「じゃーん!」
病室のカーテンを開けた葵の手には、ひらひらと揺れる小さなチケットが握られていた。
「……え?これって……」
「夜だけ開く、期間限定の遊園地。ちょうど今、冬のライトアップイベントやっててさ。行ける日が限られてるから、今しかないと思って……」
陽菜の目がゆっくりと丸くなっていった。
彼女の手元には、あのやりたいことリストがある。
その中で、葵が次に叶えたいと思ったのが「夜の遊園地に行ってみたい」だった。
「ほんとに、行けるの……?」
「うん。主治医にも相談した。付き添いがいれば短時間ならOKだって」
陽菜は、少しだけ口元に手を当てて、言葉を飲み込んだ。
それから、小さく震える声で呟く。
「……夢みたい」
葵はその手をそっと握った。
「夢じゃない。これから現実になる。今日の夕方、迎えに来るから、準備しといてね」
陽菜はコクンと頷いた。
その顔は、少女のような無垢な期待に満ちていた。
夕暮れどき、病院のロビーで葵が待っていると、エレベーターの扉が開いた。
陽菜が、ストールを羽織り、淡いワンピースを揺らしながら現れた。
「……綺麗だ」
「えっ、なに急に」
「いや、ほんとに。ライトより先に目が眩みそう」
「うまいこと言うなぁ……」
陽菜は照れくさそうに笑ったけど、その頬にはほんのり紅が差していた。
病院の車寄せでタクシーに乗り込み、街を抜け、やがて郊外の小高い丘の上へ。
そこに、まるで夜の花のように、ネオンが咲いていた。
「わぁ……」
陽菜が、ため息のように声を漏らす。
そこには、古びた観覧車とメリーゴーランド、それから、まばゆいイルミネーションの道が続いていた。
どこかレトロだけど、光の粒が夜風に踊るその景色は、陽菜の瞳にちゃんと映っていた。
「すごいね……ほんとに、夢みたい」
「行こう。まずは、入口のアーチをくぐらないと」
2人はゆっくりと歩き出す。
入口には、木でできたアーチがあり、カラフルな電飾が点滅していた。
その上に、「ようこそ、星降る遊園地へ」と書かれた文字が揺れている。
アーチをくぐった瞬間、風がふわっと髪を揺らした。
遠くから、音楽が聴こえてきた。メリーゴーランドの、懐かしいワルツのような旋律。
「わぁ……この音、なんか懐かしいね」
「うん。子どもの頃、行った遊園地を思い出す」
「私、行ったことなかったんだ。夜の遊園地は……」
「そっか……なら、今日が初めてだね」
「うん。初めての夜、初めての遊園地。そして、大好きな人と一緒に」
その一言が、葵の胸にやさしく降りてきた。
言葉にはしないけれど、陽菜の「大好き」という言葉が、今夜の光よりもあたたかく、葵の中に灯った。
最初に2人が向かったのは、メリーゴーランドだった。
光の輪がくるくると回りながら、馬たちが上下に揺れる。
周りを囲むイルミネーションが、金の装飾をきらきらと照らし出す。
「……乗れるかな」
「うん、大丈夫。スタッフさんがサポートしてくれるって言ってた」
陽菜は不安そうに歩いているけど、葵が支えると、彼女はゆっくりと馬にまたがることができた。
「わ……けっこう高い」
「大丈夫。落ちないように、ちゃんと支えてるから」
「……うん。ありがとう、葵」
やがて、音楽が鳴り響き、メリーゴーランドが回り始める。
夜風が頬をなで、光の粒が背後に流れていく。
陽菜の髪がふわりと揺れた。
彼女は遠くを見つめながら、ぽつりと呟く。
「……ずっと、夢だったの。こんな夜」
「それが叶って、ほんとに良かった」
「まだ終わってないよ。まだ、始まったばっかり。でしょ?」
葵は小さく笑って、頷いた。
「そうだね。まだまだ、回り続ける」
その言葉は、まるでふたりの時間のことのようだった。
