木々が色づき始めたのは、10月も半ばを過ぎた頃だった。
朝晩の空気が冷たくなり、どこからともなく金木犀の香りが漂ってくる。
陽菜は相変わらず、病院からの一時帰宅というかたちで、週末は家で過ごしていた。
その日も、葵は陽菜の家の前で彼女を待っていた。スニーカーのつま先で落ち葉を蹴りながら、ドアが開くのをじっと待つ。
やがてガチャリとドアが開き、薄いベージュのコートに身を包んだ陽菜が顔を出した。
「おまたせ、葵」
「ううん、今来たとこ」
定番のやり取りに、2人はふっと笑った。
陽菜は頬を少し紅潮させながら、マフラーを巻き直す。
「今日はどこに連れてってくれるの?」
「秘密。でも、陽菜がきっと好きなところだよ」
「んー、楽しみにしとく!」
葵は彼女の手を取り、ゆっくりと歩き始めた。秋の風がそっと2人の髪を揺らす。心地よい冷たさだった。
電車に乗ること数十分。目的地は、小高い丘の上にある広大な公園だった。都心から少し離れたその場所には、大きな池と並木道があり、毎年紅葉の季節になると多くの人が訪れる名所だった。
丘を登る坂道の途中、すでに地面は赤や黄の落ち葉で埋め尽くされていた。
「わあ……!」
陽菜が歓声を上げる。目を輝かせながら、足元の葉を拾い上げ、ふわりと空に投げる。
くるくると舞うモミジの葉。まるで季節そのものが、陽菜の笑顔に応えているようだった。
「来てよかった?」
「うん、すごく!!嬉しい!」
2人はそのまま並木道を歩いた。木漏れ日が地面を照らし、足元にできる影すら、どこか温かく感じられた。
途中、売店で買った温かいミルクティーを手に、ベンチに腰かける。陽菜はふう、と息を吐いてから、ふと空を見上げた。
「葵さ、前に言ってたよね。今を大事にしたいって」
「うん……今も、そう思ってる」
「私はね、今がずっと続いてほしいって思う。葵の隣にいるこの感じも……」
陽菜の横顔は、少し寂しそうだった。
「……陽菜」
葵は言葉を失いかけながらも、彼女の手をぎゅっと握った。
手のひらは細くて、少し冷たかった。
「なあ、また一緒に、紅葉見に来よう」
陽菜は少し驚いたように目を見開いて、すぐにふわりと微笑んだ。
「うん、行こう。約束だよ?」
「……うん、約束」
その言葉が、風に乗って高く遠くに飛んでいくような気がした。
陽菜の病状は、医者に言われた通り、緩やかに悪化していた。
けれど、それを感じさせないように、陽菜はいつも明るくふるまっていた。
葵は胸がぎゅっと締めつけられるようだった。
散策のあと、大きな池のそばにある展望台に2人は登った。
そこから見える景色は、まるで絵画だった。赤、橙……燃えるように色づいた木々が、湖面に映って揺れていた。
「すごいね……」
「綺麗……」
陽菜はそのまま、葵の肩にもたれかかる。
しばらく無言のまま、2人は寄り添って景色を眺めた。
やがて陽菜が、小さくつぶやいた。
「こうやって、君の隣で、何も考えずにいられる時間が……いちばん、幸せかもしれないな」
「……僕も」
陽菜の小さな笑顔を見た葵は、胸の奥があたたかくなるのを感じていた。こんなにも静かで、優しい時間が、この先もずっと続いてくれたらと、心から願った。
日が傾きはじめ、空はオレンジ色に染まっていく。
「帰ろっか」
「うん、でも……もう少しだけ、ここにいたいな」
「じゃあ、日が沈むまで」
「ありがとう、葵」
小さな「ありがとう」が、風に消えていった。
この日の紅葉は、どんな写真にも勝るほど、美しかった。木々が色づき始めたのは、十月も半ばを過ぎた頃だった。
朝晩の空気が冷たくなり、どこからともなく金木犀の香りが漂ってくる。校庭の隅にある桜の木はすでに葉を落とし、代わりに街中のイチョウやモミジが、その枝先を燃えるような赤や黄金に染めていた。
陽菜は相変わらず、病院からの一時帰宅というかたちで、週末だけは家で過ごしていた。
その日も、葵は陽菜の家の前で彼女を待っていた。スニーカーのつま先で落ち葉を蹴りながら、ドアが開くのをじっと待つ。
