僕の明日が、きみで満たされますように。

季節は、春に向かっていた。

 木々の葉はすっかり色を落とし、冷たい風が肌を刺す朝。

 それでも空はどこか澄んでいて、雲ひとつない青が広がっていた。



 そんな中、陽菜は制服を着ていた。

 スカートの下にはタイツ、胸元には小さなホッカイロ。

 病室の鏡の前で髪を整えながら、そっと頬を叩く。



「……よし、行こう」



 病院から学校まではタクシーだった。

 少しの歩行も、もう息があがるようになっていたが、それでも彼女は一歩一歩を確かめるように歩いた。



 久しぶりの校門。

 正門から見える景色は、まったく変わっていなかった。



 グラウンドでは体育の授業。廊下からはざわめき。

 その中に足を踏み入れた瞬間、まるで時間が巻き戻ったような感覚がした。



「……おかえり」



 そう声をかけたのは、クラスメイトの1人だった。

 その言葉が、妙に胸に刺さった。



 教室に入ると、みんなが一斉に振り返った。

 驚いたように目を見開く人もいれば、笑顔で手を振る人もいた。



 だが、その中で一番先に陽菜のもとへ駆け寄ってきたのは葵だった。



「陽菜……!」

 葵は、どこか言葉を詰まらせながらも、真っ直ぐに彼女を見ていた。



 陽菜は小さく笑った。



「ただいま」



 その一言に、教室の空気が和む。



 授業は受けなかった。

 ただ、みんなの会話を聞きながら、一緒に過ごした時間を少しずつ胸に刻んでいった。



 途中、担任の先生がやって来て、静かに陽菜に話しかける。



「……陽菜さん。本当に、今日来てくれてありがとう」



「……先生にも、最後にお礼言いたかったんです」



「まだ、最後じゃないよ。君の席は、ずっとここにある」

 その言葉に、陽菜の唇がかすかに震えた。

 

 けれど彼女は、ただ笑って頷いた。



 お昼のチャイムが鳴る前、陽菜は立ち上がる。



「みんな、ありがとう。今日、どうしても一度来たくて……でも、これが最後の登校になると思う」

 ざわめきが、ぴたりと止まる。



「私は、もう学校には来れない。でも……みんなと過ごした時間は、忘れません。ありがとうね」

 そう言って、頭を下げた。



 教室にいた全員が、何も言えなかった。

 ただ、胸の奥が締めつけられるように痛むのを感じていた。

 すすり泣く者もいた。

 そして、陽菜は静かに、教室を出た。



 葵も立ち上がった。



 「行ってくる」

 そう呟き、陽菜の後を追おうとしたそのとき。



「ちょっと、待って」

 葵の腕を掴んだのは、1人の男子だった。

 

 スマホ片手に、落ち着いた口調で言う。

「……話したいことがある。今じゃなきゃ、たぶん言えない」



「君……なんでここに?」

 あのネッ友だった。

 

 そう尋ねた葵に、彼は少しだけ頷いた。



 屋上のベンチに、2人は並んで座った。

「……君が、僕のあのネッ友だったなんて、全然気づかなかった」



「当然だよ。名前も顔も出してなかったし。俺も、まさか君の彼女が、あの子だなんて思ってなかった」



「……陽菜に、会ったことある?」



「ある。病院に、何度かお見舞いに行った」



 その言葉に、葵の指先がかすかに震えた。



「彼女、君の前では……すごく強がってて。笑ってて。でも……この前、病室で初めて泣いたんだ」



「……泣いた?」

 頷くネッ友は、ポケットから折りたたまれたメモ用紙を取り出す。

 それは、彼女がしたいことリストに書き加えていた小さな紙だった。



「これ、もらったんだ。……ほんとは君に渡すべきか迷ったけど、今なら、わかる気がする」



 葵は震える手でその紙を受け取り、目を通した。

 

 『本当の気持ちを誰かに伝えること』



「陽菜はね……言ってたよ。葵の前じゃ、弱音吐きたくないの。私のことを悲しい目で見てほしくないからって」



 ネッ友の声は震えていた。

 それでも、必死に言葉を継いだ。



「でも、俺の前では……彼女、泣き崩れたんだ。声を殺して、何度も怖いって。このままいなくなるのが怖い葵と離れるのが怖いって……!」



 言葉の先が、涙に飲まれていく。

 彼は両手で顔を覆ったまま、肩を震わせていた。



「……あんなに、泣いてたのにそれでも翌日にはまた、君の前で笑ってた……本当に⋯⋯彼女はどれだけ強いんだろうね」



 葵は何も言えなかった。

 ただ、胸の奥がギュウッと締め付けられて、息をするのも苦しかった。

 

 陽菜は、僕の前で一度もたくさんの涙を見せたことがなかった。

 それが優しさだったと、いまになって思い知る。



 自分を守ることよりも、僕の心を守ることを選んでいた。

 どれほどの痛みを抱えていたとしても。



「……ありがとう。本当に、君がいてくれて、よかった」

 葵は震える声でそう言った。



「彼女、ひとりじゃなかった。俺以外にも、支えてくれた人がいた……それだけで、救われる」



 陽菜はもう、病院へと戻ってしまった。



 だけど、次に会うとき、葵は彼女に、ちゃんと言おうと決めた。



「……陽菜、僕も怖いよ。でもね、最後まで、君といられることを、何よりも大切にする」



 風が強く吹いた。

 だけど、それはどこか優しい風だった。



 泣き崩れたネッ友の隣で、葵は空を見上げた。

 澄んだ冬の空。

 高く、高く、どこまでも透き通っていた。