限られた時間でも、こうして願いをひとつひとつ叶えていけば。
その記憶はきっと、止まらないまま、どこまでも回り続ける。
メリーゴーランドがゆっくりと止まるころには、陽菜の頬は風で赤く染まっていた。
彼女の目には、涙がたまっているようにも見えたけれど、それを言葉にはしなかった。
「……次は、どこに行こっか?」
「葵が行きたいところ。陽菜のリスト、まだたくさんあるけど、今日は2人で冒険って感じで行こうよ」
「ふふ、じゃあ。観覧車に行ってみたいな」
そうして2人は、また新しい光の方へと歩き出した。
メリーゴーランドを降りたあとも、ふたりは園内の光の小道を歩いた。
冬の夜は少し肌寒く、陽菜は肩をすくめながら、葵の腕にそっと寄り添う。
「ねぇ……最後に、あそこに乗ろうよ」
陽菜が指さしたのは、夜空にゆっくりと浮かぶ観覧車だった。
遠くからでも、そのゴンドラはまるで星のようにキラキラと光っていて、時間ごとに色を変えていた。
「……うん。行こう」
観覧車の前まで来ると、係員が静かに説明をしてくれた。
陽菜が乗れるようにと、座席が低めのゴンドラに案内してくれる。
ゆっくりと扉が閉まると、まるでふたりだけの小さな宇宙が始まったようだった。
外の光も、街のざわめきも遠くに溶けて、ただ、葵と陽菜の心臓の鼓動だけが近くにある。
「……静かだね」
「うん。こんなに静かなのに、胸の音だけはすごく大きく聞こえる」
「それ、私も……同じ」
ゴンドラがゆっくりと高度を上げていく。
窓の外に広がる夜景は、まるで宝石箱をひっくり返したみたいだった。
そのとき。陽菜が、ぽつりと口を開く。
「ねえ、葵。ひとつだけ、言ってもいい?」
「うん?」
「私ね……生まれてからずっと、普通にあこがれてたの。朝起きて、制服着て、教室で友だちと笑って、放課後に誰かと駅まで歩いて……」
その声は、まっすぐで、それでいて壊れそうなくらい繊細だった。
「でも、病気があるってわかったときから、全部特別になっちゃった。私だけ違う、って、どこかで線を引いてた。勝手に、ひとりでさ」
「……⋯」
「でも、葵と会って、あの階段で話したあの日から、少しずつ変わった。普通じゃない私にも、誰かと笑っていられる時間があるんだって」
葵は言葉が出なかった。
ただ、その手を、静かに握り返すことしかできなかった。
「ありがとう、葵」
「俺⋯⋯いや、僕こそ⋯⋯」
陽菜がくすっと笑った。
「僕って、たまに出る俺より優しいよね……好きだな、そういうとこ」
冗談めかして言ったその言葉が、どこかあたたかくて、観覧車の小さな空間に灯りをともす。
ゴンドラは、やがてゆっくりと頂上へ近づいていく。
空に近づくにつれ、ふたりの間の言葉は、だんだん少なくなった。
ただ手を握り、体温で確かめ合うだけ。
そのときだった。
陽菜が、ふっと目を閉じた。
次の瞬間、彼女は立ち上がる。
重ねていた手がすっと離れ、葵は驚いて声を上げる。
「え、陽菜……? 危ないから」
言いかけたその瞬間だった。
陽菜が、ぐいっと体を前に倒し、葵の顔を両手で包み込んで、そのまま唇を重ねた。
時間が止まった。
空気すら、息を飲んだようだった。
柔らかくて、あたたかくて、少しだけ涙の味がするような、そんなキスだった。
陽菜はゆっくり顔を離すと、微笑んで、言った。
「……いつか教えるって、言ったでしょ?」
葵は何も言えなかった。
心臓の音が、観覧車の天井まで響いていそうで、ただ黙って陽菜を見つめることしかできなかった。
「……あの時、映画館で顔を近づけたとき、ほんとは、こうしたかったの。でも、まだ今じゃないって、自分で止めた」
「うん……」
「でもね、もう我慢しない。したくないの。私は、葵のことが、好きだから。全部、好きだから」
