君がいた世界の色

「じゃーん!」

 病室のカーテンを開けた葵の手には、ひらひらと揺れる小さなチケットが握られていた。



「……え?これって……」



「夜だけ開く、期間限定の遊園地。ちょうど今、冬のライトアップイベントやっててさ。行ける日が限られてるから、今しかないと思って……」



 陽菜の目がゆっくりと丸くなっていった。

 彼女の手元には、あのやりたいことリストがある。

 その中で、葵が次に叶えたいと思ったのが「夜の遊園地に行ってみたい」だった。



「ほんとに、行けるの……?」



「うん。主治医にも相談した。付き添いがいれば短時間ならOKだって」



 陽菜は、少しだけ口元に手を当てて、言葉を飲み込んだ。

 それから、小さく震える声で呟く。

「……夢みたい」



 葵はその手をそっと握った。

「夢じゃない。これから現実になる。今日の夕方、迎えに来るから、準備しといてね」



 陽菜はコクンと頷いた。

 その顔は、少女のような無垢な期待に満ちていた。




 夕暮れどき、病院のロビーで葵が待っていると、エレベーターの扉が開いた。

 陽菜が、ストールを羽織り、淡いワンピースを揺らしながら現れた。



「……綺麗だ」



「えっ、なに急に」



「いや、ほんとに。ライトより先に目が眩みそう」



「うまいこと言うなぁ……」

 陽菜は照れくさそうに笑ったけど、その頬にはほんのり紅が差していた。



 病院の車寄せでタクシーに乗り込み、街を抜け、やがて郊外の小高い丘の上へ。

 そこに、まるで夜の花のように、ネオンが咲いていた。



「わぁ……」

 陽菜が、ため息のように声を漏らす。

 

 そこには、古びた観覧車とメリーゴーランド、それから、まばゆいイルミネーションの道が続いていた。

 どこかレトロだけど、光の粒が夜風に踊るその景色は、陽菜の瞳にちゃんと映っていた。



「すごいね……ほんとに、夢みたい」



「行こう。まずは、入口のアーチをくぐらないと」



 2人はゆっくりと歩き出す。

 入口には、木でできたアーチがあり、カラフルな電飾が点滅していた。

 

 その上に、「ようこそ、星降る遊園地へ」と書かれた文字が揺れている。



 アーチをくぐった瞬間、風がふわっと髪を揺らした。

 遠くから、音楽が聴こえてきた。メリーゴーランドの、懐かしいワルツのような旋律。



「わぁ……この音、なんか懐かしいね」



「うん。子どもの頃、行った遊園地を思い出す」



「私、行ったことなかったんだ。夜の遊園地は……」



「そっか……なら、今日が初めてだね」



「うん。初めての夜、初めての遊園地。そして、大好きな人と一緒に」



 その一言が、葵の胸にやさしく降りてきた。

 言葉にはしないけれど、陽菜の「大好き」という言葉が、今夜の光よりもあたたかく、葵の中に灯った。



 

