僕の明日が、きみで満たされますように。

「……陽菜……」

 言葉が、喉の奥で潰れていった。



 葵は自宅のドアを開けた途端、玄関に崩れ落ちた。

 床に膝をついたまま、頭を抱えて、呼吸が止まりそうになる。



 気づけば、シャツの前も袖も、ぜんぶ涙でぐっしょりと濡れていた。



「……嘘だろ……」

 陽菜のいない世界なんて、想像したこともなかった。

 彼女がいなくなるなんて、ずっと、どこか他人事のように思っていた。



 だからこそ、今、現実が牙を剥くようにのしかかってくる。

 息が苦しくて、声にならない悲鳴が喉の奥から溢れ出る。



 ドサッ。

 カバンが落ちた。

 手が震えて動かない。何も掴めない。



 「うあぁぁぁぁ……っ!!」

 声にならない叫びが、家の中に響いた。

 

 それは絶望の音だった。

 怒り、悲しみ、喪失、全部を詰め込んだ、むき出しの魂の音。



 「なんでだよ……!なんで……陽菜が、死ななきゃいけなかったんだよ!!返せよ!!神様、返せってば!!」



 涙でにじんだ視界のまま、何度も床を叩いた。拳を打ちつけた。

 叩いても叩いても、陽菜は帰ってこない。



「なんで……あんなに笑ってたのに……!なんでだよ……陽菜……陽菜ぁ……!」



 返事がないことが、こんなにも静かなものだなんて思わなかった。

 彼女のいない世界は、あまりにも無音で、色がなくて、ぬくもりがない。



 「僕には……」



 葵はうつ伏せになったまま、ぽつりと、呟いた。

 「僕には……何ができたんだろう……?」



 思い出す。

 彼女はいつも笑っていた。

 苦しいときでさえ、葵の前では笑って、元気そうに振る舞っていた。



 それを見て、大丈夫だって自分に言い聞かせていた。

 でも、本当は気づいてた。わかってた。

 彼女はもう、ずっと前から限界だったんだ。



 「……あんなに、彼女を幸せにすると……心に誓ったのに……」

 唇を噛み締める。血の味がした。



 「僕には……できやしなかった……!」

 声が震えた。

 

 涙がまた、床に落ちる。

 「何も、できなかったんだ……」



 どれだけ一緒に笑っても、手を繋いでも、星空の下で抱きしめても、あの病魔から陽菜を救うことはできなかった。



 無力だった。

 現実はいつだって冷たくて、残酷で、神様なんていないんだって、葵はこのとき、本当の意味で思い知った。



 どれくらい泣いていただろう。



 壁を殴るときの手の甲の痛みも、もう感じなかった。

 何もかもが終わった気がしていた。



 だが。

 ふと、何かが目に留まった。

 落としたカバンの中から、白い封筒がのぞいていた。

 その封筒には、綺麗な文字で、こう書かれていた。



 「葵へ」



 見た瞬間、時間が止まったように感じた。

 それは、間違いなく陽菜の字だった。



 指が震える。まるで、それに触れてしまったら陽菜が本当にいなくなる気がして。

 けれど、どうしても目をそらせなかった。



 「陽菜……」

 葵はそっと手を伸ばした。



 あんなに彼女を幸せにすると、心に誓ったのに。

 僕には、できやしなかった。

 だけど、もし。

 この手紙に、あの子の「幸せ」が描かれていたとしたら……?



 ほんの一滴でも、希望があるなら。

 葵はその言葉に、すがりたかった。



 震える手で、ゆっくりと封を開けた。

 まだ読んでいないその手紙が、葵の心の奥で静かに、何かを灯そうとしていた。

 その言葉が、陽菜が遺した「最後の愛」だったとは。

 このときの葵はまだ、知らなかった。