僕の明日が、きみで満たされますように。

数日ぶりに、実家の玄関をくぐった。

 部屋の匂いはあの日と何も変わっていないのに、世界だけが酷く色を失っていた。



 僕の隣には、母さんと父さんが並んでいた。

 「……話がしたいんだ」

 と自分から言ったのは、いつぶりだっただろう。



 リビングに3人で座ると、母は僕の顔をまっすぐに見た。

 少し目の赤い父さんが、静かにコップに水を注いでくれた。

「陽菜ちゃん……亡くなったんだね」



「うん……昨日、病院で……間に合わなかった……」

 自分で口にしてみて、また現実の重さが襲ってくる。

 喉が詰まりそうになるのを、何度も息を吸いながら押し込んだ。



「そっか……そっか……」

 母さんが手を差し出して、僕の手を握った。

 父さんは何も言わなかったけれど、その目には涙が溜まっていた。



「……君は、彼女のために、ちゃんと生きてたよ。あの子が傍にいて、きっと君は……救われてたんだよね?」



「うん……」

 救われてた。どんな言葉よりも、その一言が、僕の胸を震わせた。



「もっと、彼女と話したかった。もっと笑わせてあげたかった……!僕は……!」

 涙がまたこぼれて止まらなかった。

 父さんは目をそらさず、僕の背をポン、と軽く叩いた。



「……行ってこい。陽菜ちゃんの家に」

 頷いた。言葉にならないまま、強く、何度も。



 その日の夕方。

 陽菜の家の玄関で、僕は深く頭を下げた。



「突然すみません……ご挨拶と……感謝を伝えに来ました」

 陽菜のお母さんが涙を堪えた顔で微笑み、招き入れてくれた。

 家の中には、線香の香りが静かに漂っていた。



「仏壇……お参り、させてください」

 そう言って立ち上がり、彼女の写真が飾られている前に座った。



 遺影の中で微笑む陽菜の顔が、そこにあった。

 白い花に囲まれて。いつか見た笑顔のまま、変わらずに。



 僕は、手を合わせた。

 何度も、何度も。

「陽菜……僕は、君に出会えて、本当に幸せだったよ……君が教えてくれたんだ、生きるって、こんなにもあたたかくて、儚いものなんだって」

「もっと……もっと、君にしてあげたかった。君がしてくれたように、今度は僕が、守ってあげたかった」

 手が震えていた。

 涙が仏壇の前の畳に落ちて、しずくの跡を残した。



「返してほしい……」

 自然に漏れたその言葉は、祈りのようで、願いのようで、本当はただの、弱さだった。



「陽菜を……返してよ……神様……ほんとうに」



 嗚咽がこぼれた。

 頭を抱え、肩が震える。誰の前でも見せなかったような、剥き出しの悲しみがあふれていく。



 「うわあああああああああああっ!!!!」

 声が、止まらなかった。

 仏壇の前で、泣き崩れて、畳を手で何度も叩いた。



「返して……陽菜を……僕の、大切な人を……!!」

 僕の背中に、陽菜の母さんの手がそっと添えられた。

 そのぬくもりが、彼女の一部のようで余計に、泣けた。



「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 何度も、僕は繰り返した。

 あのとき、もっと何かできたんじゃないか。

 もっと強く、そばにいるって言えば良かったんじゃないか。



「弱い僕で、ごめんなさい……笑わせてあげるって言ったのに……」

「君の命が、残り少ないってわかってたのに、僕は……」

「世界で一番……君が、好きだった……」



 涙の向こうで見えた、陽菜の笑顔。

 遺影の中のあの笑顔にもう触れられないと、ようやく理解したとき。



「……愛してたよ、心の奥まで全部、陽菜⋯⋯一生忘れない」



 

 仏壇の前での涙が少し落ち着いた頃、陽菜の母さんが言った。

「……陽菜の部屋、少し散らかってるけど、見ていってくれる?」

 