 最初に2人が向かったのは、メリーゴーランドだった。

 光の輪がくるくると回りながら、馬たちが上下に揺れる。

 周りを囲むイルミネーションが、金の装飾をきらきらと照らし出す。



「……乗れるかな」



「うん、大丈夫。スタッフさんがサポートしてくれるって言ってた」



 陽菜は不安そうに歩いているけど、葵が支えると、彼女はゆっくりと馬にまたがることができた。



「わ……けっこう高い」



「大丈夫。落ちないように、ちゃんと支えてるから」



「……うん。ありがとう、葵」



 やがて、音楽が鳴り響き、メリーゴーランドが回り始める。

 夜風が頬をなで、光の粒が背後に流れていく。



 陽菜の髪がふわりと揺れた。

 彼女は遠くを見つめながら、ぽつりと呟く。



「……ずっと、夢だったの。こんな夜」



「それが叶って、ほんとに良かった」



「まだ終わってないよ。まだ、始まったばっかり。でしょ?」

 葵は小さく笑って、頷いた。



「そうだね。まだまだ、回り続ける」

 その言葉は、まるでふたりの時間のことのようだった。

 限られた時間でも、こうして願いをひとつひとつ叶えていけば。

 その記憶はきっと、止まらないまま、どこまでも回り続ける。



 メリーゴーランドがゆっくりと止まるころには、陽菜の頬は風で赤く染まっていた。

 彼女の目には、涙がたまっているようにも見えたけれど、それを言葉にはしなかった。



「……次は、どこに行こっか?」



「葵が行きたいところ。陽菜のリスト、まだたくさんあるけど、今日は2人で冒険って感じで行こうよ」



「ふふ、じゃあ。観覧車に行ってみたいな」

 そうして2人は、また新しい光の方へと歩き出した。




 メリーゴーランドを降りたあとも、ふたりは園内の光の小道を歩いた。

 冬の夜は少し肌寒く、陽菜は肩をすくめながら、葵の腕にそっと寄り添う。



「ねぇ……最後に、あそこに乗ろうよ」



 陽菜が指さしたのは、夜空にゆっくりと浮かぶ観覧車だった。

 遠くからでも、そのゴンドラはまるで星のようにキラキラと光っていて、時間ごとに色を変えていた。



「……うん。行こう」



 観覧車の前まで来ると、係員が静かに説明をしてくれた。

 陽菜が乗れるようにと、座席が低めのゴンドラに案内してくれる。



 ゆっくりと扉が閉まると、まるでふたりだけの小さな宇宙が始まったようだった。

 外の光も、街のざわめきも遠くに溶けて、ただ、葵と陽菜の心臓の鼓動だけが近くにある。



「……静かだね」



「うん。こんなに静かなのに、胸の音だけはすごく大きく聞こえる」



「それ、私も……同じ」



 ゴンドラがゆっくりと高度を上げていく。

 窓の外に広がる夜景は、まるで宝石箱をひっくり返したみたいだった。



 そのとき。陽菜が、ぽつりと口を開く。

「ねえ、葵。ひとつだけ、言ってもいい?」



「うん?」



「私ね……生まれてからずっと、普通にあこがれてたの。朝起きて、制服着て、教室で友だちと笑って、放課後に誰かと駅まで歩いて……」



 その声は、まっすぐで、それでいて壊れそうなくらい繊細だった。



「でも、病気があるってわかったときから、全部特別になっちゃった。私だけ違う、って、どこかで線を引いてた。勝手に、ひとりでさ」



「……⋯」



「でも、葵と会って、あの階段で話したあの日から、少しずつ変わった。普通じゃない私にも、誰かと笑っていられる時間があるんだって」



 葵は言葉が出なかった。

 ただ、その手を、静かに握り返すことしかできなかった。



「ありがとう、葵」



「俺⋯⋯いや、僕こそ⋯⋯」



 陽菜がくすっと笑った。



「僕って、たまに出る俺より優しいよね……好きだな、そういうとこ」

 冗談めかして言ったその言葉が、どこかあたたかくて、観覧車の小さな空間に灯りをともす。



 ゴンドラは、やがてゆっくりと頂上へ近づいていく。

 空に近づくにつれ、ふたりの間の言葉は、だんだん少なくなった。

 ただ手を握り、体温で確かめ合うだけ。



 そのときだった。



 陽菜が、ふっと目を閉じた。

 次の瞬間、彼女は立ち上がる。

 

