病院の廊下を、陽菜の手を引きながら歩く。
「本当に退院できるなんて、まだ信じられないな」
陽菜は窓の外に広がる秋の空を見つめて、ぽつりと呟いた。入院生活のなかで、彼女の目に季節の移り変わりがどう映っていたのか、葵はずっと気になっていた。
「ねぇ陽菜、少し寄り道してもいい?」
葵がそう言うと、陽菜は小首をかしげた。
「寄り道?退院したばっかりなのに?」
「だからこそ、行きたい場所があるんだ。サプライズだよ」
「えぇ〜、またなにか考えてたの?ふふ、ほんと、葵ってそういうところ、抜け目ないよね」
「抜け目ないって……ほめてる?」
「うん、もちろん」
陽菜は笑った。透き通るような声だった。笑顔の奥にある不安も、痛みも、すべてを包み込んで、それでも生きたいと願う気持ちが滲んでいた。
2人はタクシーに乗って、市内を離れ、郊外の丘へ向かった。
そこには、葵が以前、陽菜にいつか見せたいと言っていた場所があった。
季節ごとに色が変わる木々に囲まれた小さな展望台。高台にあるそこからは、町の灯りが一望でき、空には無数の星が広がる。
陽菜が目を丸くした。
「……わぁ。すごい……」
展望台に着いた2人。秋の夜風は少し冷たかったが、空気は澄んでいて、夜空の星々が、まるで手が届きそうなほど近くに瞬いていた。
「ここ、ほんとに……綺麗」
「うん。陽菜に見せたかった」
葵はそっと陽菜の肩を抱く。陽菜は少し照れたように笑って、身を寄せた。
「ありがとう、葵。」
その声が震えていたことに、葵は気づいた。
「……泣いてる?」
「泣いてないよ」
そう言う陽菜の目元には、確かに涙が光っていた。でもその涙は、悲しみだけじゃない。たぶん、幸せがあふれて、こぼれたものだった。
2人が肩を寄せて星を見上げていると、少し離れた場所で。
パンッ……と乾いた音が夜空に響いた。
「えっ……?」
陽菜が驚いて振り返った瞬間、夜空に、花火が咲いた。
ドォンッ……。
大輪の花が、夜のキャンバスに鮮やかに描かれる。
赤、青、金、紫、桃色。
まるで陽菜のためだけに空が祝福しているかのように、次々と花火が上がった。
「まさか……これって……」
「うん。陽菜が退院したら、いつかこの星空の下で、花火を見せたかったんだ」
「……ふふっ、やられたなぁ……。これは……ずるいよ……」
陽菜は涙を隠すように笑った。夜空に咲く花が、彼女の頬の涙をやさしく照らしていた。
花火が終わり、静けさが戻る。
「葵……」
陽菜が口を開いた。
「なに?」
「ねぇ、あとどれくらい、こうやっていられるのかな」
「……それは、誰にもわからない。でも、俺は毎日を一緒に生きたい」
「うん……私ね、今日のことも、一生忘れない……きっと来年は無理だけど、それでも……」
陽菜は言葉を止めた。続けたら崩れてしまいそうで、言えなかった。
代わりに、葵がその手をぎゅっと握る。
「来年の分まで、今年、思い出作ろう」
「うん……そうだね……!」
そう言った陽菜の横顔は、泣いているのに笑っていた。
葵はその顔を、ずっと目に焼きつけていた。
その帰り道。2人は丘の途中のベンチに腰を下ろした。
「ねぇ、葵」
「ん?」
「……少し、苦しい」
「えっ、だ、大丈夫?」
「大丈夫。すぐ治まるから。でも……こういう時に、ちょっと怖くなるんだよ」
葵は何も言えなかった。ただ、陽菜の手を握りしめた。
「もともと死ぬのが怖いって、思ってなかったんだけどね……でも、葵に会って、もっともっと一緒にいたいって思ったからだから……やっぱり怖い⋯⋯」
「陽菜⋯⋯」
「でも、後悔はないよ。葵に出会えてよかったって、心から思ってる」
「僕も、陽菜に出会えてよかった」
2人は手をつないだまま、空を見上げた。星は変わらず、そこにあった。
陽菜がリュックから、一冊のノートを取り出した。
「これね、行きたいところリスト」
「あっ……!」
ノートには、手書きのリストが並んでいた。
・夏祭りに行く。
・花火を見る。
