翌日。
晩ごはんは、部屋の前に置かれていた。
今日は、手を伸ばして、それを取った。
「冷めてるな⋯⋯」
当然だった。
母さんが声をかけてきたのは、もう3時間も前のこと。
葵はようやくその扉を開け、ごはんを取る勇気が出たのだ。
いつもなら、空腹に耐えながらも手を伸ばせずにいた。
ただご飯を取りに行くだけなのに。どうして、こんなにも怖いのだろう?
「僕って、もしかして⋯⋯引きこもり⋯⋯?」
そう思った瞬間、背筋がぞくりとした。
自分自身が、一番怖い。
動物が怖い。人が怖い。
いやこの部屋の外側すべてが、怖い。
その翌朝。
土曜日、家族はみんな出かけていて家には誰もいない。
静かな家に響いたのは、インターホンの音だった。
「ピンポーン⋯⋯」
びくりと身体が跳ねた。
眠気も一気に吹き飛ぶ。
部屋の窓からそっと玄関を覗くと、そこには。
「せ、先生……?1年ぶり、じゃん⋯⋯なんで⋯⋯?」
担任の先生が、家の前に立っていた。
怖くなって、チャイムは無視することにした。
けれど、先生は諦めなかった。
ピンポン⋯⋯ピンポン⋯⋯ピンポン⋯⋯ピンポン⋯⋯。
「⋯⋯うるさいっての!」
我慢できなくなり、ついに葵は一階に降りた。
ドアを開ける。そして言い放った。
「何度も鳴らさないでください!なんでここに来たんですか?先生も、いじめの加勢者ですか!?」
「⋯⋯か、加勢者?」
言葉が固まり、空気が止まった。
数秒の沈黙の後、葵がぽつりと口を開く。
「⋯⋯あの、ここではなんですし⋯⋯中で話しませんか?」
「⋯⋯ああ、ありがとう」
リビングに並んで座ると、また沈黙が落ちた。
「さっきは⋯⋯怒鳴ってすみません。お茶、いりますか?」
「いや、大丈夫。それより⋯⋯『いじめの加勢者』って、どういうことかな?」
先生は、まっすぐにこちらを見つめていた。
「⋯⋯なんで⋯⋯?」
「さっきのお前の言葉で、思った。もしかして、学校でいじめられていたのか?」
問いかけに、葵は黙る。
言うべきか、黙るべきか。答えは1つではなかった。
「⋯⋯今は、言いたくないです」
先生は微かに笑った。寂しそうに。
「そっか。無理に言うつもりはないよ。⋯⋯今日はありがとう。じゃあ、帰るよ。話したくなったら、いつでも頼っていいからな」
「はい⋯⋯」
先生が玄関を出ると、葵は深く息を吐いた。
「⋯⋯何、言ってんの⋯⋯。今さら、いい先生ぶってさ⋯⋯」
あの人は、いじめを見て見ぬふりをしていた。
葵は、忘れていなかった。
その日の午後。
ベッドに横たわりながら、ふとつぶやいた。
「⋯⋯あーあ、階段下りちゃったな⋯⋯母さんに見られてたら、なんか言われそう⋯⋯」
目を閉じた。
カァ⋯⋯カァ⋯⋯。
カラスの鳴き声で目が覚めたときには、もう夕方だった。
時計は18時を指している。
家はまだ静かだった。家族はまだ帰っていない。
「⋯⋯今日の晩飯、カップラーメンでいっか」
段ボールをあさり、ひとつ取り出す。
お湯を沸かしている間、漫画を手に取った。
「やっぱ、これだよな。この漫画だけは、他とは違う⋯⋯面白さがある」
湯が沸く音がして、ラーメンに注ぐ。
3分後。
「うまい⋯⋯」
心の底から、そう思った。
「⋯⋯母さんには悪いけど、正直、母さんのご飯より美味いかも⋯⋯いや、母さんのも好きだけどさ⋯⋯」
でもカップラーメンは太る。それが問題だ。
「って、何考えてんだ⋯⋯」
どうでもいい独り言が、空間に溶けていった。
それから、日々は変わらず過ぎていった。
いつの間にか、中学卒業まで残り数ヶ月となっていた。
ある日、父が部屋の前に立ち、珍しく声をかけてきた。
「葵、高校⋯⋯行くのか?」
「⋯⋯!?」
不意打ちだった。
高校のことなんて、一度も考えたことがなかった。
「⋯⋯ほっといてよ」
「⋯⋯分かった」
静かに階段を下りていく父の足音だけが残った。
夜。
今日の夕飯を運んできたのは、母ではなく父だった。
「入っていいか?」
「え⋯⋯あ、うん」