葵の目に、涙がたまる。
「陽菜……」
「言葉にしなくていいよ。私、ちゃんとわかってる。今だけでも、十分。これだけでも、幸せだよ」
外の夜景が、星みたいに瞬いていた。
観覧車のてっぺん、ふたりだけの空。
小さな空間で交わされたキスは、まるで永遠のように、そこに残った。
ゴンドラがゆっくりと降りていく間、ふたりはもう何も言葉を交わさなかった。
でも、その沈黙は、やさしく、そして深かった。
地上が近づいてくると、陽菜がぽつりと呟いた。
「この景色、ぜったい忘れないように、目に焼きつけた」
「……僕もずっと、忘れない」
扉が開いたとき、ふたりの手はしっかりと繋がっていた。
夜の遊園地の風が、そっとふたりを包み込む。
風は少し冷たくなってきていたけれど、手をつないでいれば、それすらもどこか心地よかった。
陽菜の横顔はまだ少し赤らんでいて、葵の胸はその余韻でずっと高鳴っていた。
「ねえ……まだ、帰りたくないな」
「……うん僕も」
葵がそう返すと、陽菜はふわりと笑った。
「お腹、すいてない?」
「……ちょっと」
「じゃあ、せっかくだし、あそこ行こ」
陽菜が指差したのは、観覧車のふもとにある、イルミネーションに包まれた小さなレストラン。
テラス席のまわりにはライトアップされた木々が並び、まるで映画のワンシーンのような光景が広がっていた。
レストランの中は、やわらかな照明と落ち着いた音楽に包まれていて、ふたりは窓際の席に通された。
メニューを広げながら、陽菜はふと目を細めた。
「こういうの、憧れてた。夜にちょっとおしゃれなお店で、恋人とごはん。なんてことないけど、すごく特別に思えて……変かな?」
「全然。僕も……今日の全部が特別に感じる」
「うん⋯⋯同じ」
ふたりは、パスタとスープ、そしてデザートに小さなケーキを頼んだ。
料理が運ばれてくるまでの間、窓の外の観覧車を見ながら、ぽつぽつと話す。
「さっきの……キス、びっくりした?」
「……うん。けど、嬉しかった」
「そう。……よかった」
陽菜はスプーンを持ったまま、少しだけ視線を落とす。
そしてゆっくり顔を上げた。
「たぶん、今日の夜のこと、死んでも忘れられないな」
「僕も。たぶん……これから何があっても、この日のことは心に残ってる」
料理はどれも美味しかった。
だけどそれ以上に、陽菜とこうして同じものを食べ、同じ時間を過ごしていることが、何より心に染みた。
食事を終えた後、ふたりはレストランを出た。
遊園地の外れにある湖に向かって、静かに歩いていく。
そこには、観光客向けのボート乗り場があった。
ライトアップされた湖面には、夜空とイルミネーションの光がゆらゆらと映っていた。
「……乗ってみよっか?」
「うん」
葵がスタッフに声をかけて、ふたりは並んでボートに乗った。
手漕ぎではなく、ゆっくりと進む電動ボートだった。
まるで時が止まったみたいに、静かな湖面をすべるように進んでいく。
ふたりの間にはしばらく沈黙があった。
でも、それは不自然じゃなかった。言葉を交わさなくても、お互いの心が、ちゃんとそこにあるとわかっていたから。
ふいに、陽菜がぽつりと呟く。
「……ねえ、葵。ほんとはね、もっと生きたいって、思ってるんだよ」
その声は、とても静かだったけれど、葵の胸に深く響いた。
「もっと色んなことがしたい。色んな景色が見たい。もっと、葵と一緒にいたい……ほんとは、ずっとずっと、いたいんだよ」
「陽菜……」
「でも、私の体は、それを許してくれない。時間は、容赦なく流れていく。だからこそ……今が、すごく愛おしいの」
葵は言葉が出なかった。
その想いの重さを、軽はずみに受け止めるには、自分はあまりにも小さかった。
