんだけど⋯⋯見て?」
陽菜はノートをこちらに差し出した。見ると、一問だけ答えが間違っている。
「ここ。数字が1個ずれてる」
「えっ!? なんで一瞬で分かるの?!」
「いや、わかるでしょ⋯⋯」
ブツブツ言いながらも陽菜はノートを直し、もう一度こちらに見せてくる。
「ん⋯⋯できた」
「うん、今度は合ってるよ」
「やった〜!」
陽菜は嬉しそうに目を輝かせて、次の問題を指さした。
「次ここも教えて!」
「はいはい」
数分後。
ページをめくろうとした手が止まる。隣を見ると、陽菜は机に突っ伏して寝ていた。
「⋯⋯寝たのか、完全に。爆睡やん」
どうしたらいいか分からず、スマホを取り出してふとアプリを開く。
「あ、あの人だ」
久しぶりにネッ友のアイコンがオンラインになっていた。悩んだ末に、短くメッセージを送ってみる。
『カフェで彼女が寝てしまったんだけど、どうすればいいかな』
ほどなくして、返事が返ってきた。
『え、なんで急に 笑。まぁ、寝かせてあげて、少ししたら起こせばいいと思うよ』
『ありがとう』
『てか、彼女できたんだね』
『そうなんだよ』
その瞬間、視界の端に人の気配を感じて、スマホから目を上げた。
隣の陽菜が、こちらを覗き込んでいた。
スクリーンに映った文字を見て、彼女の目が小さく見開かれる。
「⋯⋯見ないでよ!」
思わず、声を上げてしまった。
「え〜、いいじゃん」
「いや、これだけは本当に見せたくない」
「わかったよ。ていうかさ、勉強ばっかりじゃつまんないし、なんか頼もうよ!」
「そうだな⋯⋯僕は、ブラックでいいかな」
「じゃあ、私はココア〜! 店員さ〜ん!」
元気な声に、カフェの空気が柔らかくなる。陽菜って、やっぱりいい子だな。
ふたりでカップを手に、のんびり話しながら飲む。ふと陽菜がスマホを構えて、写真を一枚撮った。
そのまま、カフェを出て電車に乗る。
「今日はありがとうね」
「ううん、私こそ楽しかった。また行こ!」
「うん。次、どこか行きたい場所ある?」
「う〜ん⋯⋯水族館とか?」
「あ〜、いいね。行こっか」
「やった〜!ありがとう!」
無事に試験に合格し、今日から高校生活が始まる。
桜の花が舞う中、葵は正門を通った。
見渡す限り、ざっと200人ほどの生徒たちが、それぞれの不安や期待を胸に登校している。
「さて⋯⋯これからどうやって過ごそうかな。ネッ友に言われて頑張ったけど⋯⋯」
校舎を見る。3階建ての立派な校舎。屋上もあるようだ。
校舎の中心にある中庭は高い建物に囲まれており、日差しが届かず少し暗い。
昨日のことを思い出す。
合格の通知を受け取り、家に帰った葵は久しぶりにパソコンを開き、ゲームを立ち上げようとした。
しかし、画面にはこう表示された。
『アルヤさんは1週間前にゲームを削除しました』
あのネッ友僕に勇気とやる気をくれた、あの人が、ゲームをやめてしまっていた。
悲しかった。やっと自分が立ち直れたと思ったのに、もうその姿は見られないのかと。
スマホを見る。前に親に買ってもらった機種だ。
ロックを解除すると、通知画面に一通のメッセージが届いていた。
『ごめん、高校生になるし、色々忙しくなるからゲーム辞めるわ。せっかく俺らスマホで繋がってるんだしさ、電話で話そ?』
ホッとした。もう話せないのかと思っていたから。
嬉しくて、一滴だけ涙がこぼれた。
プルルルル⋯⋯。
3分間、電話をかけ続けた。でも、出ない。
もしかして忙しいのかと思う一方で、また悪い考えが頭をよぎる。
⋯⋯あのネッ友は、俺のことが嫌いになったんじゃないか?