ガチャ。
扉が開く音が、やけに長く感じた。
父が部屋に入ってくる。
「葵⋯⋯少し、話がある」
「⋯⋯うん」
「お前には、高校に行ってほしいと思ってる。将来のためにも、ちゃんと勉強して、頭を良くして」
「なんで⋯⋯こんな僕の心配をするの?」
沈黙。
父は、一瞬だけ口を閉じ、そしてぽつりと答えた。
「⋯⋯お前のこと、大切に思ってるからだよ」
その言葉に、葵は固まった。
何かが引っかかる。
「どうして⋯⋯」
気づけば、胸の奥がぎゅっと締めつけられていた。
その夜。
ネットの友達とボイスチャットを繋ぎながら、ゲームのロードを待っているとふと話したくなった。
「⋯⋯ねえ、言ってなかったけどさ。俺、不登校なんだよね」
「そうなの?」
「⋯⋯嫌じゃないの?ネッ友が不登校って⋯⋯」
「別に?不登校でも、俺たちネッ友だろ?それが何か?」
「⋯⋯うん。ありがとう、なんか、ちょっと救われた」
「⋯⋯うん」
ある日、母に買い物に誘われた。
「⋯⋯行かない。外、嫌だし」
そう断ったはずなのに気づけば車に乗っていた。
「なんで⋯⋯今、俺⋯⋯車に乗ってんの⋯⋯?」
しかも、隣には父の姿もある。
「葵、好きなもの何でも買ってやるぞ!」
は?
母さん、2人で行くって言ったじゃん⋯⋯嘘つき。
「はぁ⋯⋯」
わざと大きなため息をついた。
着いたのは、大型のショッピングモールだった。
無理やり連れてこられた割には、広さに少し圧倒される。
「勝手に見てていいわよ。私たちはあっち行ってくるから」
「⋯⋯意味わかんないな⋯⋯あ、いや、うん。わかった」
親たちは消えていき、葵は別の建物へと足を向けた。
エスカレーターに乗るのは、何年ぶりだろうか。
降りた先は、工具売り場だった。
「ドライバー⋯⋯ニッパー⋯⋯懐かしいな⋯⋯」
昔から、物を作るのが好きだった。
でも、店員に見られている気がして落ち着かない。
「⋯⋯」
一方その頃、両親は電化製品売り場にいた。
「電子レンジ、壊れちゃったからねぇ⋯⋯」
「でしたら、こちらなどいかがでしょう」
「10万6000円!?」
響く絶叫。
「⋯⋯すみませんっ!」
あわてて謝る両親。
その場をそそくさと離れる。
「⋯⋯気まずかったわね⋯⋯」
「まあ、いろいろ買えたし良かったんじゃない?」
「⋯⋯そうね」
そして、ふと我に返る。
「葵、呼びに行こっか⋯⋯」
カプセルトイの前でぼーっとしていた葵に、両親が声をかけた。
「あら、ここにいたのね。帰りましょ!」
「あ、うん」
と、その時。
「あ、さっき大声出してた人だー!」
通りがかった子どもが、指をさして叫んだ。
「!!」
「!?」
「⋯⋯え? どういうこと?」
「こらっ、しーっ!」
母は鬼の形相になり、低い声で言った。
「⋯⋯帰ろっか」
「⋯⋯はい」
思わず敬語になってしまった。
あの顔は、正直ちょっと怖かった。
車の中。
ため息が響く。
「はぁぁ⋯⋯」
でも、なんだろう。
安心してる顔だった。どこか、少しだけ。
「あれ? いつの間にか、母さんたちとちょっと親しくなってる?」
ふと、そう思った。気のせいかもしれないけれど。
しばらくして、母が言った。
「今日、夕飯作ってないから、外食にしましょ」
「そうだな」
「葵は?」
「⋯⋯別に、いいけど」
行き先はファミレスだった。
席について、母がメニューを広げる。
「葵は、何頼む?」
「じゃあ⋯⋯」
「わしはドリアでいいわ」
父の声に、言葉が止まる。
「⋯⋯⋯」
ちょっとだけ、嫌な気分になった。
「……で、葵は何頼むの?」
「……ピザ」
「は〜い」
晩ごはんは、部屋の前に置かれていた。
今日は、手を伸ばして、それを取った。
「冷めてるな⋯⋯」
当然だった。
母さんが声をかけてきたのは、もう3時間も前のこと。
葵はようやくその扉を開け、ごはんを取る勇気が出たのだ。
いつもなら、空腹に耐えながらも手を伸ばせずにいた。
ただご飯を取りに行くだけなのに。どうして、こんなにも怖いのだろう?
