君がいた世界の色

冬の匂いが、街を静かに包み始めていた。

 風が冷たく、吐く息が白く曇るようになった頃、陽菜は病院から一時外出許可をもらい、週に数日だけ家に帰ることが許された。

 とはいえ、完全に自由な時間を過ごせるわけではない。体調の管理、薬の時間、定期的な検査。

 病気の影はいつも陽菜の隣にいた。



 けれど。

 それでも、陽菜の表情には、はっきりとした生きる意志があった。

 少しでもいい時間を、誰かと分かち合いたいという気持ちが、確かにそこにあった。



 ふたりが小説を書こうと決めたのは、あの図書館の帰り道だった。



「ねぇ、覚えてる?一緒に物語を書こうって言ったの」



 陽菜がそう言ったのは、午後の穏やかな時間。リビングのこたつに入って、窓の外をぼんやり眺めていたときだった。

 冬の空は薄曇りで、雲の切れ間から柔らかい光が差し込んでいた。



「もちろん覚えてるよ」

 葵はそう答えて、カバンからノートを取り出した。

 

 表紙には、陽菜が病室で描いた落書きが貼ってある。2人で笑っている棒人間と、真ん中にでっかいハート。

 不格好だけど、見ているだけで、あたたかくなる。



「ね、設定とかどうする?ファンタジー?恋愛?それとも、現代っぽいやつ?」



 陽菜は顔を真剣にして考え込んだ。

「うーん……ふたりが、時間の中で出会って、何度も別れて……それでも最後に、また巡り会う話がいいな」



「転生系……ってこと?」



「そう。だけど、あくまで静かに。泣けるやつ。読み終わったあとに、誰かのことを大事にしたくなるような、そんな物語」



「陽菜っぽいな」



「でしょ?」



 こうして、ふたりの小説作りが始まった。



 リビングに並んで座り、温かい紅茶を片手に、アイデアを出し合いながら言葉を綴る。

 話が行き詰まれば、すぐに笑い話に変わってしまう。真面目に書いていたはずが、気がつけば陽菜が変なキャラ設定を始めて、葵がツッコむ。



「ちょっと、これ!ヒロインが戦闘中にプリン食べたいって思うのは変じゃない?」



「えー、でもその方が人間味あるじゃん!」



「人間味で済むかな……」



 そんなやりとりを何度も繰り返しながら、ページはゆっくりと増えていった。



 葵がタイピングをして、陽菜が口頭で言葉を紡ぐ。時々、陽菜が自分でキーボードを打ちたがるけれど、指が思うように動かなくて、悔しそうな顔をする。



「ごめん、やっぱりちょっと、手が震えちゃう……」



「……うん、僕が、代わりに書くよ」



 陽菜は小さく笑って、ありがとと言って、葵の肩に頭を預けた。



 ある日の午後、陽菜の母がリビングにそっとお菓子を持ってきて、ふたりのやりとりを優しく見守っていた。



「陽菜、ほんとに……いい顔してるわね」

 そう言って、ぽつりと目を細めた。



 葵はその言葉に、胸の奥が少し熱くなった。

 陽菜のいい顔を引き出せているのなら、それだけで十分だった。



 夜になり、窓の外はすっかり暗くなっていた。

 冬の夜は早い。星が見えるほどに空が澄んでいて、街の明かりは少しだけ滲んでいた。



「ほら、今日の分、読み返してみて」



 葵が陽菜のために、今日書いたシーンを音読した。

 陽菜は目を閉じて聞いていた。時々、口元がふっとほころんで、時々、小さく涙を拭った。



「……ありがとう、葵。こんなふうに、物語を書けるなんて、夢みたい」



「でも、夢じゃないよ。これは今、僕たちが生きてる時間そのものなんだよ」



 陽菜は何も言わず、ただ頷いた。

 静かな夜。暖房の音だけが小さく響いている。



 そして、その夜。帰る間際、玄関先で、陽菜がそっと言った。



「葵、お願いがあるの」



「なに?」



「この物語が完成したら、ちゃんと本にしてね。たとえ私がいなくなっても、きっとどこかで、誰かがそれを読んでくれるように」



「……陽菜」



「私はね、消えたいわけじゃないの。ただ、生きた証を残したいの。誰かの心に、ほんの少しだけでも、残れたらそれでいいの」



 その言葉は、まっすぐで、揺るがない。

 悲しい言葉なのに、不思議と強さがあった。



「陽菜は、もう僕の中に、ちゃんと生きてるよ。たぶん、この先もずっと」



「……そっか」



 玄関の外に出ると、夜風が頬にあたった。冷たいはずなのに、不思議とあたたかかった。



「じゃあ、またね、葵」



「うん。次のページも、一緒に書こう」



 陽菜は少しだけ背伸びして、葵の肩に額を寄せた。

 たった数秒の、けれど、たまらなく愛しい沈黙。



 こうして、ふたりの物語は、またひとつ、ページを重ねていった。