そんなことを考えながら、正門を通り、校舎へ向かう途中で葵は立ち止まった。
風が強く吹き、葵の短い髪が揺れる。
強張った表情のまま、しばらく立ち尽くしていたが、意を決して玄関を通る。
教室には「1年3組」の室名札。
ドアを開けると、教室内はすでに賑わっていた。
「!?⋯⋯人多すぎ⋯⋯無理なんだけど⋯⋯」
小さく呟いて、そっと自分の席に腰を下ろす。
騒がしく笑う生徒たちもいれば、本を読んでいる人もいる。
葵の手は汗ばんでいた。久しぶりの学校、そして、家族以外の人前にいることが怖かった。
時間が経ち、チャイムが鳴る。
「皆さん、こんにちは」
ドアが開き、教室は静かになった。
前に立ったのは、背の高い男の先生。
「今日から皆さんの担任をさせていただくことになりました、紅井です。よろしくお願いいたします。」
「まずは、1人ずつ自己紹介をしていきましょうか。では、一番の天野さんから。」
最悪だ。お願い神様、時間を遅くして⋯⋯僕を助けて。
「では次、22番、西村くん、お願いします。」
嘘でしょ。時間が経つの、早すぎる。
「に、西村葵です⋯⋯よろしくです⋯⋯。」
耳は真っ赤に染まり、顔は真っ青なまま席に戻る。
終わった。やってしまった。変なやつって思われたに違いない。
チャイムが鳴る。
「あっ、それではこれで朝礼を終わります。礼。」
「ありがとうございました!」
「解散!」
周りの生徒が一斉に席を立ち、授業の準備を始める。
「優しそうな先生で良かったねー!」
「一時間目からサボろっかな〜」
くだらない。なんでみんな、こんなことばかり言うんだろう。
まだ時間があるし、トイレにでも行こうか。
そう思って席を立ち上がろうとしたそのとき。
「ねえ、西村くんだったよね⋯⋯?」
「えっ⋯⋯あっ⋯⋯梛川さん⋯⋯」
葵の後ろにいたのは、優しげな表情の女の子。名前は、梛川陽菜。
同じクラスの女子だ。
「ねえ、仲良くなろうよ!」
「え⋯⋯?」
こんなこと、リアルで言われたのは初めてだった。咄嗟に口が動く。
「なんで僕なんかと?もっといい人いるでしょ。こんな、人と目も合わせられない人なんかと、関わらないほうがいいよ。」
「えー、だって西村くん、私と相性良さそうだし?そんなこと言わないでよ。私、けっこう君のこと好きだよ?」
「は⋯⋯?」
え⋯⋯嘘でしょ。これはまずいことになるかもしれない。
ドクンッ⋯⋯ドクンッ⋯⋯
気づけば、自分は静かな体育館の真ん中にいた。
柔らかな太陽の光が差し込み、誰もいないはずの場所に、葵と梛川さん、2人だけが立っている。
「西村くん⋯⋯」
「はい⋯⋯」
「わ、私と⋯⋯付き合ってくれますか?」
「⋯⋯。」
さっきまでフランクだった彼女の口調が丁寧になり、顔は真剣に赤らんでいた。
それを見て、葵の胸もドキドキし始める。
「あの⋯⋯」
「うん?」
「いいけど⋯⋯僕、恋愛経験ゼロだし、中学校の頃まで不登校だったけど、それでもいいんですか?」
「いいよ!全然いい!あと⋯⋯付き合ってくれるの?」
「うん⋯⋯いいです」
「やった!」
その笑顔を見て、葵は思った。
今、初めて、女の子を可愛いって思えた。
今までは、自分をいじめてきた女子ばかりで、「女」そのものに苦手意識すらあった。でも、目の前の梛川さんは、そんな感情を少しずつとかしていく。信じてみてもいいかもしれない。そんな気がした。
「じゃあ、早速デートに行こーよ!」
「いいけど……どこ行くの?」