「僕って、もしかして⋯⋯引きこもり⋯⋯?」
そう思った瞬間、背筋がぞくりとした。
自分自身が、一番怖い。
動物が怖い。人が怖い。
いやこの部屋の外側すべてが、怖い。
その翌朝。
土曜日、家族はみんな出かけていて家には誰もいない。
静かな家に響いたのは、インターホンの音だった。
「ピンポーン⋯⋯」
びくりと身体が跳ねた。
眠気も一気に吹き飛ぶ。
部屋の窓からそっと玄関を覗くと、そこには。
「せ、先生……?1年ぶり、じゃん⋯⋯なんで⋯⋯?」
担任の先生が、家の前に立っていた。
怖くなって、チャイムは無視することにした。
けれど、先生は諦めなかった。
ピンポン⋯⋯ピンポン⋯⋯ピンポン⋯⋯ピンポン⋯⋯。
「⋯⋯うるさいっての!」
我慢できなくなり、ついに葵は一階に降りた。
ドアを開ける。そして言い放った。
「何度も鳴らさないでください!なんでここに来たんですか?先生も、いじめの加勢者ですか!?」
「⋯⋯か、加勢者?」
言葉が固まり、空気が止まった。
数秒の沈黙の後、葵がぽつりと口を開く。
「⋯⋯あの、ここではなんですし⋯⋯中で話しませんか?」
「⋯⋯ああ、ありがとう」
リビングに並んで座ると、また沈黙が落ちた。
「さっきは⋯⋯怒鳴ってすみません。お茶、いりますか?」
「いや、大丈夫。それより⋯⋯『いじめの加勢者』って、どういうことかな?」
先生は、まっすぐにこちらを見つめていた。
「⋯⋯なんで⋯⋯?」
「さっきのお前の言葉で、思った。もしかして、学校でいじめられていたのか?」
問いかけに、葵は黙る。
言うべきか、黙るべきか。答えは1つではなかった。
「⋯⋯今は、言いたくないです」
先生は微かに笑った。寂しそうに。
「そっか。無理に言うつもりはないよ。⋯⋯今日はありがとう。じゃあ、帰るよ。話したくなったら、いつでも頼っていいからな」
「はい⋯⋯」
先生が玄関を出ると、葵は深く息を吐いた。
「⋯⋯何、言ってんの⋯⋯。今さら、いい先生ぶってさ⋯⋯」
あの人は、いじめを見て見ぬふりをしていた。
葵は、忘れていなかった。
その日の午後。
ベッドに横たわりながら、ふとつぶやいた。
「⋯⋯あーあ、階段下りちゃったな⋯⋯母さんに見られてたら、なんか言われそう⋯⋯」
目を閉じた。
カァ⋯⋯カァ⋯⋯。
カラスの鳴き声で目が覚めたときには、もう夕方だった。
時計は18時を指している。
家はまだ静かだった。家族はまだ帰っていない。
「⋯⋯今日の晩飯、カップラーメンでいっか」
段ボールをあさり、ひとつ取り出す。
お湯を沸かしている間、漫画を手に取った。
「やっぱ、これだよな。この漫画だけは、他とは違う⋯⋯面白さがある」
湯が沸く音がして、ラーメンに注ぐ。
3分後。
「うまい⋯⋯」
心の底から、そう思った。
「⋯⋯母さんには悪いけど、正直、母さんのご飯より美味いかも⋯⋯いや、母さんのも好きだけどさ⋯⋯」
でもカップラーメンは太る。それが問題だ。
「って、何考えてんだ⋯⋯」
どうでもいい独り言が、空間に溶けていった。
それから、日々は変わらず過ぎていった。
いつの間にか、中学卒業まで残り数ヶ月となっていた。
ある日、父が部屋の前に立ち、珍しく声をかけてきた。
「葵、高校⋯⋯行くのか?」
「⋯⋯!?」
不意打ちだった。
高校のことなんて、一度も考えたことがなかった。
「⋯⋯ほっといてよ」
「⋯⋯分かった」
静かに階段を下りていく父の足音だけが残った。
夜。
今日の夕飯を運んできたのは、母ではなく父だった。
「入っていいか?」
「え⋯⋯あ、うん」
ガチャ。
