久しぶりに、家の空気が違って感じた。
玄関のドアを開けたときから、どこかいつもより静かで、重いような気配が漂っていた。
「ただいま」
葵がそう声をかけると、台所の方で食器の音が止まる。
「おかえり」
リビングの奥から、母の声が聞こえた。
声だけで、どこか戸惑っているのがわかる。普段は軽く流されることの多い帰宅の挨拶が、今日は何か違った。
父も、新聞を読むふりをしていたが、その手は止まっていた。
まるで、今日という日を待っていたかのように。
「ちょっと、話せる?」
葵がそう言うと、母が頷き、父も無言でテレビを消した。
部屋は静かになり、時折どこかで鳴る壁掛け時計の音だけが、時間を刻んでいた。
「最近、病院に行くことが多かったみたいね」
母が先に切り出した。声は優しいけれど、何かを探るような響きだった。
「うん。陽菜の体調が良くないんだ……正直に言うと、もう、あまり時間がないらしい」
言葉にすると、心の奥で何かが軋むようだった。
何度も自分に言い聞かせてきたはずなのに、口に出すと現実の輪郭が一層はっきりしてしまう。
父は何も言わず、ただじっと葵を見ていた。
眉間にうっすらと皺が寄っていて、それでも口を閉ざしたまま。
けれど、目だけは、どこまでも真っ直ぐだった。
「彼女のこと、本気なんだな」
父がようやく口を開いた。
「うん」
葵は短く迷いのない声で答えた。
「僕、陽菜と過ごす時間を大切にしたい……できるだけ、後悔しないように。どんな未来でも、ちゃんと見届けたいんだ」
沈黙が、また落ちる。
母は少しだけ目を伏せ、手を組んだ。
「あなたが中学のとき……学校に行けなくなった頃、私たち、何もできなかった。葵が何を考えてるのか、どこで傷ついてるのか、わからなくて……怖かったの。親なのに」
「……⋯」
「でも、陽菜ちゃんと出会って、変わったよね。今のあなた、ちゃんと前を向いてる……私、心からそう思ってるのよ、嬉しい」
母の声が少し震えていた。
それを聞きながら、葵の胸に、じわりとあたたかい何かが広がっていく。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
父は腕を組んで天井を見上げたあと、低く、静かに言った。
「お前はもう子どもじゃない。ただ、その分、背負うものも増えていく。病気と向き合うってのは、覚悟のいることだ」
「……わかってる。だけど、陽菜の笑顔を守りたい。それだけは、どうしても」
しばらく無言だった父が、少しだけ、口元を緩めた。
それは、葵の記憶の中でも数えるほどしかない、父の肯定だった。
「そうか。なら、俺たちは見守るだけだ」
母が立ち上がって、キッチンに行き、湯気の立つカップを持って戻ってきた。
「少し、寒くなってきたから」
差し出されたマグカップは、ほんのりミルクの香りがした。
それを手に取った瞬間、葵は初めて、深く息をついた。
温かい。
家って、こんなにあたたかかったっけ。
病院の白い部屋、陽菜の細い手、冬の風。
いろんな冷たさを感じていた葵にとって、それはじんわりと胸に染み込む温度だった。
「僕、これからも陽菜と向き合っていく。最後まで……一緒に、物語を完成させたい」
「物語?」
母が問い返すと、葵は小さく笑ってうなずいた。
「ふたりで小説を書いてるんだ……始まりはたまたまでも、ちゃんと自分たちの今を綴ってる。陽菜は自分の人生を物語として残したいって言ってた。だから……僕は、その物語の書き手でいたい」
言い終わったあと、部屋の空気が少しだけ変わった。
まるで、これまで言えなかったことが、ようやく言葉になって流れていったようなそんな時間だった。
「いい話ね……」
母が、ぽつりと呟いた。
「読み終わったあとに、誰かのことを大事にしたくなるような、そんな物語を目指してるんだ」
そう言ったとき、父が少しだけ背筋を伸ばした。
「その話、完成したら俺にも読ませろ」
「……うん、もちろん」
時計の針が夜を指していた。
葵は立ち上がり、マフラーを巻いて玄関へ向かった。
靴を履くとき、ふと背後から声が飛ぶ。
「葵」
父の声だった。
「うん?」
「もし……その子がいなくなっても、お前の人生は続く。忘れるんじゃなくて、ちゃんと抱えて生きていけ」
「……わかってる。陽菜は、忘れるような存在じゃないから」
その言葉に、父はもう何も言わなかった。
けれど、玄関のドアを開けるとき、背中に確かな温もりが残っていた。
冬の夜。
冷たい風が頬を撫でる。空は澄んでいて、遠くに小さな星が見えていた。
葵は、そっと空を見上げた。
陽菜が、この空のどこかを見てくれていたらいいと、そう思いながら。