それでも。
自分の気持ちだけは、伝えたかった。
ボートの上、葵は陽菜の手を取った。
「僕も……陽菜と、ずっといたい。これからも、できるだけ一緒にいたいって、思ってる」
陽菜が、驚いたように目を見開く。
「……葵?」
そして次の瞬間。
葵は、そっと陽菜の方に体を傾けた。
顔を近づけ、ふたりの距離が静かに縮まっていく。
観覧車のキスのときとは違う。今度は、葵から。
唇が重なったとき、陽菜の肩がわずかに震えた。
それでも、ふたりは目を閉じ、そっとその温もりを交わし合った。
音のない湖の上。
星が水面にゆれていた。
風も、木々も、何もかもがふたりの時間を祝福しているようだった。
キスが終わったあとも、しばらく陽菜は何も言わなかった。
でもその頬には、あたたかな涙が一筋、光っていた。
「……ありがとう。今日という日を、世界でいちばん美しい日にしてくれて」
「僕の方こそ、ありがとう」
ふたりは再び手を取り合い、ゆっくりと桟橋に戻るボートの揺れの中で、寄り添ったまま静かに目を閉じた。
遊園地を出るころには、もう日付が変わる直前だった。
駅までの道を歩きながら、陽菜がふと立ち止まる。
「ねえ、葵……夢って、叶うんだね」
彼女の目はどこか遠くを見ていた。
「でもね、叶えた瞬間から、少し寂しくなる。もう終わっちゃうんじゃないかって、不安になっちゃう」
「終わらせないよ。僕が、終わらせない」
陽菜がゆっくりと振り向き、笑った。
その笑顔はどこか切なくて、でも力強かった。
「……うん。信じてるよ」
帰りの電車の中、陽菜は葵の肩にもたれて、目を閉じた。
その寝息は小さくて、安心しているようで、どこか儚くもあった。
葵は、陽菜の手をそっと握った。
夜は深まり、街の灯りが窓の外を流れていった。
ふたりの今日という日が、静かに幕を閉じていく。
病室のカーテンを開けた葵の手には、ひらひらと揺れる小さなチケットが握られていた。
「……え?これって……」
「夜だけ開く、期間限定の遊園地。ちょうど今、冬のライトアップイベントやっててさ。行ける日が限られてるから、今しかないと思って……」
陽菜の目がゆっくりと丸くなっていった。
彼女の手元には、あのやりたいことリストがある。
その中で、葵が次に叶えたいと思ったのが「夜の遊園地に行ってみたい」だった。
「ほんとに、行けるの……?」
「うん。主治医にも相談した。付き添いがいれば短時間ならOKだって」
陽菜は、少しだけ口元に手を当てて、言葉を飲み込んだ。
それから、小さく震える声で呟く。
「……夢みたい」
葵はその手をそっと握った。
「夢じゃない。これから現実になる。今日の夕方、迎えに来るから、準備しといてね」
陽菜はコクンと頷いた。
その顔は、少女のような無垢な期待に満ちていた。
夕暮れどき、病院のロビーで葵が待っていると、エレベーターの扉が開いた。
陽菜が、ストールを羽織り、淡いワンピースを揺らしながら現れた。
「……綺麗だ」
「えっ、なに急に」
「いや、ほんとに。ライトより先に目が眩みそう」
「うまいこと言うなぁ……」
陽菜は照れくさそうに笑ったけど、その頬にはほんのり紅が差していた。
病院の車寄せでタクシーに乗り込み、街を抜け、やがて郊外の小高い丘の上へ。
そこに、まるで夜の花のように、ネオンが咲いていた。
「わぁ……」
陽菜が、ため息のように声を漏らす。
そこには、古びた観覧車とメリーゴーランド、それから、まばゆいイルミネーションの道が続いていた。
どこかレトロだけど、光の粒が夜風に踊るその景色は、陽菜の瞳にちゃんと映っていた。
「すごいね……ほんとに、夢みたい」
「行こう。まずは、入口のアーチをくぐらないと」