 頷いた。

 涙で濡れた目をこすりながら、僕は立ち上がり、2階へと続く階段をゆっくりと登っていく。



 ドアを開けた瞬間、胸の奥がギュッと締めつけられた。

 そこには、まるで陽菜が今でも生活しているかのような気配が残っていた。



 ベッドの上には、彼女が好きだったキャラクターのぬいぐるみ。

 机の上には、読みかけの本と、消しゴムのカス。

 床には小さなカーディガンが無造作に置かれていて。

 昨日まで、ここで生きていた証が、ありすぎるほどに残っていた。



 僕は何も言えずに、静かに部屋を見渡す。

 そして、机の上に置かれたノートに目が留まった。



 開いてみると、それは陽菜の「やりたいことリスト」だった。

《陽菜のやりたいことリスト》

 ・水族館に行く(達成)

 ・遊園地に行く(達成)

 ・星空を一緒に見る(達成)

 ・陽菜の家で手作り料理(達成)

 ・でっかい図書館に行く(達成)

 ・夜の海に行く(達成)

 ・葵に想いを伝える(達成)

 ・最期の学校(達成)

 ・ちゃんとお別れする(……)



 最後の一行だけ、滲んでいた。

 涙で、にじんだ跡がはっきり残っていた。



 たぶん……これを書いたときには、もう、わかっていたんだろう。

 自分の時間が、あとどれほどなのか陽菜だけが、分かっていた。

 ページをそっとめくると、そこにもう一枚、紙が挟まっていた。



 それは、あの日のデート帰りに一緒に撮った写真だった。

 観覧車の頂上で、2人で笑っている写真。



 ……僕、笑ってたんだな。

 陽菜もすごく幸せそうに。



「……なんでだよ」

 また涙が止まらなくなった。

 嗚咽が喉からこみあげて、部屋に音を立ててしまいそうだった。

 だけど、この部屋だけは、泣き声で汚したくなかった。

 ここは、陽菜が暮らしていた場所だから。



 だから僕は、小さな声で、何度もつぶやいた。

「ありがとう……ありがとう……本当に、ありがとう」



「陽菜……君が生きてくれて、僕に出会ってくれて、本当にありがとう……」



 そして僕は、机に残されたペンを手に取って、ノートの空いたページに一行、文字を綴った。



《僕の約束リスト》

 ・陽菜を忘れない。

 ・陽菜の夢を生きる。

 ・幸せになることを、怖がらない。

 ・世界で一番、陽菜を愛してたことを誇る。

 ・君がいなくても、僕は前に進む。その約束を、君に捧げる。



 文字は震えていた。

 涙がノートに何滴も落ちて、文字がにじんだ。

 だけど、何を書いたかは、忘れない。



 そして、机の引き出しの奥。

 彼女の文字がびっしりと並んだ、数冊のノートがあった。



 そうだ。

 ふたりで書いていた、小説。

 陽菜の夢。僕の夢。

 何もなかった僕らが、初めて共有できた、ひとつの未来。



 ノートを開いた瞬間、僕は息を呑んだ。

 そこには、最後の章の途中で止まった物語があった。

 彼女の文字は、ところどころ震えていて、最後の行は、書きかけのままだった。



「ねぇ、君に会えて、本当によかったって」

 そこで、途切れていた。



 何度読み返しても、どうしても涙が止まらなかった。

 こんなにも綺麗な言葉で、優しい感情で、彼女は物語を紡いでいた。

 その全部が、僕との思い出だった。僕との未来だった。



 机に突っ伏して、声を殺して泣いた。

 小説を書くのは、ただの夢じゃなかった。

 それは、ふたりが繋がっていられる手段だったんだ。

 いつかどこかで離れることになっても、同じ物語を生きていられるために。



 陽菜が遺したページに、そっとペンを取って続きを書いた。

「……僕も、君に会えてよかったって思ってる。世界中の奇跡が、この瞬間に重なった気がしてるよ。また、会おうね」



 ページを閉じた時、僕はもう一度泣いた。



 陽菜。

 君はもう、この世界にいないけど。

 君と僕が紡いだ物語は、まだ、終わってないよ。

 僕は、生きる。

 君の分まで、最後までこの物語を書ききる。