・高いところで星空を見る。
・紅葉を見に行く。
・海を見る。
・雪の中で写真を撮る。
・手を繋いで眠る。
・「だいすき」をたくさん言う。
・卒業式を、2人で迎える。
ページの隅には、陽菜の丸い字で、こう書いてあった。
「叶った日には、ハートマークをつけること♡」
「……いくつ、叶った?」
「えっと……もう、5つかな?」
「じゃあ……残りも、叶えよう。」
「……うん!」
陽菜の目がきらきらしていた。小さな命が、夜空に浮かぶ星みたいに強く、美しく輝いていた。
ベンチを立ち上がると、陽菜は少しだけ足元をふらついた。
葵はすぐに支えるようにして彼女の腕を取る。
「ごめん、ちょっと……バランス崩しちゃった」
「いいよ、無理しないで。手、貸すから」
「ありがと」
手をつないだまま、2人はゆっくりと坂道を降り始めた。遠くではまだ、秋の虫たちの声が静かに響いている。
「⋯⋯葵」
「ん?」
「今日ね、ほんとはもうちょっとだけ泣かずにいたかったな」
「なんで?」
「だって、こういう時間って、笑ってるだけのほうが、思い出としては綺麗な気がするから……」
葵は少し考えてから、言った。
「でも……笑って泣ける思い出の方が、俺は好きだよ」
陽菜は目を見開いてから、くすりと笑った。
「ずるいね、それ」
「ずるいって?」
「そんなこと言われたら、もっと泣いちゃうじゃん」
「泣いてもいいよ。俺が拭くから」
「……もう」
陽菜は、目を手の甲でぬぐったあと、葵の肩にもたれかかった。
丘を下り切ったとき、もうバスの最終は出たあとだった。
「……あちゃー、歩きだね」
「え、タクシーとか呼ばなかったの?」
「さっきのサプライズで、完全に忘れてた……」
陽菜は笑いをこらえきれず、思わず吹き出した。
「ふふっ、ほんとに抜け目ないんだか抜けてるんだか……」
「まぁ……星空と花火で満足してくれたなら、それでいいけど」
「うん……すっごく、満足」
「じゃあ、手をつないで……帰ろうか」
「うん」
街灯の少ない夜道を、2人は少しずつ歩いた。
人影も車の音もない静かな道。
2人の靴音だけが、コツコツと響いていた。
「ねぇ、葵」
陽菜がぽつりと口を開いた。
「もし私が、もっと早く病気のことに気づいてたら……何か変わってたのかな?」
「……わかんない。でも、変わってたとしても、今の俺たちには出会えてないかもしれない」
「それって……」
「俺はさ、陽菜と出会ったこの今を選んでるんだよ。過去に戻る必要なんてない。だって、今の陽菜が、俺は一番好きだから」
陽菜は足を止めた。
夜の街灯の下、そっと顔を上げる。
「……そんなこと言われたら……」
そう言って、彼女はぎゅっと葵に抱きついた。
「あったかい……」
「俺の心は、いつだって陽菜に向いてるからね。」
「知ってる。ちゃんと……伝わってるよ。」
家に近づく頃には、空が少しだけ白みはじめていた。
秋の夜明けは早い。朝焼けが、街のビルの隙間からじんわりとにじんでいた。
2人は陽菜の家の前で立ち止まる。
「もう、帰らなきゃだね」
「うん。でも……またすぐ会えるよ。だって、もう退院したんだもん」
「そうだね……」
陽菜はうれしそうに笑っていた。でもその笑顔の奥にある影を、葵は見逃さなかった。
「ねぇ、葵」
「ん?」
「あとでさ、一緒に行きたいところリスト見直さない?」
「もちろん。リストにない場所も、どんどん追加しよう。」
「……ありがとう。」
「なにが?」
「全部。」
それだけ言って、陽菜はドアを開けて家に入っていった。
振り返るときの彼女の目は、すこし赤かった。
葵は、まだ空が真っ白になる前に、自分の家へと戻った。
ベッドに腰を下ろして、陽菜との今日の出来事を思い返す。
花火、星空。
ひとつひとつが、宝物みたいに彼の胸に残っていた。
きっと、この先、陽菜との時間がどれだけ短くても。
彼女が最後まで笑顔でいられるように、自分にできるすべてをしたい。
