その日は、朝から陽射しがやわらかかった。
カーテン越しに差し込む光は、春の匂いをふわりと部屋中に運んでいた。
病院のベッドで陽菜は静かに目を覚まし、隣の椅子でうたた寝している葵を見つめていた。
変わらない寝顔。どこか頼りなく、でも優しい眉の形。
あの頃、初めて話しかけられた階段の上を、ふと思い出していた。
小さな咳をすると、葵がぱちりと目を開ける。
「……起こしちゃった?」
「ん……ううん、起きる時間だった」
葵は眠そうにまばたきをしながら、ベッドに近づいて陽菜の髪を優しく撫でた。
「ねえ、今日は……お願いがあるの」
「うん。何でも言って」
陽菜は、少しはにかみながら言った。
「料理、したい……ふたりで」
病院に相談し、数時間だけ外出の許可をもらったふたりは、
午後の陽射しに包まれながら、葵の家のキッチンに立っていた。
エプロンを着けた陽菜は、病気とは思えないほど嬉しそうだった。
けれど、さすがに立ちっぱなしはできないので、キッチンチェアに座りながら、包丁を持つ。
「今日はオムライス……頑張る!」
陽菜の気合いに、葵は思わず笑ってしまった。
「陽菜、包丁は任せて。卵は任せてほしいんだけど」
「え~、なんで? 葵って、卵めっちゃ下手そうなんだけど」
「失礼な!」
ふたりの笑い声が、狭い台所にやさしく響いた。
コンロの火が点き、卵を焼く音、バターが溶ける香り。
フライパンをふる音と、タマネギを刻む音が重なって、まるでレストランのキッチンのようだった。
陽菜は、じっと卵が焼けていく様子を見つめながら、ぽつりと言った。
「ねえ……こういうの、ずっと続けばいいのにね」
葵は黙ってうなずいた。
「……うん。ほんとに」
できあがったオムライスは、少しいびつだけど、ちゃんと美味しそうだった。
ケチャップでお互いの名前を書き合って、写真を撮って。
「いただきます!」
ふたりの声が揃ったとき、まるで新婚夫婦のようだと、陽菜がふいに笑いだした。
「やだ、なんか変な感じ……でも、幸せだなあ」
「俺も⋯⋯じゃなかった、僕も、同じ気持ち」
「よし、減点ね」
「えっ」
ふたりで笑い合いながら食べたその味は、きっと一生忘れられない味になった。
午後。
陽菜は。
「もうひとつ、行きたいところがある」
と言った。
病院から借りた移動用の小型酸素ボンベを持って、向かったのは、海だった。
春の海。
観光地ではない、誰もいない、静かな浜辺。
どこまでも透明で、穏やかだった。
陽菜は、葵に手を引かれながら、ゆっくりと砂浜に降りる。
「わあ……すごい。海、やっぱり……大きいね」
陽菜の髪が風になびく。
肺に負担をかけないように息を浅く吸いながら、それでも彼女は顔を上げて海を見ていた。
「……小さい頃さ、よく家族で来たんだよ。お弁当持って、貝拾って……」
「……そうなんだ」
「でもね、今日の海が一番好きかも」
「どうして?」
「だって、隣に葵がいるから」
葵は何も言えなかった。
胸の奥が熱くなって、声が出なかった。
陽菜はそのまま、砂浜に座りこむ。葵も隣に腰を下ろす。
波の音だけが、ふたりを包んでいた。
しばらく黙っていた陽菜が、ふとつぶやいた。
「わたしさ、死ぬの、怖くないって初めは言ったけど……」
葵は、静かに彼女を見た。
「本当は、怖いよ。でも、それよりもっと怖いのは……忘れられること」
「忘れないよ」
「うん……でも、時間ってさ、すごくて。葵も、きっと、私のことをだんだん思い出さなくなる」
「陽菜」
葵は、彼女の手を握った。
「思い出が、薄れてもいい。けど、心は薄れない。君が生きた証は、僕の中にずっと残り続けるから」
陽菜の目に、再び涙が浮かんだ。
「……ずるいな、葵って」
「そう?」
「うん……でも、好き」
そして、陽菜は空を見上げた。
「ねえ、あの雲、ちょっとハートに見えない?」
「ほんとだ」
「……私達の天気も味方してるね」
夕陽が落ちて、空が茜色に染まっていく。
陽菜の肩に、そっと毛布をかけながら、葵は言った。
「今日の夢、また叶ったね」
「うん……ありがと」
「次は、どこに行こうか?」
陽菜は少し考えたあと、笑って言った。
「秘密。楽しみにしてて」
「……わかった。任せる」
海風が、ふたりの髪をそっと揺らしていた。
静かな春の海は、まだ少し冷たくて。
でも、それ以上に、ふたりの距離は、あたたかかった。