扉が開く音が、やけに長く感じた。
父が部屋に入ってくる。
「葵⋯⋯少し、話がある」
「⋯⋯うん」
「お前には、高校に行ってほしいと思ってる。将来のためにも、ちゃんと勉強して、頭を良くして」
「なんで⋯⋯こんな僕の心配をするの?」
沈黙。
父は、一瞬だけ口を閉じ、そしてぽつりと答えた。
「⋯⋯お前のこと、大切に思ってるからだよ」
その言葉に、葵は固まった。
何かが引っかかる。
「どうして⋯⋯」
気づけば、胸の奥がぎゅっと締めつけられていた。
その夜。
ネットの友達とボイスチャットを繋ぎながら、ゲームのロードを待っているとふと話したくなった。
「⋯⋯ねえ、言ってなかったけどさ。俺、不登校なんだよね」
「そうなの?」
「⋯⋯嫌じゃないの?ネッ友が不登校って⋯⋯」
「別に?不登校でも、俺たちネッ友だろ?それが何か?」
「⋯⋯うん。ありがとう、なんか、ちょっと救われた」
「⋯⋯うん」
ある日、母に買い物に誘われた。
「⋯⋯行かない。外、嫌だし」
そう断ったはずなのに気づけば車に乗っていた。
「なんで⋯⋯今、俺⋯⋯車に乗ってんの⋯⋯?」
しかも、隣には父の姿もある。
「葵、好きなもの何でも買ってやるぞ!」
は?
母さん、2人で行くって言ったじゃん⋯⋯嘘つき。
「はぁ⋯⋯」
わざと大きなため息をついた。
着いたのは、大型のショッピングモールだった。
無理やり連れてこられた割には、広さに少し圧倒される。
「勝手に見てていいわよ。私たちはあっち行ってくるから」
「⋯⋯意味わかんないな⋯⋯あ、いや、うん。わかった」
親たちは消えていき、葵は別の建物へと足を向けた。
エスカレーターに乗るのは、何年ぶりだろうか。
降りた先は、工具売り場だった。
「ドライバー⋯⋯ニッパー⋯⋯懐かしいな⋯⋯」
昔から、物を作るのが好きだった。
でも、店員に見られている気がして落ち着かない。
「⋯⋯」
一方その頃、両親は電化製品売り場にいた。
「電子レンジ、壊れちゃったからねぇ⋯⋯」
「でしたら、こちらなどいかがでしょう」
「10万6000円!?」
響く絶叫。
「⋯⋯すみませんっ!」
あわてて謝る両親。
その場をそそくさと離れる。
「⋯⋯気まずかったわね⋯⋯」
「まあ、いろいろ買えたし良かったんじゃない?」
「⋯⋯そうね」
そして、ふと我に返る。
「葵、呼びに行こっか⋯⋯」
カプセルトイの前でぼーっとしていた葵に、両親が声をかけた。
「あら、ここにいたのね。帰りましょ!」
「あ、うん」
と、その時。
「あ、さっき大声出してた人だー!」
通りがかった子どもが、指をさして叫んだ。
「!!」
「!?」
「⋯⋯え? どういうこと?」
「こらっ、しーっ!」
母は鬼の形相になり、低い声で言った。
「⋯⋯帰ろっか」
「⋯⋯はい」
思わず敬語になってしまった。
あの顔は、正直ちょっと怖かった。
車の中。
ため息が響く。
「はぁぁ⋯⋯」
でも、なんだろう。
安心してる顔だった。どこか、少しだけ。
「あれ? いつの間にか、母さんたちとちょっと親しくなってる?」
ふと、そう思った。気のせいかもしれないけれど。
しばらくして、母が言った。
「今日、夕飯作ってないから、外食にしましょ」
「そうだな」
「葵は?」
「⋯⋯別に、いいけど」
行き先はファミレスだった。
席について、母がメニューを広げる。
「葵は、何頼む?」
「じゃあ⋯⋯」
「わしはドリアでいいわ」
父の声に、言葉が止まる。
「⋯⋯⋯」
ちょっとだけ、嫌な気分になった。
「……で、葵は何頼むの?」
「……ピザ」
「は〜い」