やがてガチャリとドアが開き、薄いベージュのコートに身を包んだ陽菜が顔を出した。
「おまたせ、葵」
「ううん、今来たとこ」
定番のやり取りに、2人はふっと笑った。
陽菜は頬を少し紅潮させながら、マフラーを巻き直す。
「今日はどこに連れてってくれるの?」
「秘密。でも、陽菜がきっと好きなところだよ」
「んー、楽しみにしとく!」
葵は彼女の手を取り、ゆっくりと歩き始めた。秋の風がそっと2人の髪を揺らす。心地よい冷たさだった。
電車に揺られること数十分。目的地は、小高い丘の上にある広大な公園だった。都心から少し離れたその場所には、大きな池と並木道があり、毎年紅葉の季節になると多くの人が訪れる名所だった。
丘を登る坂道の途中、すでに地面は赤や黄の落ち葉で埋め尽くされていた。
「わあ……!」
陽菜が歓声を上げる。目を輝かせながら、足元の葉を拾い上げ、ふわりと空に投げる。
くるくると舞うモミジの葉。まるで季節そのものが、陽菜の笑顔に応えているようだった。
「来てよかった?」
「うん、すっごく」
2人はそのまま並木道を歩いた。木漏れ日が地面を照らし、足元にできる影すら、どこか温かく感じられた。
途中、売店で買った温かいミルクティーを手に、ベンチに腰かける。陽菜はふう、と息を吐いてから、ふと空を見上げた。
「葵さ、前に言ってたよね。『今を大事にしたい』って」
「うん。……今も、そう思ってる」
「私はね、今が、ずっと続いてほしいって思う。紅葉も、空も、風の匂いも、葵の隣にいるこの感じも……」
陽菜の横顔は、少し寂しそうで、それでも確かに笑っていた。
「……陽菜」
葵は言葉を失いかけながらも、彼女の手をぎゅっと握った。
手のひらは細くて、少し冷たかった。
「なあ、来年も一緒に、紅葉見に来よう」
陽菜は少し驚いたように目を見開いて、すぐにふわりと微笑んだ。
「うん、行こう。約束だよ?」
「……うん、約束」
その言葉が、風に乗って高く遠くに飛んでいくような気がした。
陽菜の病状は、医者に言われた通り、緩やかに悪化していた。
けれど、それを感じさせないように、陽菜はいつも明るくふるまっていた。
その優しさが切なくて、葵は胸がぎゅっと締めつけられるようだった。
散策のあと、大きな池のそばにある展望台に2人は登った。
そこから見える景色は、まるで絵画だった。赤、橙、黄色……燃えるように色づいた木々が、湖面に映って揺れていた。
「すごいね……」
「うん、綺麗……」
陽菜はそのまま、葵の肩にもたれかかる。
しばらく無言のまま、2人は寄り添って景色を眺めた。
やがて陽菜が、小さくつぶやいた。
「こうやって、君の隣で、何も考えずにいられる時間が……いちばん、幸せかもしれないな」
「……俺も」
陽菜の小さな笑顔を見た葵は、胸の奥があたたかくなるのを感じていた。こんなにも静かで、優しい時間が、この先もずっと続いてくれたらと、心から願った。
日が傾きはじめ、空はオレンジ色に染まっていく。
「帰ろっか」
「うん、でも……もう少しだけ、ここにいたいな」
「じゃあ、日が沈むまで」
「ありがとう、葵」
その小さなありがとうは、風に消えていく。
この日の紅葉は、どんな写真にも勝るほど、美しかった。
帰りのバスは、ちょうど夕暮れに間に合った。
車窓の向こうに、茜色の空がゆっくりと沈んでいく。山の端に飲まれていく太陽を、陽菜は黙って見ていた。頬に当たる光が、彼女の横顔をやさしく縁取っていて、僕はそれを見ているだけで、胸の奥がじんわりと熱くなった。
何も言葉を交わさなくても、心がぴたりと重なっている気がした。
……でも、ほんとうは少しだけ、怖かった。
こんなにも静かで穏やかな時間が、ひどく繊細で、壊れそうで、どこか遠ざかっていくような気がして。
「ねぇ、今日のこと、忘れないでいてくれる?」
ふいに、陽菜がそう言った。
言葉が柔らかくて、まるで何かの前置きのようで、僕は急に喉がつまった。
「忘れるわけ、ないよ。ぜったいに」
「そっか……良かった」
陽菜はそう言って、少しだけ目を細めた。
でもその笑顔が、どこか……寂しさをたたえていた。