「んー、映画とか? そのあとスイーツ食べたり!」
「わかった。……エスコート、頼むね」
「任せて!」
さっきまで赤らめていた顔は、もうすっかり元に戻っていた。でも、できることなら――もう少しだけ、見ていたかった。
「帰ろっか」
「そうやね」
本通りへと続く階段を、ふたり並んで降りていく。
家に帰ると、いきなり母が声を上げた。
「どうだったの!?初日!」
「ん? ああ、楽しかったよ。それと……梛川さんって子と付き合うことになって、明日デートに行く」
「はぁ!? 初日で!?」
母の反応に続いて、リビングの奥にいた父まで驚いた顔を向けてきた。
「まじか、お前」
「……ちょっと失礼じゃない?」
「ま、まぁ……気をつけて行きなさいよ?」
「わかってるって」
翌朝。
財布、服、スマホ。準備を整えて家を出た。
待ち合わせ場所に着いて少し経つと、向こうから手を振りながら彼女が駆け寄ってきた。普段の制服姿とは全然違う。ふわりと揺れるスカート、明るい色のカーディガン、少しだけ巻かれた髪。
あまりに可愛くて、しばらく言葉が出なかった。
ドクン、ドクン……自分の心臓の音しか聞こえない。
「……西村くん?」
「えっ? あ、はい!」
「なんで敬語?」
「いや、なんでもない、です」
「ねえ、敬語やめてってば、笑」
「あ、わかった」
「ありがと!」
並んで映画館まで歩いていく。彼女の手が、時折さりげなく僕の手に触れてくる。たぶん、偶然じゃない。
映画館に着いて、チケットを選んでいると、彼女がスマホの画面を見せてきた。
「これ、今人気のやつ! 恋愛系なんだけど、いい?」
「うん、いいよ。見よう」
「やった!」
上映が始まり、彼女の膝にはポップコーン。キャラメル味らしい。僕は塩派だけど、なんだか今日はキャラメルも悪くない気がする。
ふと横を見ると、スクリーンの光を映した彼女の目が、きらきらと輝いていた。
「……綺麗な目だな」
そう思って見つめていたら、彼女と目が合った。
「!!」
慌てて目を逸らした僕の顎を、彼女がそっと掴む。ぐいっと顔を近づけられた。
……近い。近い。
スクリーンの明かりだけのはずなのに、お互いの頬が赤いことが、はっきりとわかる。
「やっぱ、まだ早いか!」
「え?な、何しようとしてたの?」
「秘密! いつか教えてあげる」
「そ、そう……」
「うん!」
その後もしばらく、小さな声で他愛のないことを話した。彼女は何度か僕を見て、何か言いたげに笑った。
上映が終わる頃、彼女はぼろぼろ泣いていた。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫!」
鼻をすすりながらも、泣き笑いを見せる彼女は、さっきよりずっと近い存在に思えた。
劇場を出て、歩きながら僕が言った。
「……朝から出かけてるし、そろそろお腹空かない?」
「だよね! 私も思ってた!なにか食べに行こうよ!」
「うん。どこか近くで探そうか」
ふたりは歩きながら、カフェを探し始めた。
ほどなくして、駅近のカフェにたどり着いた。木目調の看板とガラス張りの入り口が目印の、どこか落ち着いた雰囲気の店だ。
席に案内され、ふたり並んでメニューを開く。
「さっきの映画、おもしろかったね〜」
「うん、予想以上だった」
「泣いてたの、バレてた?」
「めちゃくちゃ」
「うわ〜、恥ずかしい⋯⋯」
彼女は笑いながら、メニューの端で顔を隠す仕草をした。照れてる顔も、可愛いと思ってしまう。
