僕の明日が、きみで満たされますように。

病室のカーテンの隙間から、午前の陽が差し込んでいた。

 その光は、白いシーツの上を静かに撫で、まるで誰かの指先のように優しかった。



 陽菜はその光に目を細めながら、ベッドの背を少しだけ起こしていた。

 手には、先日から読みかけのままになっていた詩集を持っていたけれど、ページは一向に進んでいない。

 代わりに彼女の視線は、窓の外。遠くに揺れる街路樹の梢に向いていた。



 葵がドアをノックして、病室に入ってきたのは、そんな静かな午前のことだった。



「おはよう。調子はどう?」



「ん〜、まあまあ。昨日よりちょっとだけマシ……かな?」

 陽菜はそう言って微笑んだが、顔色は正直だった。

 その笑顔の裏に、言い表せない倦怠や、重たさが見え隠れしている。

 

 葵はそっと彼女の傍らに腰を下ろし、手に持っていた紙袋を渡した。

「これ。さっき、病院の前で売ってた。期間限定のやつらしい。」



「わ、嬉しい……ありがとう。食べられるかな〜。でも、嬉しい」



 ふわりとした甘い香りが、病室にやさしく広がる。

 それだけで、ほんの少し、室内の空気が明るくなった気がした。



 けれどその直後、コンコン、とドアが再びノックされた。

 入ってきたのは担当医だった。白衣のポケットからカルテを取り出しながら、やわらかな口調で話し始める。



「梛川さん、少しだけいいですか?」



「はい、大丈夫です。」



 葵は少し離れた椅子に腰を移した。

 陽菜と医師の声は、小さく、穏やかに交わされる。

 けれど、その内容は冷たくて、静かに胸を締めつけるものだった。



 「病状的に、あと数週間もすれば外出も難しくなってくると思います」



 「そう、ですか」



 陽菜は一瞬だけ瞼を閉じて、深呼吸をした。

 「わかりました」

 そう小さく頷くその姿は、年齢よりずっと大人びて見えた。



 医師が出て行ったあと、室内はしばらく無言のままだった。

 葵は陽菜の表情を探るように見つめていたが彼女の方から、小さな声で言葉を落とした。



「ねぇ、葵。聞いてくれる?」



「……うん」

 陽菜は、ベッドの引き出しから一冊の小さなノートを取り出した。

 表紙にはカラフルなステッカーが貼られていて、どこか子どもっぽい。だけど、それが彼女らしくて可愛かった。



「これ、私のやりたいことリスト⋯⋯ね?」



 パラパラとページをめくると、丁寧な字で並んだ願いごとが目に入った。



 ・水族館にもう1回行きたい。

 ・夜の遊園地に行ってみたい。

 ・星空の下で語り合いたい。

 ・でっかい図書館に行って、静かに過ごしたい。

 ・花火を近くで見たい。

 ・海に足だけでも浸かりたい。

 ・空に浮かぶ雲のかたちをずっと眺めていたい。

 ・もう一度、制服を着てみたい。

 ・葵と、いっぱい思い出を作りたい。



「……子どもっぽいでしょ?」



「そんなことないよ。むしろ……」

 言葉が詰まった。

 喉が熱くなって、何かがこみ上げそうになったのを必死で飲み込む。



  陽菜は、恥ずかしそうに笑いながら続けた。

「できること、もう少ないかもしれないけど……叶えられる分だけ、叶えたいなって思って」



「……全部、一緒にやろう」

 葵のその言葉に、陽菜の目が一瞬だけ揺れた。

 

 でも次の瞬間には、穏やかで、どこか安心したような笑顔が広がっていた。

「ありがとう。じゃあ、まずはどれにしよっか?」



「……雲を眺めるって、どうかな。今日は天気いいし」



「うん!じゃあ、屋上に行ってみたい!」



 それから、2人は看護師の許可をもらい、ゆっくりと屋上へ向かった。

 病院の屋上に出ると、空はどこまでも青く、秋の澄んだ風がふたりの髪を優しく揺らした。



「わぁ……空って、こんなに広かったっけ……?」

 陽菜はまるで初めて空を見たような声で言った。

 葵は彼女の隣に立ち、雲を指さす。



「あれ、うさぎみたいじゃない?」



「ほんとだ!あれは……なんだろ……ラッコ?」



「いや、陽菜に見えるよ」



「なにそれ〜!うまいこと言うね」



 笑い合うふたりの背中に、午後の光がそっと寄り添っていた。



 その後、病室に戻ってからも、陽菜は嬉しそうにノートにチェックを入れていた。



「ひとつ、叶ったね〜!」



 その笑顔が、なによりも葵の心を癒していた。

 陽菜が笑ってくれる限り、葵は何でもできる気がした。



 次は、何を叶えよう。

 それを考えることが、これからの希望になる。

 たとえ時間が限られていても、その中にぎゅっと思い出を詰め込めば、きっと永遠に変わる。