バスの座席の中で、僕はそっと彼女の手を握った。
小さくて、やわらかくて、でも少しだけ冷たくて。
その温度を感じながら、僕はただ、心の中で願っていた。
どうかこの手が、これからもずっと僕の隣にありますように。
家の近くの停留所でバスを降りると、すでに辺りは薄暗くなっていた。道の端に並ぶ街灯がポツポツと灯っていて、オレンジ色の光がふたりの影を地面に長く引き伸ばしていた。
帰り道。並んで歩きながら、ふたりの足音だけが響く。
あの紅葉のトンネルの中ではしゃいでいた陽菜が、今は静かに歩いている。少し疲れたのかもしれない。けれど、彼女の口元には、微かな笑みが残っていた。
「……今日ね」
ぽつりと陽菜が言った。
「歩いてるとき、後ろから見てたの。そしたらさ、葵がときどき振り返って、私のこと待っててくれてるの、すごく嬉しかった」
「そんなのあたりまえだ⋯⋯」
「でも、そういうあたりまえが、いちばん大事な気がするんだ……ね、ありがとう」
そう言って陽菜は、僕の肩にそっと頭を置いた。
いつもよりも、体温が近くて、呼吸のリズムが伝わってきて。
心が、静かに波立つ。
「なに?」
僕がそう尋ねると、陽菜は小さく笑った。
「今日もね、幸せすぎたの……ちょっと怖くなるくらい」
「僕も」
「同じだね⋯⋯」
歩く速度を、もう少しだけ遅くした。
ほんの少しでも、この帰り道が長く続いてくれたら、そう思ったから。
やがて陽菜の家が見えてくる。
玄関の灯りがついていて、誰かが中で帰りを待ってくれているようだった。
陽菜は少し照れたように笑って、背を向けて家に入ろうとした。でも、すぐに立ち止まり、くるりと振り返る。
「葵⋯⋯」
「ん?」
「今日、最高の1日だった……」
「僕もだ、また一緒に見よう」
「うん。約束だよ」
指切りはしなかったけれど、それ以上の想いが、そこにはあった。
陽菜の姿が扉の向こうに消えるまで、僕はずっとそこに立ち尽くしていた。
今日の思い出も、明日への願いも、全部、胸にしまって。僕は、ゆっくりと帰り道を歩き出した。
朝晩の空気が冷たくなり、どこからともなく金木犀の香りが漂ってくる。
陽菜は相変わらず、病院からの一時帰宅というかたちで、週末は家で過ごしていた。
その日も、葵は陽菜の家の前で彼女を待っていた。スニーカーのつま先で落ち葉を蹴りながら、ドアが開くのをじっと待つ。
やがてガチャリとドアが開き、薄いベージュのコートに身を包んだ陽菜が顔を出した。
「おまたせ、葵」
「ううん、今来たとこ」
定番のやり取りに、2人はふっと笑った。
陽菜は頬を少し紅潮させながら、マフラーを巻き直す。
「今日はどこに連れてってくれるの?」
「秘密。でも、陽菜がきっと好きなところだよ」
「んー、楽しみにしとく!」
葵は彼女の手を取り、ゆっくりと歩き始めた。秋の風がそっと2人の髪を揺らす。心地よい冷たさだった。
電車に乗ること数十分。目的地は、小高い丘の上にある広大な公園だった。都心から少し離れたその場所には、大きな池と並木道があり、毎年紅葉の季節になると多くの人が訪れる名所だった。
丘を登る坂道の途中、すでに地面は赤や黄の落ち葉で埋め尽くされていた。
「わあ……!」
陽菜が歓声を上げる。目を輝かせながら、足元の葉を拾い上げ、ふわりと空に投げる。
くるくると舞うモミジの葉。まるで季節そのものが、陽菜の笑顔に応えているようだった。
「来てよかった?」
「うん、すごく!!嬉しい!」
2人はそのまま並木道を歩いた。木漏れ日が地面を照らし、足元にできる影すら、どこか温かく感じられた。
途中、売店で買った温かいミルクティーを手に、ベンチに腰かける。陽菜はふう、と息を吐いてから、ふと空を見上げた。
「葵さ、前に言ってたよね。今を大事にしたいって」
「うん……今も、そう思ってる」
「私はね、今がずっと続いてほしいって思う。葵の隣にいるこの感じも……」
陽菜の横顔は、少し寂しそうだった。
「……陽菜」
葵は言葉を失いかけながらも、彼女の手をぎゅっと握った。
手のひらは細くて、少し冷たかった。
