君がいた世界の色

走った。

 肺が張り裂けそうだった。

 脚がちぎれてもいいと本気で思った。

 ただ、間に合いたかった。

 陽菜に、間に合いたかった。



「頼む、どうか……どうか間に合って……!」

 葵は走りながら祈っていた。



 胸の中で、陽菜の笑顔が何度も蘇った。



 映画館の中で見せた、照れた顔。

 水族館で、ジンベエザメの水槽を見上げていたときの輝いた目。

 観覧車でのキス。

 星空の下で、泣きながら笑った夜。



 全部が、走る鼓動と一緒に蘇ってきて。



 ただ、1つの願いに変わった。



 間に合え。

 どうか、陽菜に。



 病院の自動ドアをくぐった瞬間、葵は受付に飛び込むように叫んだ。



「梛川陽菜さんの病室は!?まだ生きてますか!?意識ありますか!?」



「お、落ち着いてください、こちらです!」



 看護師に案内され、階段を駆け上がる。

 足がもつれて転びそうになるが、それでも立ち上がって走る。



 廊下を走り抜け、病室の前にたどり着いた。



 ドアの前で、一瞬だけ呼吸が止まった。

 聞こえるはずの心音モニターの音がドア越しに鳴っていない気がした。



 その不安を振り払うように、葵はドアを開けた。



 「陽菜!!」

 白くて静かな病室。



 そうして機械音が1つ、真っ直ぐに。



 

 ピ―――⋯⋯……⋯⋯⋯。



 

 心電図が、1本の線を描いていた。



 看護師たちが動き出していた。医師も急いで部屋に入ってくる。



 「心停止です!準備を!」



 「AED準備!酸素濃度下がってます!」



 「梛川さん、聞こえますか!?」



 だが、葵の世界は、音を失っていた。

 目の前のモニター。

 音を立てずに横たわる彼女。

 ずっと、夢だったらと思った。



「……陽菜……?」

 小さく呼びかける。応答はない。



「陽菜!ごめん……!僕、まだ……言ってないんだよ……!」



 葵は彼女の手を取った。冷たくなりかけていた。

「陽菜!ねえ、やだよ……っ。目、開けてよ……!お願いだよ……!」

「ねえ……僕は、君のことが。」

 

 声が震える。

 「……本気で好きなんだ。大好きなんだよ……愛してるんだよ……」



 



 涙が、ぽとぽとと陽菜のシーツに落ちた。

 彼女の胸は上下していない。酸素マスクももう意味をなさない。

 それでも、葵は手を握り続けた。



 看護師の声が遠くで聞こえる。

 「ご家族に連絡を……」

 「おそらく……もう……」



 だけど、葵は聞いていなかった。

 

 その時、突然。

 ピッ……ピッ……。

 一瞬だけ、モニターが音を鳴らした。



 誰もが動きを止める。



「……!?戻ってきた……?」

 しかし、それはほんの一瞬の奇跡。

 再び音は途絶え、モニターは無情にもまた、一直線を描いた。

 

 葵は、陽菜の手を離さなかった。

 その手の温もりが、完全に消えてしまうまで。

 この世界に、陽菜のぬくもりが一粒でも残っているうちは、彼女が生きていると、そう信じたかった。



 陽菜は何も言わずただ静かにそこにいた。

 

 葵は、それでも言い続けた。

「愛してるよ……陽菜。ずっと……」




「……ずっと、ずっと一緒だって、言ったのに」



 静かな夜が、病院の外に降りていた。

 桜の花びらが、病室の窓に舞っていた。

 まるで彼女を送るかのように。