玄関のドアを開けたときから、どこかいつもより静かで、重いような気配が漂っていた。
「ただいま」
葵がそう声をかけると、台所の方で食器の音が止まる。
「おかえり」
リビングの奥から、母の声が聞こえた。
声だけで、どこか戸惑っているのがわかる。普段は軽く流されることの多い帰宅の挨拶が、今日は何か違った。
父も、新聞を読むふりをしていたが、その手は止まっていた。
まるで、今日という日を待っていたかのように。
「ちょっと、話せる?」
葵がそう言うと、母が頷き、父も無言でテレビを消した。
部屋は静かになり、時折どこかで鳴る壁掛け時計の音だけが、時間を刻んでいた。
「最近、病院に行くことが多かったみたいね」
母が先に切り出した。声は優しいけれど、何かを探るような響きだった。
「うん。陽菜の体調が良くないんだ……正直に言うと、もう、あまり時間がないらしい」
言葉にすると、心の奥で何かが軋むようだった。
何度も自分に言い聞かせてきたはずなのに、口に出すと現実の輪郭が一層はっきりしてしまう。
父は何も言わず、ただじっと葵を見ていた。
眉間にうっすらと皺が寄っていて、それでも口を閉ざしたまま。
けれど、目だけは、どこまでも真っ直ぐだった。
「彼女のこと、本気なんだな」
父がようやく口を開いた。
「うん」
葵は短く迷いのない声で答えた。
「僕、陽菜と過ごす時間を大切にしたい……できるだけ、後悔しないように。どんな未来でも、ちゃんと見届けたいんだ」
沈黙が、また落ちる。
母は少しだけ目を伏せ、手を組んだ。
「あなたが中学のとき……学校に行けなくなった頃、私たち、何もできなかった。葵が何を考えてるのか、どこで傷ついてるのか、わからなくて……怖かったの。親なのに」
「……⋯」
「でも、陽菜ちゃんと出会って、変わったよね。今のあなた、ちゃんと前を向いてる……私、心からそう思ってるのよ、嬉しい」
母の声が少し震えていた。
それを聞きながら、葵の胸に、じわりとあたたかい何かが広がっていく。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
父は腕を組んで天井を見上げたあと、低く、静かに言った。
「お前はもう子どもじゃない。ただ、その分、背負うものも増えていく。病気と向き合うってのは、覚悟のいることだ」
「……わかってる。だけど、陽菜の笑顔を守りたい。それだけは、どうしても」
しばらく無言だった父が、少しだけ、口元を緩めた。
それは、葵の記憶の中でも数えるほどしかない、父の肯定だった。
「そうか。なら、俺たちは見守るだけだ」
母が立ち上がって、キッチンに行き、湯気の立つカップを持って戻ってきた。
「少し、寒くなってきたから」
差し出されたマグカップは、ほんのりミルクの香りがした。
それを手に取った瞬間、葵は初めて、深く息をついた。
温かい。
家って、こんなにあたたかかったっけ。
病院の白い部屋、陽菜の細い手、冬の風。
いろんな冷たさを感じていた葵にとって、それはじんわりと胸に染み込む温度だった。
「僕、これからも陽菜と向き合っていく。最後まで……一緒に、物語を完成させたい」
「物語?」
母が問い返すと、葵は小さく笑ってうなずいた。
「ふたりで小説を書いてるんだ……始まりはたまたまでも、ちゃんと自分たちの今を綴ってる。陽菜は自分の人生を物語として残したいって言ってた。だから……僕は、その物語の書き手でいたい」
言い終わったあと、部屋の空気が少しだけ変わった。
まるで、これまで言えなかったことが、ようやく言葉になって流れていったようなそんな時間だった。
「いい話ね……」
母が、ぽつりと呟いた。
「読み終わったあとに、誰かのことを大事にしたくなるような、そんな物語を目指してるんだ」
そう言ったとき、父が少しだけ背筋を伸ばした。
「その話、完成したら俺にも読ませろ」
「……うん、もちろん」
時計の針が夜を指していた。
葵は立ち上がり、マフラーを巻いて玄関へ向かった。
靴を履くとき、ふと背後から声が飛ぶ。
「葵」
父の声だった。
「うん?」
「もし……その子がいなくなっても、お前の人生は続く。忘れるんじゃなくて、ちゃんと抱えて生きていけ」
「……わかってる。陽菜は、忘れるような存在じゃないから」
その言葉に、父はもう何も言わなかった。
けれど、玄関のドアを開けるとき、背中に確かな温もりが残っていた。
冬の夜。
冷たい風が頬を撫でる。空は澄んでいて、遠くに小さな星が見えていた。
葵は、そっと空を見上げた。
陽菜が、この空のどこかを見てくれていたらいいと、そう思いながら。