「なあ、また一緒に、紅葉見に来よう」
陽菜は少し驚いたように目を見開いて、すぐにふわりと微笑んだ。
「うん、行こう。約束だよ?」
「……うん、約束」
その言葉が、風に乗って高く遠くに飛んでいくような気がした。
陽菜の病状は、医者に言われた通り、緩やかに悪化していた。
けれど、それを感じさせないように、陽菜はいつも明るくふるまっていた。
葵は胸がぎゅっと締めつけられるようだった。
散策のあと、大きな池のそばにある展望台に2人は登った。
そこから見える景色は、まるで絵画だった。赤、橙……燃えるように色づいた木々が、湖面に映って揺れていた。
「すごいね……」
「綺麗……」
陽菜はそのまま、葵の肩にもたれかかる。
しばらく無言のまま、2人は寄り添って景色を眺めた。
やがて陽菜が、小さくつぶやいた。
「こうやって、君の隣で、何も考えずにいられる時間が……いちばん、幸せかもしれないな」
「……僕も」
陽菜の小さな笑顔を見た葵は、胸の奥があたたかくなるのを感じていた。こんなにも静かで、優しい時間が、この先もずっと続いてくれたらと、心から願った。
日が傾きはじめ、空はオレンジ色に染まっていく。
「帰ろっか」
「うん、でも……もう少しだけ、ここにいたいな」
「じゃあ、日が沈むまで」
「ありがとう、葵」
小さな「ありがとう」が、風に消えていった。
この日の紅葉は、どんな写真にも勝るほど、美しかった。木々が色づき始めたのは、十月も半ばを過ぎた頃だった。
朝晩の空気が冷たくなり、どこからともなく金木犀の香りが漂ってくる。校庭の隅にある桜の木はすでに葉を落とし、代わりに街中のイチョウやモミジが、その枝先を燃えるような赤や黄金に染めていた。
陽菜は相変わらず、病院からの一時帰宅というかたちで、週末だけは家で過ごしていた。
その日も、葵は陽菜の家の前で彼女を待っていた。スニーカーのつま先で落ち葉を蹴りながら、ドアが開くのをじっと待つ。
やがてガチャリとドアが開き、薄いベージュのコートに身を包んだ陽菜が顔を出した。
「おまたせ、葵」
「ううん、今来たとこ」
定番のやり取りに、2人はふっと笑った。
陽菜は頬を少し紅潮させながら、マフラーを巻き直す。
「今日はどこに連れてってくれるの?」
「秘密。でも、陽菜がきっと好きなところだよ」
「んー、楽しみにしとく!」
葵は彼女の手を取り、ゆっくりと歩き始めた。秋の風がそっと2人の髪を揺らす。心地よい冷たさだった。
電車に揺られること数十分。目的地は、小高い丘の上にある広大な公園だった。都心から少し離れたその場所には、大きな池と並木道があり、毎年紅葉の季節になると多くの人が訪れる名所だった。
丘を登る坂道の途中、すでに地面は赤や黄の落ち葉で埋め尽くされていた。
「わあ……!」
陽菜が歓声を上げる。目を輝かせながら、足元の葉を拾い上げ、ふわりと空に投げる。
くるくると舞うモミジの葉。まるで季節そのものが、陽菜の笑顔に応えているようだった。
「来てよかった?」
「うん、すっごく」
2人はそのまま並木道を歩いた。木漏れ日が地面を照らし、足元にできる影すら、どこか温かく感じられた。
途中、売店で買った温かいミルクティーを手に、ベンチに腰かける。陽菜はふう、と息を吐いてから、ふと空を見上げた。
「葵さ、前に言ってたよね。『今を大事にしたい』って」
「うん。……今も、そう思ってる」
「私はね、今が、ずっと続いてほしいって思う。紅葉も、空も、風の匂いも、葵の隣にいるこの感じも……」
陽菜の横顔は、少し寂しそうで、それでも確かに笑っていた。
「……陽菜」
葵は言葉を失いかけながらも、彼女の手をぎゅっと握った。
手のひらは細くて、少し冷たかった。
「なあ、来年も一緒に、紅葉見に来よう」
陽菜は少し驚いたように目を見開いて、すぐにふわりと微笑んだ。
「うん、行こう。約束だよ?」
「……うん、約束」
その言葉が、風に乗って高く遠くに飛んでいくような気がした。
陽菜の病状は、医者に言われた通り、緩やかに悪化していた。
けれど、それを感じさせないように、陽菜はいつも明るくふるまっていた。
