君がいた世界の色

春になった。



 桜が咲くにはまだ少し早い。

 それでも、校庭の木々はほんのりと色づき始めていた。

 風がやわらかく、冬の終わりを確かに告げている。



 その日、陽菜は再び制服を着ていた。

 けれど今回は、登校ではなく、卒業のために。



 朝、陽菜が病院から車椅子で校舎に現れたとき。

 校門に並ぶクラスメイトたちは、一斉に息をのんだ。



 その中心に、葵がいた。

 彼は少しだけ、涙ぐみそうな顔をしていたが、陽菜と目が合うと笑った。



「ようこそ、君の卒業式へ」



 陽菜も、笑って頷いた。

「ありがと。ちゃんと、来れたよ⋯⋯」



 体育館での卒業式が終わったあと、担任の先生がマイクを握り、壇上に立つ。



「今日は、もうひとり……大切な仲間に、お別れを言いたいと思います」



 会場が静かになる。



 陽菜が、車椅子に乗ったまま、ゆっくりと壇上に押されていく。

 葵がそのハンドルを握っていた。



 マイクの前に立った陽菜は、一度深く息を吸った。



「……こんにちは、皆さん。梛川陽菜です」

 声が、少し震えていた。



「本当は、もっとたくさん、みんなと笑って、喋って、過ごしたかったです。でも、それが難しくなってきて……最後に今日、こうしてここに来ることにしました」



 後ろに立つ葵が、そっと彼女の肩に手を置く。



「私……この学校が、大好きです。教室での会話も、笑い声も、全部全部、大切な思い出です」

 そして、彼女は一瞬だけ涙をぬぐい、微笑んだ。



「でも、私はここでお別れします。みんなと卒業することはできなかったけど……ちゃんと、心は一緒に進みます」



 拍手が、体育館いっぱいに広がる。



 クラスメイトたちも、先生たちも、目を赤くしていた。

 そのすべてを包むように、春の光が差し込んでいた。



 式が終わり、校門の前でみんなに見送られた陽菜は、病院には戻らず、葵と一緒に彼の家へと向かっていた。



 その途中、陽菜がふと不思議そうに言った。

「ねえ、なんで今日は……病院じゃなくて、葵の家に?」



「……ちょっと、見せたいものがあって」



「え?」



 それ以上は何も言わず、葵は車椅子を静かに押した。



 陽菜が、葵の部屋に入ったのは久しぶりだった。

 窓のカーテンは明るく開けられていて、春の光が柔らかく差している。



 その中央に、テーブルが置かれていた。

 テーブルの上には、小さな箱。



「……これ、なに?」

 陽菜が見つめると、葵は黙ってその箱を手に取り、膝をついた。



 陽菜の瞳が揺れる。

「え……?」



「陽菜⋯⋯」

 葵の声は、震えていた。

 だけど、その目は、まっすぐ彼女を見ていた。



「これは、プロポーズじゃない。婚約でもない……ただの、約束の指輪だよ」



 陽菜が、口元を手で覆う。



「君がもし、この世界から居なくなっても⋯⋯僕の心には一生、君がいる。……どんな姿になっても、君を愛し続けるっていう、ただそれだけの、約束」



 箱を開けると、そこには小さな、シルバーの指輪が入っていた。

 シンプルで、でもあたたかみのあるデザイン。



「僕は、もう決めた。次に会えたとき必ず、君と結婚するって。君の名前を、ちゃんと呼んで、君をまた好きになるって」



 言葉に嗚咽が交じる。

「……一生、愛するよ。陽菜」



 陽菜の瞳から、大粒の涙がこぼれた。

 そのまま顔をくしゃくしゃにしながら、彼に叫ぶ。



「……やだ⋯⋯」



 「えっ⋯⋯?」



 「やだよ葵……! わたし、まだ離れたくない!!」



 葵は手を伸ばし、陽菜の手を握った。

「離れないよ。絶対に。どこに行っても、ずっとそばにいる。君がいない時間も、君を愛し続ける」



 陽菜は、葵の胸に顔を埋めて、声をあげて泣いた。

「怖いよ……! 葵ともっといろんなとこ行きたかった!未来をもっと見たかった⋯⋯」



「見よう。これから先も、心でずっと一緒に見るんだよ」



 陽菜は小さな声で何度も何度もありがとうと繰り返した。

 その声が、葵の胸に深く、深く染み込んでいった。



 その日、指輪は陽菜の左手の薬指に収まった。

 指は少し細くなっていたけど、それでもちゃんと、ぴったりだった。



 陽菜は、それを見つめながら呟いた。

「……この指輪、きっと、何十年経っても色褪せない気がする」



「うん、色褪せない。僕たちの約束も」



 陽菜が涙に濡れた目で笑った。

「葵……大好き」



 葵も、涙を拭いながら笑う。

「僕も、大好きだよ、陽菜」



 窓の外、春風が静かに吹いていた。

 その風に、桜の蕾が、ほんの少しだけ開いたように見えた。

 約束の春が、今、確かにそこにあった。