君がいた世界の色

静かな午後だった。

 街を包む風は涼しく、秋の気配が、そっと肌に触れてくるような空気だった。紅葉の季節も落ち着き、木々は少しずつその色を落とし始め、地面にはカサカサと乾いた葉が舞っていた。



 陽菜が退院してから数日が経っていた。表向きには元気に過ごしているように見えるけれど、朝の吐き気や、夜に浅くなる眠りは、葵にしか分からない些細な変化として、確実に存在していた。



「……今日は、図書館に行ってみたいな」

 その日の朝、陽菜がぽつりと呟いた言葉に、葵はすぐに頷いた。

 

 体を激しく動かすわけでもなく、静かに過ごせる場所。図書館。陽菜の身体にも、心にも、ちょうどいい場所だと思った。



 駅から少し歩いた先にある市立の大きな図書館。高い天井と大きな窓から陽光が差し込んでいて、本の匂いと柔らかな光が心を落ち着けてくれるようだった。

 館内は広くて静かで、2人は奥の読書スペースに腰を下ろす。壁沿いには無数の本が整然と並び、中央の大きなテーブルには数人の学生たちが勉強していた。



「ここ、なんか好きかも」

 陽菜が言う。



 彼女は、丸くて大きな窓がある窓際の席を選んだ。そこからは図書館の庭が見えた。ほんの少しだけ残った紅葉の赤が、陽だまりの中でやさしく揺れていた。



 葵は教科書とノートを広げ、静かに勉強を始めた。数式を解いたり、歴史の年号をノートに写したり。

 対する陽菜は、書棚から一冊の小説を手に取っていた。表紙には淡い水彩画で描かれた、どこか寂しげな少女と、桜の木があった。



 何を読んでるのか気になったけれど、葵は訊かなかった。

 陽菜がページをめくるときの、細く繊細な指先が、小さく震えているのが気になって、目を逸らしたくなかった。



 そしてしばらくして。



「⋯⋯うん、静かでいいね」

 と陽菜が、小さくつぶやいた。

 でもその声は、少しだけ揺れていた。



 ふと横を見ると、陽菜は机に肘をつき、手のひらでそっと顔を支えるようにしていた。その目尻には、静かに涙が一筋、伝っていた。

 声を立てて泣くわけじゃない。ただ、ページをめくりながら、物語に溶けるように涙を流していた。



 自分が泣いていることに、陽菜自身は気づいているのかいないのか。

 でもその表情は、とてもきれいで、脆くて、けれどどこか強かった。



「⋯⋯陽菜」

 そっと声をかけると、陽菜はゆっくりと顔を上げた。笑った。涙をこぼしながら、いつものように。



「ごめんね、ちょっと、ね⋯⋯読んでた本が、すごく、良くて」

 

 言葉にならない想いが、その目に詰まっていた。

 葵は言葉を返せず、ただ彼女の手をそっと握った。



 2人で過ごす図書館の午後は、それだけで特別だった。

 時間は静かに過ぎていった。何ページも、何分も、誰にも邪魔されない、ふたりだけの時間だった。



 陽菜が読んでいた本のタイトルは、『風のない春に咲く』という名の、若くして病に倒れた少女の物語だった。

 たぶん、どこかで自分を重ねていたのだろう。陽菜は物語の最後のページを閉じると、ゆっくりと本を抱きしめるように胸元に寄せた。



「⋯⋯いつか、本を一緒に書こうよ」

 と陽菜が、ぽつりと呟いた。



「え?」



「葵と。物語を、ふたりで。私たちだけの本を」



 その言葉に、葵は頷くしかなかった。

 陽菜が生きた証を、この手に残したい

 それは葵の心のどこかに、ずっと灯っていた願いだったから。



「書こう。陽菜の言葉で、陽菜の時間で」



 陽菜はうれしそうに笑った。そして、手をすっと差し出した。

 葵はその手を取り、固く、やさしく、握り返した。



 外に出た頃には、もう夕暮れが近づいていた。

 秋の陽は短く、空には淡いオレンジが広がっていた。



 2人は歩きながら、図書館の話、本の話、これから書きたい物語の話をした。

 何でもない会話が、きらきらと光っていた。



 帰り道、ふと陽菜が空を見上げて言った。



「この季節、夕焼けが一番好きかも。あったかくて、少し切なくて」



「わかる。なんか、陽菜っぽいかも」



「それ、褒めてる?」



「もちろん」



 そんな会話が続く限り、季節は何度でも巡ってくれる気がした。