その優しさが切なくて、葵は胸がぎゅっと締めつけられるようだった。
散策のあと、大きな池のそばにある展望台に2人は登った。
そこから見える景色は、まるで絵画だった。赤、橙、黄色……燃えるように色づいた木々が、湖面に映って揺れていた。
「すごいね……」
「うん、綺麗……」
陽菜はそのまま、葵の肩にもたれかかる。
しばらく無言のまま、2人は寄り添って景色を眺めた。
やがて陽菜が、小さくつぶやいた。
「こうやって、君の隣で、何も考えずにいられる時間が……いちばん、幸せかもしれないな」
「……俺も」
陽菜の小さな笑顔を見た葵は、胸の奥があたたかくなるのを感じていた。こんなにも静かで、優しい時間が、この先もずっと続いてくれたらと、心から願った。
日が傾きはじめ、空はオレンジ色に染まっていく。
「帰ろっか」
「うん、でも……もう少しだけ、ここにいたいな」
「じゃあ、日が沈むまで」
「ありがとう、葵」
その小さなありがとうは、風に消えていく。
この日の紅葉は、どんな写真にも勝るほど、美しかった。
帰りのバスは、ちょうど夕暮れに間に合った。
車窓の向こうに、茜色の空がゆっくりと沈んでいく。山の端に飲まれていく太陽を、陽菜は黙って見ていた。頬に当たる光が、彼女の横顔をやさしく縁取っていて、僕はそれを見ているだけで、胸の奥がじんわりと熱くなった。
何も言葉を交わさなくても、心がぴたりと重なっている気がした。
……でも、ほんとうは少しだけ、怖かった。
こんなにも静かで穏やかな時間が、ひどく繊細で、壊れそうで、どこか遠ざかっていくような気がして。
「ねぇ、今日のこと、忘れないでいてくれる?」
ふいに、陽菜がそう言った。
言葉が柔らかくて、まるで何かの前置きのようで、僕は急に喉がつまった。
「忘れるわけ、ないよ。ぜったいに」
「そっか……良かった」
陽菜はそう言って、少しだけ目を細めた。
でもその笑顔が、どこか……寂しさをたたえていた。
バスの座席の中で、僕はそっと彼女の手を握った。
小さくて、やわらかくて、でも少しだけ冷たくて。
その温度を感じながら、僕はただ、心の中で願っていた。
どうかこの手が、これからもずっと僕の隣にありますように。
家の近くの停留所でバスを降りると、すでに辺りは薄暗くなっていた。道の端に並ぶ街灯がポツポツと灯っていて、オレンジ色の光がふたりの影を地面に長く引き伸ばしていた。
帰り道。並んで歩きながら、ふたりの足音だけが響く。
あの紅葉のトンネルの中ではしゃいでいた陽菜が、今は静かに歩いている。少し疲れたのかもしれない。けれど、彼女の口元には、微かな笑みが残っていた。
「……今日ね」
ぽつりと陽菜が言った。
「歩いてるとき、後ろから見てたの。そしたらさ、葵がときどき振り返って、私のこと待っててくれてるの、すごく嬉しかった」
「そんなのあたりまえだ⋯⋯」
「でも、そういうあたりまえが、いちばん大事な気がするんだ……ね、ありがとう」
そう言って陽菜は、僕の肩にそっと頭を置いた。
いつもよりも、体温が近くて、呼吸のリズムが伝わってきて。
心が、静かに波立つ。
「なに?」
僕がそう尋ねると、陽菜は小さく笑った。
「今日もね、幸せすぎたの……ちょっと怖くなるくらい」
「僕も」
「同じだね⋯⋯」
歩く速度を、もう少しだけ遅くした。
ほんの少しでも、この帰り道が長く続いてくれたら、そう思ったから。
やがて陽菜の家が見えてくる。
玄関の灯りがついていて、誰かが中で帰りを待ってくれているようだった。
陽菜は少し照れたように笑って、背を向けて家に入ろうとした。でも、すぐに立ち止まり、くるりと振り返る。
「葵⋯⋯」
「ん?」
「今日、最高の1日だった……」
「僕もだ、また一緒に見よう」
「うん。約束だよ」
指切りはしなかったけれど、それ以上の想いが、そこにはあった。
陽菜の姿が扉の向こうに消えるまで、僕はずっとそこに立ち尽くしていた。
今日の思い出も、明日への願いも、全部、胸にしまって。僕は、ゆっくりと帰り道を歩き出した。