心の中で、葵はそう誓った。
「本当に退院できるなんて、まだ信じられないな」
陽菜は窓の外に広がる秋の空を見つめて、ぽつりと呟いた。入院生活のなかで、彼女の目に季節の移り変わりがどう映っていたのか、葵はずっと気になっていた。
「ねぇ陽菜、少し寄り道してもいい?」
葵がそう言うと、陽菜は小首をかしげた。
「寄り道?退院したばっかりなのに?」
「だからこそ、行きたい場所があるんだ。サプライズだよ」
「えぇ〜、またなにか考えてたの?ふふ、ほんと、葵ってそういうところ、抜け目ないよね」
「抜け目ないって……ほめてる?」
「うん、もちろん」
陽菜は笑った。透き通るような声だった。笑顔の奥にある不安も、痛みも、すべてを包み込んで、それでも生きたいと願う気持ちが滲んでいた。
2人はタクシーに乗って、市内を離れ、郊外の丘へ向かった。
そこには、葵が以前、陽菜にいつか見せたいと言っていた場所があった。
季節ごとに色が変わる木々に囲まれた小さな展望台。高台にあるそこからは、町の灯りが一望でき、空には無数の星が広がる。
陽菜が目を丸くした。
「……わぁ。すごい……」
展望台に着いた2人。秋の夜風は少し冷たかったが、空気は澄んでいて、夜空の星々が、まるで手が届きそうなほど近くに瞬いていた。
「ここ、ほんとに……綺麗」
「うん。陽菜に見せたかった」
葵はそっと陽菜の肩を抱く。陽菜は少し照れたように笑って、身を寄せた。
「ありがとう、葵。」
その声が震えていたことに、葵は気づいた。
「……泣いてる?」
「泣いてないよ」
そう言う陽菜の目元には、確かに涙が光っていた。でもその涙は、悲しみだけじゃない。たぶん、幸せがあふれて、こぼれたものだった。
2人が肩を寄せて星を見上げていると、少し離れた場所で。
パンッ……と乾いた音が夜空に響いた。
「えっ……?」
陽菜が驚いて振り返った瞬間、夜空に、花火が咲いた。
ドォンッ……。
大輪の花が、夜のキャンバスに鮮やかに描かれる。
赤、青、金、紫、桃色。
まるで陽菜のためだけに空が祝福しているかのように、次々と花火が上がった。
「まさか……これって……」
「うん。陽菜が退院したら、いつかこの星空の下で、花火を見せたかったんだ」
「……ふふっ、やられたなぁ……。これは……ずるいよ……」
陽菜は涙を隠すように笑った。夜空に咲く花が、彼女の頬の涙をやさしく照らしていた。
花火が終わり、静けさが戻る。
「葵……」
陽菜が口を開いた。
「なに?」
「ねぇ、あとどれくらい、こうやっていられるのかな」
「……それは、誰にもわからない。でも、俺は毎日を一緒に生きたい」
「うん……私ね、今日のことも、一生忘れない……きっと来年は無理だけど、それでも……」
陽菜は言葉を止めた。続けたら崩れてしまいそうで、言えなかった。
代わりに、葵がその手をぎゅっと握る。
「来年の分まで、今年、思い出作ろう」
「うん……そうだね……!」
そう言った陽菜の横顔は、泣いているのに笑っていた。
葵はその顔を、ずっと目に焼きつけていた。
その帰り道。2人は丘の途中のベンチに腰を下ろした。
「ねぇ、葵」
「ん?」
「……少し、苦しい」
「えっ、だ、大丈夫?」
「大丈夫。すぐ治まるから。でも……こういう時に、ちょっと怖くなるんだよ」
葵は何も言えなかった。ただ、陽菜の手を握りしめた。
「もともと死ぬのが怖いって、思ってなかったんだけどね……でも、葵に会って、もっともっと一緒にいたいって思ったからだから……やっぱり怖い⋯⋯」
「陽菜⋯⋯」
「でも、後悔はないよ。葵に出会えてよかったって、心から思ってる」
「僕も、陽菜に出会えてよかった」
2人は手をつないだまま、空を見上げた。星は変わらず、そこにあった。
陽菜がリュックから、一冊のノートを取り出した。
「これね、行きたいところリスト」
「あっ……!」
ノートには、手書きのリストが並んでいた。
・夏祭りに行く。
・花火を見る。
・高いところで星空を見る。