カーテン越しに差し込む光は、春の匂いをふわりと部屋中に運んでいた。
病院のベッドで陽菜は静かに目を覚まし、隣の椅子でうたた寝している葵を見つめていた。
変わらない寝顔。どこか頼りなく、でも優しい眉の形。
あの頃、初めて話しかけられた階段の上を、ふと思い出していた。
小さな咳をすると、葵がぱちりと目を開ける。
「……起こしちゃった?」
「ん……ううん、起きる時間だった」
葵は眠そうにまばたきをしながら、ベッドに近づいて陽菜の髪を優しく撫でた。
「ねえ、今日は……お願いがあるの」
「うん。何でも言って」
陽菜は、少しはにかみながら言った。
「料理、したい……ふたりで」
病院に相談し、数時間だけ外出の許可をもらったふたりは、
午後の陽射しに包まれながら、葵の家のキッチンに立っていた。
エプロンを着けた陽菜は、病気とは思えないほど嬉しそうだった。
けれど、さすがに立ちっぱなしはできないので、キッチンチェアに座りながら、包丁を持つ。
「今日はオムライス……頑張る!」
陽菜の気合いに、葵は思わず笑ってしまった。
「陽菜、包丁は任せて。卵は任せてほしいんだけど」
「え~、なんで? 葵って、卵めっちゃ下手そうなんだけど」
「失礼な!」
ふたりの笑い声が、狭い台所にやさしく響いた。
コンロの火が点き、卵を焼く音、バターが溶ける香り。
フライパンをふる音と、タマネギを刻む音が重なって、まるでレストランのキッチンのようだった。
陽菜は、じっと卵が焼けていく様子を見つめながら、ぽつりと言った。
「ねえ……こういうの、ずっと続けばいいのにね」
葵は黙ってうなずいた。
「……うん。ほんとに」
できあがったオムライスは、少しいびつだけど、ちゃんと美味しそうだった。
ケチャップでお互いの名前を書き合って、写真を撮って。
「いただきます!」
ふたりの声が揃ったとき、まるで新婚夫婦のようだと、陽菜がふいに笑いだした。
「やだ、なんか変な感じ……でも、幸せだなあ」
「俺も⋯⋯じゃなかった、僕も、同じ気持ち」
「よし、減点ね」
「えっ」
ふたりで笑い合いながら食べたその味は、きっと一生忘れられない味になった。
午後。
陽菜は。
「もうひとつ、行きたいところがある」
と言った。
病院から借りた移動用の小型酸素ボンベを持って、向かったのは、海だった。
春の海。
観光地ではない、誰もいない、静かな浜辺。
どこまでも透明で、穏やかだった。
陽菜は、葵に手を引かれながら、ゆっくりと砂浜に降りる。
「わあ……すごい。海、やっぱり……大きいね」
陽菜の髪が風になびく。
肺に負担をかけないように息を浅く吸いながら、それでも彼女は顔を上げて海を見ていた。
「……小さい頃さ、よく家族で来たんだよ。お弁当持って、貝拾って……」
「……そうなんだ」
「でもね、今日の海が一番好きかも」
「どうして?」
「だって、隣に葵がいるから」
葵は何も言えなかった。
胸の奥が熱くなって、声が出なかった。
陽菜はそのまま、砂浜に座りこむ。葵も隣に腰を下ろす。
波の音だけが、ふたりを包んでいた。
しばらく黙っていた陽菜が、ふとつぶやいた。
「わたしさ、死ぬの、怖くないって初めは言ったけど……」
葵は、静かに彼女を見た。
「本当は、怖いよ。でも、それよりもっと怖いのは……忘れられること」
「忘れないよ」
「うん……でも、時間ってさ、すごくて。葵も、きっと、私のことをだんだん思い出さなくなる」
「陽菜」
葵は、彼女の手を握った。
「思い出が、薄れてもいい。けど、心は薄れない。君が生きた証は、僕の中にずっと残り続けるから」
陽菜の目に、再び涙が浮かんだ。
「……ずるいな、葵って」
「そう?」
「うん……でも、好き」
そして、陽菜は空を見上げた。
「ねえ、あの雲、ちょっとハートに見えない?」
「ほんとだ」
「……私達の天気も味方してるね」
夕陽が落ちて、空が茜色に染まっていく。
陽菜の肩に、そっと毛布をかけながら、葵は言った。
「今日の夢、また叶ったね」
「うん……ありがと」
「次は、どこに行こうか?」
陽菜は少し考えたあと、笑って言った。
「秘密。楽しみにしてて」
「……わかった。任せる」
海風が、ふたりの髪をそっと揺らしていた。
静かな春の海は、まだ少し冷たくて。
でも、それ以上に、ふたりの距離は、あたたかかった。