店員が水を置いていったタイミングで、彼女がぐっとこちらへ体を寄せてきた。
「あのさ、西村くんって頭いいんでしょ? 誰かが言ってた。よかったら、私に勉強教えてくれない?」
「え、別にいいけど⋯⋯。僕、頭良くないよ。中学の頃、不登校だったし、勉強も全然やってなかった」
言い終わってすぐ、しまったと思った。
彼女の表情が少し曇る。
「⋯⋯もう、不登校の話はいいよ。今はちゃんと通ってるじゃん。昔のことより、今でしょ?」
その声に、どこか寂しさが混じっていた。自分は、どうでもいい過去に縛られて、目の前の彼女の言葉をちゃんと受け止めていなかった。
「⋯⋯ごめん、梛川さん」
彼女の目が一瞬だけ丸くなる。
「別にいいよ。ていうか、私もちょっと言いすぎた、ごめん」
「うん⋯⋯」
気まずい空気を和らげるように、彼女が少しだけ明るい声で言った。
「あ、あとさ。恋人なんだし、そろそろ下の名前で呼び合わない?」
「え⋯⋯いいの?」
「それ私が聞きたいんだけど」
「じゃあ⋯⋯いいよ」
「やった! 改めてよろしく、葵!」
その一言で、胸の奥がドクンと跳ねた。
「⋯⋯うん。よろしく、陽菜」
彼女はニコッと微笑んだ。その笑顔は、どんな映画よりも、鮮やかだった。
「ねえ、葵、ここまで解けたんだけど⋯⋯見て?」
陽菜はノートをこちらに差し出した。見ると、一問だけ答えが間違っている。
「ここ。数字が1個ずれてる」
「えっ!? なんで一瞬で分かるの?!」
「いや、わかるでしょ⋯⋯」
ブツブツ言いながらも陽菜はノートを直し、もう一度こちらに見せてくる。
「ん⋯⋯できた」
「うん、今度は合ってるよ」
「やった〜!」
陽菜は嬉しそうに目を輝かせて、次の問題を指さした。
「次ここも教えて!」
「はいはい」
数分後。
ページをめくろうとした手が止まる。隣を見ると、陽菜は机に突っ伏して寝ていた。
「⋯⋯寝たのか、完全に。爆睡やん」
どうしたらいいか分からず、スマホを取り出してふとアプリを開く。
「あ、あの人だ」
久しぶりにネッ友のアイコンがオンラインになっていた。悩んだ末に、短くメッセージを送ってみる。
『カフェで彼女が寝てしまったんだけど、どうすればいいかな』
ほどなくして、返事が返ってきた。
『え、なんで急に 笑。まぁ、寝かせてあげて、少ししたら起こせばいいと思うよ』
『ありがとう』
『てか、彼女できたんだね』
『そうなんだよ』
その瞬間、視界の端に人の気配を感じて、スマホから目を上げた。
隣の陽菜が、こちらを覗き込んでいた。
スクリーンに映った文字を見て、彼女の目が小さく見開かれる。
「⋯⋯見ないでよ!」
思わず、声を上げてしまった。
「え〜、いいじゃん」
「いや、これだけは本当に見せたくない」
「わかったよ。ていうかさ、勉強ばっかりじゃつまんないし、なんか頼もうよ!」
「そうだな⋯⋯僕は、ブラックでいいかな」
「じゃあ、私はココア〜! 店員さ〜ん!」
元気な声に、カフェの空気が柔らかくなる。陽菜って、やっぱりいい子だな。
ふたりでカップを手に、のんびり話しながら飲む。ふと陽菜がスマホを構えて、写真を一枚撮った。
そのまま、カフェを出て電車に乗る。
「今日はありがとうね」
「ううん、私こそ楽しかった。また行こ!」
「うん。次、どこか行きたい場所ある?」
「う〜ん⋯⋯水族館とか?」
「あ〜、いいね。行こっか」
「やった〜!ありがとう!」