 重ねていた手がすっと離れ、葵は驚いて声を上げる。

「え、陽菜……? 危ないから」



 言いかけたその瞬間だった。



 陽菜が、ぐいっと体を前に倒し、葵の顔を両手で包み込んで、そのまま唇を重ねた。



 時間が止まった。

 空気すら、息を飲んだようだった。



 柔らかくて、あたたかくて、少しだけ涙の味がするような、そんなキスだった。



 陽菜はゆっくり顔を離すと、微笑んで、言った。



「……いつか教えるって、言ったでしょ?」



 葵は何も言えなかった。

 心臓の音が、観覧車の天井まで響いていそうで、ただ黙って陽菜を見つめることしかできなかった。



「……あの時、映画館で顔を近づけたとき、ほんとは、こうしたかったの。でも、まだ今じゃないって、自分で止めた」



「うん……」



「でもね、もう我慢しない。したくないの。私は、葵のことが、好きだから。全部、好きだから」



 葵の目に、涙がたまる。

「陽菜……」



「言葉にしなくていいよ。私、ちゃんとわかってる。今だけでも、十分。これだけでも、幸せだよ」



 外の夜景が、星みたいに瞬いていた。

 観覧車のてっぺん、ふたりだけの空。

 小さな空間で交わされたキスは、まるで永遠のように、そこに残った。



 ゴンドラがゆっくりと降りていく間、ふたりはもう何も言葉を交わさなかった。

 でも、その沈黙は、やさしく、そして深かった。



 地上が近づいてくると、陽菜がぽつりと呟いた。

「この景色、ぜったい忘れないように、目に焼きつけた」



「……僕もずっと、忘れない」



 扉が開いたとき、ふたりの手はしっかりと繋がっていた。

 夜の遊園地の風が、そっとふたりを包み込む。



 風は少し冷たくなってきていたけれど、手をつないでいれば、それすらもどこか心地よかった。

 陽菜の横顔はまだ少し赤らんでいて、葵の胸はその余韻でずっと高鳴っていた。



「ねえ……まだ、帰りたくないな」



「……うん僕も」



 葵がそう返すと、陽菜はふわりと笑った。



 「お腹、すいてない?」



「……ちょっと」



「じゃあ、せっかくだし、あそこ行こ」



 陽菜が指差したのは、観覧車のふもとにある、イルミネーションに包まれた小さなレストラン。

 テラス席のまわりにはライトアップされた木々が並び、まるで映画のワンシーンのような光景が広がっていた。



 レストランの中は、やわらかな照明と落ち着いた音楽に包まれていて、ふたりは窓際の席に通された。



 メニューを広げながら、陽菜はふと目を細めた。

「こういうの、憧れてた。夜にちょっとおしゃれなお店で、恋人とごはん。なんてことないけど、すごく特別に思えて……変かな?」



「全然。僕も……今日の全部が特別に感じる」



「うん⋯⋯同じ」



 ふたりは、パスタとスープ、そしてデザートに小さなケーキを頼んだ。

 料理が運ばれてくるまでの間、窓の外の観覧車を見ながら、ぽつぽつと話す。



「さっきの……キス、びっくりした?」



「……うん。けど、嬉しかった」



「そう。……よかった」



 陽菜はスプーンを持ったまま、少しだけ視線を落とす。

 そしてゆっくり顔を上げた。



「たぶん、今日の夜のこと、死んでも忘れられないな」



「僕も。たぶん……これから何があっても、この日のことは心に残ってる」



 料理はどれも美味しかった。

 だけどそれ以上に、陽菜とこうして同じものを食べ、同じ時間を過ごしていることが、何より心に染みた。



 食事を終えた後、ふたりはレストランを出た。

 遊園地の外れにある湖に向かって、静かに歩いていく。



 そこには、観光客向けのボート乗り場があった。

 ライトアップされた湖面には、夜空とイルミネーションの光がゆらゆらと映っていた。



「……乗ってみよっか?」



「うん」



 葵がスタッフに声をかけて、ふたりは並んでボートに乗った。

 手漕ぎではなく、ゆっくりと進む電動ボートだった。

 まるで時が止まったみたいに、静かな湖面をすべるように進んでいく。



 ふたりの間にはしばらく沈黙があった。

 でも、それは不自然じゃなかった。言葉を交わさなくても、お互いの心が、ちゃんとそこにあるとわかっていたから。



 ふいに、陽菜がぽつりと呟く。

「……ねえ、葵。ほんとはね、もっと生きたいって、思ってるんだよ」



 その声は、とても静かだったけれど、葵の胸に深く響いた。



「もっと色んなことがしたい。色んな景色が見たい。もっと、葵と一緒にいたい……ほんとは、ずっとずっと、いたいんだよ」



「陽菜……」



「でも、私の体は、それを許してくれない。時間は、容赦なく流れていく。だからこそ……今が、すごく愛おしいの」



 葵は言葉が出なかった。

 その想いの重さを、軽はずみに受け止めるには、自分はあまりにも小さかった。



 それでも。

 自分の気持ちだけは、伝えたかった。



 ボートの上、葵は陽菜の手を取った。

「僕も……陽菜と、ずっといたい。これからも、できるだけ一緒にいたいって、思ってる」



 陽菜が、驚いたように目を見開く。



「……葵?」



 そして次の瞬間。

 葵は、そっと陽菜の方に体を傾けた。



 顔を近づけ、ふたりの距離が静かに縮まっていく。

 観覧車のキスのときとは違う。今度は、葵から。



 唇が重なったとき、陽菜の肩がわずかに震えた。

 それでも、ふたりは目を閉じ、そっとその温もりを交わし合った。



 音のない湖の上。

 星が水面にゆれていた。

 風も、木々も、何もかもがふたりの時間を祝福しているようだった。



 キスが終わったあとも、しばらく陽菜は何も言わなかった。

 でもその頬には、あたたかな涙が一筋、光っていた。



「……ありがとう。今日という日を、世界でいちばん美しい日にしてくれて」



「僕の方こそ、ありがとう」



 ふたりは再び手を取り合い、ゆっくりと桟橋に戻るボートの揺れの中で、寄り添ったまま静かに目を閉じた。



 

 遊園地を出るころには、もう日付が変わる直前だった。

 駅までの道を歩きながら、陽菜がふと立ち止まる。



「ねえ、葵……夢って、叶うんだね」

 彼女の目はどこか遠くを見ていた。



「でもね、叶えた瞬間から、少し寂しくなる。もう終わっちゃうんじゃないかって、不安になっちゃう」



「終わらせないよ。僕が、終わらせない」



 陽菜がゆっくりと振り向き、笑った。

 その笑顔はどこか切なくて、でも力強かった。

「……うん。信じてるよ」



 帰りの電車の中、陽菜は葵の肩にもたれて、目を閉じた。

 その寝息は小さくて、安心しているようで、どこか儚くもあった。



 葵は、陽菜の手をそっと握った。



 夜は深まり、街の灯りが窓の外を流れていった。

 ふたりの今日という日が、静かに幕を閉じていく。