2人はゆっくりと歩き出す。
入口には、木でできたアーチがあり、カラフルな電飾が点滅していた。
その上に、「ようこそ、星降る遊園地へ」と書かれた文字が揺れている。
アーチをくぐった瞬間、風がふわっと髪を揺らした。
遠くから、音楽が聴こえてきた。メリーゴーランドの、懐かしいワルツのような旋律。
「わぁ……この音、なんか懐かしいね」
「うん。子どもの頃、行った遊園地を思い出す」
「私、行ったことなかったんだ。夜の遊園地は……」
「そっか……なら、今日が初めてだね」
「うん。初めての夜、初めての遊園地。そして、大好きな人と一緒に」
その一言が、葵の胸にやさしく降りてきた。
言葉にはしないけれど、陽菜の「大好き」という言葉が、今夜の光よりもあたたかく、葵の中に灯った。
最初に2人が向かったのは、メリーゴーランドだった。
光の輪がくるくると回りながら、馬たちが上下に揺れる。
周りを囲むイルミネーションが、金の装飾をきらきらと照らし出す。
「……乗れるかな」
「うん、大丈夫。スタッフさんがサポートしてくれるって言ってた」
陽菜は不安そうに歩いているけど、葵が支えると、彼女はゆっくりと馬にまたがることができた。
「わ……けっこう高い」
「大丈夫。落ちないように、ちゃんと支えてるから」
「……うん。ありがとう、葵」
やがて、音楽が鳴り響き、メリーゴーランドが回り始める。
夜風が頬をなで、光の粒が背後に流れていく。
陽菜の髪がふわりと揺れた。
彼女は遠くを見つめながら、ぽつりと呟く。
「……ずっと、夢だったの。こんな夜」
「それが叶って、ほんとに良かった」
「まだ終わってないよ。まだ、始まったばっかり。でしょ?」
葵は小さく笑って、頷いた。
「そうだね。まだまだ、回り続ける」
その言葉は、まるでふたりの時間のことのようだった。
限られた時間でも、こうして願いをひとつひとつ叶えていけば。
その記憶はきっと、止まらないまま、どこまでも回り続ける。
メリーゴーランドがゆっくりと止まるころには、陽菜の頬は風で赤く染まっていた。
彼女の目には、涙がたまっているようにも見えたけれど、それを言葉にはしなかった。
「……次は、どこに行こっか?」
「葵が行きたいところ。陽菜のリスト、まだたくさんあるけど、今日は2人で冒険って感じで行こうよ」
「ふふ、じゃあ。観覧車に行ってみたいな」
そうして2人は、また新しい光の方へと歩き出した。
メリーゴーランドを降りたあとも、ふたりは園内の光の小道を歩いた。
冬の夜は少し肌寒く、陽菜は肩をすくめながら、葵の腕にそっと寄り添う。
「ねぇ……最後に、あそこに乗ろうよ」
陽菜が指さしたのは、夜空にゆっくりと浮かぶ観覧車だった。
遠くからでも、そのゴンドラはまるで星のようにキラキラと光っていて、時間ごとに色を変えていた。
「……うん。行こう」
観覧車の前まで来ると、係員が静かに説明をしてくれた。
陽菜が乗れるようにと、座席が低めのゴンドラに案内してくれる。
ゆっくりと扉が閉まると、まるでふたりだけの小さな宇宙が始まったようだった。
外の光も、街のざわめきも遠くに溶けて、ただ、葵と陽菜の心臓の鼓動だけが近くにある。
「……静かだね」
「うん。こんなに静かなのに、胸の音だけはすごく大きく聞こえる」
「それ、私も……同じ」
ゴンドラがゆっくりと高度を上げていく。
窓の外に広がる夜景は、まるで宝石箱をひっくり返したみたいだった。
そのとき。陽菜が、ぽつりと口を開く。
「ねえ、葵。ひとつだけ、言ってもいい?」
「うん?」
「私ね……生まれてからずっと、普通にあこがれてたの。朝起きて、制服着て、教室で友だちと笑って、放課後に誰かと駅まで歩いて……」
