僕の明日が、きみで満たされますように。

春の風がやさしく吹いた午後、陽菜は珍しく自室で過ごしていた。

 光がカーテン越しに差し込む。

 

 ベッドに腰かけ、本を開きながら、いつものように静かに微笑んでいた。

 少しだけ顔色が悪いことを、彼女自身が一番分かっていた。

 けれど、それを誰にも見せたくなくて、いつも通りを装っていた。



 午後3時を過ぎたころ。



 静かな部屋に、喉の奥からせり上がるような違和感。

 陽菜の口元から、赤いものが滲み出た。



「……っ」

 その瞬間、息を呑むような静寂が部屋を包み、 陽菜は震える手で口元を覆いながら、倒れこむようにベッドに横たわった。



 窓の外では、鳥のさえずりが聞こえていた。

 部屋の中では、ただ彼女の息がかすかに揺れる音だけが残った。



 病院から連絡が入ったのは、それからすぐだった。



「吐血……?!」

 葵の声。



「陽菜が……しゃべらなくなってだと……?」

 葵は何も考えられなかった。

 走って、全力で走って、病院にたどり着いた。



 白いシーツ。無機質な機械音。

 ガラスの向こうの病室では、酸素マスクをつけた陽菜が、まるで眠るように横たわっていた。



「陽菜……」

 声をかけても返事はない。

 いつものように笑ってくれない。目も開けてくれない。



 医師の言葉が葵の耳に突き刺さる。

「明日の夜が山でしょう。覚悟を」



 葵の頭の中で、何かが崩れた。

 涙が、止まらなかった。

 涙って、こんなに勝手に溢れるものなんだ。そう知ったのは、この日だった。



 家に帰っても、学校にいても、どこにいても涙が止まらなかった。

 電車の中でも、教室の隅でも、枕に顔を埋めた夜も。

 胸をえぐられるような喪失感が、喉元に詰まって、呼吸すらしづらかった。



「なんで……」



 夜の帰り道。誰もいないはずの路地裏で、葵は天を仰いで叫んだ。

「なんで、陽菜がッ⋯⋯!!」



 空はやけに静かだった。



 涙が頬を伝い、拳を握りしめた。

「死なないでよ……陽菜……神様、お願いです……僕の命がなくなってもいい。どうか……どうか、あの子を……助けてください……僕の命なんて……不登校で、誰ともまともに話せなくて、ネットでしか人と繋がれなくて……そんなどうしようもない僕の命なんかより……」



「……あの子のほうが、何倍も価値があるでしょ」



 「お願いだよ……」



 「……まだ、ちゃんと……言えてないんだよ……僕は君のことが、ほんとうに、本気で、好きだって。愛してるって……まだ……伝えられてないんだよ……」



 足元にポタリと落ちる涙。

 ふらふらと歩いていた帰り道の途中。



 ふと目の前に、数人の若者の影が現れた。

 いわゆるヤンキーと呼ばれる類の男たち。

 金髪、ピアス、煙草の匂い。夜中なのに騒がしく、笑いながら歩いていた。



 葵は思わず立ち止まった

 そして理不尽な怒りが、胸の奥から沸き上がった。



「……なんで」

 心の声が口から漏れた。



「なんで……こいつらみたいなのが元気に生きてるんだよ」

 怒りでも、妬みでもなく、ただ純粋な悲しみだった。



「どうせ犯罪とかして、親とか傷つけて、騒いで、酒飲んで……なんで……なんで、そんな奴らが……っ!なんで、陽菜ばっかり……!」



 拳を握りしめる。涙がこぼれる。

「何も悪いことしてない。普通の人の何倍も優しくて、努力して……誰かを幸せにしようとして……なんで、あんな子が……なんで病気なんだよ」



「こんなの不平等だろ……」



 男たちは、葵に気づくと、面倒そうに通り過ぎていった。

 その背中を見送りながら、葵は呟いた。

「……僕は、陽菜の病気のこと、ずっと前から知ってたのに。知らなかったふりをしてた……忘れてたんじゃない。思い出したくなかっただけなんだ……」



 自分の弱さが、悔しかった。

 思い出してしまった瞬間、何かが壊れてしまいそうだったから。

 陽菜の目をまっすぐに見ると、何もできない自分が見透かされそうで。



 だから、笑っていた。

 彼女と一緒に、夢を追って、リストを叶えて、普通の恋人のふりをして。



 でも今になって気づいた。

「ちゃんと向き合わなきゃいけなかったんだ。陽菜の未来と、過去と、命と全部と、ちゃんと……」



 風が吹いた。

 春の風。どこか冷たく、けれど懐かしい匂いがした。

 その匂いの向こうに、陽菜の声が聞こえた気がした。



 『ねえ、葵。私、生きてるって感じる瞬間、ちゃんとあるよ。君がいるから』



 葵は涙を拭い、立ち上がった。

 走った。もう迷っている暇はなかった。



 陽菜に、ちゃんと伝えなければならなかった。

 本当の気持ちを、ちゃんと。