・紅葉を見に行く。
・海を見る。
・雪の中で写真を撮る。
・手を繋いで眠る。
・「だいすき」をたくさん言う。
・卒業式を、2人で迎える。
ページの隅には、陽菜の丸い字で、こう書いてあった。
「叶った日には、ハートマークをつけること♡」
「……いくつ、叶った?」
「えっと……もう、5つかな?」
「じゃあ……残りも、叶えよう。」
「……うん!」
陽菜の目がきらきらしていた。小さな命が、夜空に浮かぶ星みたいに強く、美しく輝いていた。
ベンチを立ち上がると、陽菜は少しだけ足元をふらついた。
葵はすぐに支えるようにして彼女の腕を取る。
「ごめん、ちょっと……バランス崩しちゃった」
「いいよ、無理しないで。手、貸すから」
「ありがと」
手をつないだまま、2人はゆっくりと坂道を降り始めた。遠くではまだ、秋の虫たちの声が静かに響いている。
「⋯⋯葵」
「ん?」
「今日ね、ほんとはもうちょっとだけ泣かずにいたかったな」
「なんで?」
「だって、こういう時間って、笑ってるだけのほうが、思い出としては綺麗な気がするから……」
葵は少し考えてから、言った。
「でも……笑って泣ける思い出の方が、俺は好きだよ」
陽菜は目を見開いてから、くすりと笑った。
「ずるいね、それ」
「ずるいって?」
「そんなこと言われたら、もっと泣いちゃうじゃん」
「泣いてもいいよ。俺が拭くから」
「……もう」
陽菜は、目を手の甲でぬぐったあと、葵の肩にもたれかかった。
丘を下り切ったとき、もうバスの最終は出たあとだった。
「……あちゃー、歩きだね」
「え、タクシーとか呼ばなかったの?」
「さっきのサプライズで、完全に忘れてた……」
陽菜は笑いをこらえきれず、思わず吹き出した。
「ふふっ、ほんとに抜け目ないんだか抜けてるんだか……」
「まぁ……星空と花火で満足してくれたなら、それでいいけど」
「うん……すっごく、満足」
「じゃあ、手をつないで……帰ろうか」
「うん」
街灯の少ない夜道を、2人は少しずつ歩いた。
人影も車の音もない静かな道。
2人の靴音だけが、コツコツと響いていた。
「ねぇ、葵」
陽菜がぽつりと口を開いた。
「もし私が、もっと早く病気のことに気づいてたら……何か変わってたのかな?」
「……わかんない。でも、変わってたとしても、今の俺たちには出会えてないかもしれない」
「それって……」
「俺はさ、陽菜と出会ったこの今を選んでるんだよ。過去に戻る必要なんてない。だって、今の陽菜が、俺は一番好きだから」
陽菜は足を止めた。
夜の街灯の下、そっと顔を上げる。
「……そんなこと言われたら……」
そう言って、彼女はぎゅっと葵に抱きついた。
「あったかい……」
「俺の心は、いつだって陽菜に向いてるからね。」
「知ってる。ちゃんと……伝わってるよ。」
家に近づく頃には、空が少しだけ白みはじめていた。
秋の夜明けは早い。朝焼けが、街のビルの隙間からじんわりとにじんでいた。
2人は陽菜の家の前で立ち止まる。
「もう、帰らなきゃだね」
「うん。でも……またすぐ会えるよ。だって、もう退院したんだもん」
「そうだね……」
陽菜はうれしそうに笑っていた。でもその笑顔の奥にある影を、葵は見逃さなかった。
「ねぇ、葵」
「ん?」
「あとでさ、一緒に行きたいところリスト見直さない?」
「もちろん。リストにない場所も、どんどん追加しよう。」
「……ありがとう。」
「なにが?」
「全部。」
それだけ言って、陽菜はドアを開けて家に入っていった。
振り返るときの彼女の目は、すこし赤かった。
葵は、まだ空が真っ白になる前に、自分の家へと戻った。
ベッドに腰を下ろして、陽菜との今日の出来事を思い返す。
花火、星空。
ひとつひとつが、宝物みたいに彼の胸に残っていた。
きっと、この先、陽菜との時間がどれだけ短くても。
彼女が最後まで笑顔でいられるように、自分にできるすべてをしたい。
心の中で、葵はそう誓った。