その声は、まっすぐで、それでいて壊れそうなくらい繊細だった。
「でも、病気があるってわかったときから、全部特別になっちゃった。私だけ違う、って、どこかで線を引いてた。勝手に、ひとりでさ」
「……⋯」
「でも、葵と会って、あの階段で話したあの日から、少しずつ変わった。普通じゃない私にも、誰かと笑っていられる時間があるんだって」
葵は言葉が出なかった。
ただ、その手を、静かに握り返すことしかできなかった。
「ありがとう、葵」
「俺⋯⋯いや、僕こそ⋯⋯」
陽菜がくすっと笑った。
「僕って、たまに出る俺より優しいよね……好きだな、そういうとこ」
冗談めかして言ったその言葉が、どこかあたたかくて、観覧車の小さな空間に灯りをともす。
ゴンドラは、やがてゆっくりと頂上へ近づいていく。
空に近づくにつれ、ふたりの間の言葉は、だんだん少なくなった。
ただ手を握り、体温で確かめ合うだけ。
そのときだった。
陽菜が、ふっと目を閉じた。
次の瞬間、彼女は立ち上がる。
重ねていた手がすっと離れ、葵は驚いて声を上げる。
「え、陽菜……? 危ないから」
言いかけたその瞬間だった。
陽菜が、ぐいっと体を前に倒し、葵の顔を両手で包み込んで、そのまま唇を重ねた。
時間が止まった。
空気すら、息を飲んだようだった。
柔らかくて、あたたかくて、少しだけ涙の味がするような、そんなキスだった。
陽菜はゆっくり顔を離すと、微笑んで、言った。
「……いつか教えるって、言ったでしょ?」
葵は何も言えなかった。
心臓の音が、観覧車の天井まで響いていそうで、ただ黙って陽菜を見つめることしかできなかった。
「……あの時、映画館で顔を近づけたとき、ほんとは、こうしたかったの。でも、まだ今じゃないって、自分で止めた」
「うん……」
「でもね、もう我慢しない。したくないの。私は、葵のことが、好きだから。全部、好きだから」
葵の目に、涙がたまる。
「陽菜……」
「言葉にしなくていいよ。私、ちゃんとわかってる。今だけでも、十分。これだけでも、幸せだよ」
外の夜景が、星みたいに瞬いていた。
観覧車のてっぺん、ふたりだけの空。
小さな空間で交わされたキスは、まるで永遠のように、そこに残った。
ゴンドラがゆっくりと降りていく間、ふたりはもう何も言葉を交わさなかった。
でも、その沈黙は、やさしく、そして深かった。
地上が近づいてくると、陽菜がぽつりと呟いた。
「この景色、ぜったい忘れないように、目に焼きつけた」
「……僕もずっと、忘れない」
扉が開いたとき、ふたりの手はしっかりと繋がっていた。
夜の遊園地の風が、そっとふたりを包み込む。
風は少し冷たくなってきていたけれど、手をつないでいれば、それすらもどこか心地よかった。
陽菜の横顔はまだ少し赤らんでいて、葵の胸はその余韻でずっと高鳴っていた。
「ねえ……まだ、帰りたくないな」
「……うん僕も」
葵がそう返すと、陽菜はふわりと笑った。
「お腹、すいてない?」
「……ちょっと」
「じゃあ、せっかくだし、あそこ行こ」
陽菜が指差したのは、観覧車のふもとにある、イルミネーションに包まれた小さなレストラン。
テラス席のまわりにはライトアップされた木々が並び、まるで映画のワンシーンのような光景が広がっていた。
レストランの中は、やわらかな照明と落ち着いた音楽に包まれていて、ふたりは窓際の席に通された。
メニューを広げながら、陽菜はふと目を細めた。
「こういうの、憧れてた。夜にちょっとおしゃれなお店で、恋人とごはん。なんてことないけど、すごく特別に思えて……変かな?」
「全然。僕も……今日の全部が特別に感じる」
「うん⋯⋯同じ」
ふたりは、パスタとスープ、そしてデザートに小さなケーキを頼んだ。
