ああ、昨日は最悪だった。

 勝手に買い物に連れて行かれ、勝手に飯まで食わされて。



 ほんと、いつまでも変わらないんだな、あの親は。

 部屋の天井を見つめながら、葵は小さく吐き捨てた。

 やっぱり、人前は怖い。

 人の目を見ることができない。見られると、胸がざわつく。



 自分が、どこかで悪口を言われているんじゃないか。

 陰で笑われているんじゃないか。

 そんな妄想が止まらない。

 いや、妄想じゃない。事実だったことがある。

 だから、怖い。



 中学卒業まで、あと数ヶ月。

 けれど、高校に進む気力なんて、微塵もなかった。



 そんなある日。

 葵はふと思い立って、ネッ友に相談してみようと思った。

 パソコンを開き、ゲームを起動する。

 ロビー画面が表示されるとふと、思い出した。



 あの日、自分が「不登校だ」と打ち明けたときの、あの反応。

「そうなの」

「別に? 不登校でも、ネッ友はネッ友でしょ。」

「⋯⋯全然」

「うん⋯⋯」



 ⋯⋯あの時の反応。

 あれって、本当は僕に興味ないだけなんじゃないか?

 それとも、避けられてる⋯⋯?



 また、ネガティブ思考が止まらなくなっていく。

 考えれば考えるほど、自信が削られていく。



 バタンッ!

 ノートパソコンを勢いよく閉じた。

 もう、あいつは俺と話したくないんじゃないか。

 一緒にゲームするのも、面倒くさいんじゃないか。

 そう思いながら、もう一度ゆっくりパソコンを開く。



 フレンドリストに目をやると、そこには。



「⋯⋯あいつ、いる。ソロで⋯⋯バトロワか⋯⋯」

 たったそれだけのことで、胸がきゅっと痛んだ。

「⋯⋯忘れられてるのかな、俺⋯⋯」



 心がざわめく。

 「僕は、もうポジティブじゃない⋯⋯」

 「それは昔の話だよ⋯⋯」

 迷いながら、震える手でマウスを動かす。

 フレンドの名前をクリックし、招待を送ろうとした、そのとき。



 ピコン。

 画面に、先に招待が届いた。

「⋯⋯えっ」



 まさかの展開に、思わず声が漏れた。

 画面が切り替わり、次の瞬間。



『ちょっと話さない?』

 ボイスメッセージだった。

 ヘッドセットを装着し、接続すると。

 すぐに、相手の声が響いた。



「君さ⋯⋯高校、行くの?」



「!?」

 唐突な質問に、驚いて言葉を失う。



「⋯⋯今は行く気ないけど」

 葵は少し苛立ちながら答えた。

 この話題は、何度も大人たちから聞かされていたから。



「そっか。俺はね、高校行くために、今めっちゃ勉強頑張ってるんだ」



「そうなんだ⋯⋯がんばってね⋯⋯」

 気まずい空気が漂う。

 葵はそっとヘッドセットを外そうとしたそのとき。



「一緒に頑張ってみない?」



「⋯⋯えっ」

 バタンッ。

 またしても、ノートパソコンを閉じてしまった。

 心が追いつかない。



 時間を置いて、そっと開き直す。

 フレンド欄にはもう、あの人はいなかった。

 オフラインになっている。

 でも。

 ひとつ、通知が残っていた。



『気が向いたら教えて。一緒に頑張ろう』

 ただ、それだけの短いメッセージ。

 でも、それが葵の中で何かを動かした。

「⋯⋯やってみるか」



 その日から、ゲームを閉じた。

 代わりに、勉強に没頭した。

 気がつけば、毎日机に向かうのが日課になっていた。

 時間はあっという間に過ぎていく。

 入試まで、あと2日。



 行こうとしている高校は、偏差値63。

 少し前の自分なら「無理」と思っていた。



 でも今は。

 「僕なら行ける」と、心の底から信じていた。

 なぜこんなに必死になれるのか、もう思い出せないほど。

 ただ、もう止まれなかった。



 入試当日。

 緊張で手は冷たかったけれど、心は冷静だった。

「大丈夫、やれる。俺ならできる」

 全力を出し切った。

 そして、すべてが終わり、家に帰った。



「すべての力は出せた。⋯⋯あとは、結果次第だな」



 数ヶ月後。

 中学の卒業式。

「19番、長嶋耀。卒業おめでとう」

 拍手が湧く。

 

 続いて。

「20番、西村葵。卒業おめでとう」

 校長から卒業証書を渡される。

「……っす」



 少し強めに証書を受け取り、背を向ける。

 在校生、保護者、同級生。

 みんなの視線を浴びながら、葵はステージを早足で降りた。



 恥ずかしいとかではない。

 ただ、もうこの場所に未練はなかった。

 すべてが終わり、式場を後にする。

 周囲の生徒たちは涙を流していた。

 でも、葵は違った。



「みんな泣いてたけど⋯⋯俺は、いじめられてたからさ。⋯⋯いなくなってくれて嬉しいんだ」

 ぽつりと、小さな声でそうつぶやいて。

 家のドアを、そっと開けた。