料理が運ばれてくるまでの間、窓の外の観覧車を見ながら、ぽつぽつと話す。
「さっきの……キス、びっくりした?」
「……うん。けど、嬉しかった」
「そう。……よかった」
陽菜はスプーンを持ったまま、少しだけ視線を落とす。
そしてゆっくり顔を上げた。
「たぶん、今日の夜のこと、死んでも忘れられないな」
「僕も。たぶん……これから何があっても、この日のことは心に残ってる」
料理はどれも美味しかった。
だけどそれ以上に、陽菜とこうして同じものを食べ、同じ時間を過ごしていることが、何より心に染みた。
食事を終えた後、ふたりはレストランを出た。
遊園地の外れにある湖に向かって、静かに歩いていく。
そこには、観光客向けのボート乗り場があった。
ライトアップされた湖面には、夜空とイルミネーションの光がゆらゆらと映っていた。
「……乗ってみよっか?」
「うん」
葵がスタッフに声をかけて、ふたりは並んでボートに乗った。
手漕ぎではなく、ゆっくりと進む電動ボートだった。
まるで時が止まったみたいに、静かな湖面をすべるように進んでいく。
ふたりの間にはしばらく沈黙があった。
でも、それは不自然じゃなかった。言葉を交わさなくても、お互いの心が、ちゃんとそこにあるとわかっていたから。
ふいに、陽菜がぽつりと呟く。
「……ねえ、葵。ほんとはね、もっと生きたいって、思ってるんだよ」
その声は、とても静かだったけれど、葵の胸に深く響いた。
「もっと色んなことがしたい。色んな景色が見たい。もっと、葵と一緒にいたい……ほんとは、ずっとずっと、いたいんだよ」
「陽菜……」
「でも、私の体は、それを許してくれない。時間は、容赦なく流れていく。だからこそ……今が、すごく愛おしいの」
葵は言葉が出なかった。
その想いの重さを、軽はずみに受け止めるには、自分はあまりにも小さかった。
それでも。
自分の気持ちだけは、伝えたかった。
ボートの上、葵は陽菜の手を取った。
「僕も……陽菜と、ずっといたい。これからも、できるだけ一緒にいたいって、思ってる」
陽菜が、驚いたように目を見開く。
「……葵?」
そして次の瞬間。
葵は、そっと陽菜の方に体を傾けた。
顔を近づけ、ふたりの距離が静かに縮まっていく。
観覧車のキスのときとは違う。今度は、葵から。
唇が重なったとき、陽菜の肩がわずかに震えた。
それでも、ふたりは目を閉じ、そっとその温もりを交わし合った。
音のない湖の上。
星が水面にゆれていた。
風も、木々も、何もかもがふたりの時間を祝福しているようだった。
キスが終わったあとも、しばらく陽菜は何も言わなかった。
でもその頬には、あたたかな涙が一筋、光っていた。
「……ありがとう。今日という日を、世界でいちばん美しい日にしてくれて」
「僕の方こそ、ありがとう」
ふたりは再び手を取り合い、ゆっくりと桟橋に戻るボートの揺れの中で、寄り添ったまま静かに目を閉じた。
遊園地を出るころには、もう日付が変わる直前だった。
駅までの道を歩きながら、陽菜がふと立ち止まる。
「ねえ、葵……夢って、叶うんだね」
彼女の目はどこか遠くを見ていた。
「でもね、叶えた瞬間から、少し寂しくなる。もう終わっちゃうんじゃないかって、不安になっちゃう」
「終わらせないよ。僕が、終わらせない」
陽菜がゆっくりと振り向き、笑った。
その笑顔はどこか切なくて、でも力強かった。
「……うん。信じてるよ」
帰りの電車の中、陽菜は葵の肩にもたれて、目を閉じた。
その寝息は小さくて、安心しているようで、どこか儚くもあった。
葵は、陽菜の手をそっと握った。
夜は深まり、街の灯りが窓の外を流れていった。
ふたりの今日という日が、静かに幕を閉じていく。



