君がいた世界の色

陽菜が眠っている病室をそっと後にして、僕はタクシーに乗った。



 行き先を告げたのは、陽菜が教えてくれていた実家の住所だった。ずっと前に「いつか挨拶に来てね」と、冗談交じりに笑って言っていたのを覚えている。

 まさかこんな形で、本当に来ることになるなんて、あの頃は思ってもいなかった。



 車窓からの景色はどこか淡く、風に揺れる街路樹の葉音が心の奥を優しく揺らしていた。



 インターホンを押すと、数秒の沈黙のあと、ガチャリと木製の引き戸が開いた。



「あの……西村葵です。陽菜さんの、恋人です」

 言葉にするのが、少しだけ照れくさくて、少しだけ誇らしかった。

 そしてその言葉が、この家に入る鍵になるのだと、どこかで信じていた。



 玄関に現れたのは、小柄でやさしそうな女性だった。陽菜さんのお母さんだと、すぐにわかった。



「あぁ、もしかして。陽菜が言ってた子……!」

 彼女はすぐに目を潤ませて、そっと僕の手を取った。



「よく来てくれたね。どうぞ、上がって……陽菜、すごく楽しそうに、あなたの話をしてたのよ」



 玄関を抜けた家の中は、陽菜らしい清潔さと、どこか温かみのある空気に満ちていた。

 リビングに案内されると、陽菜の父親が、静かに頭を下げて挨拶をしてくれた。

 無口だけれど、表情のひとつひとつに、家族への深い愛情がにじんでいるように感じた。



「……最近、陽菜のことで、いろいろと無理をさせてしまってるんじゃないかと思って」

 そう言って、父親はお茶を差し出してくれた。



「無理なんて、してません。僕は、陽菜と過ごす時間が……何より、宝物なので」



 自然と出たその言葉に、母親は手で口元を押さえて、小さな声で泣いた。



 しばらく沈黙が流れたあと。



「ねえ、見てもらってもいいかしら?」

 そう言って、お母さんが奥の部屋から持ってきたのは、一冊のアルバムだった。



 少し色あせた布張りの表紙。

 開くと、そこにはまだ幼かった頃の陽菜が、笑顔で写っていた。



 小学校の入学式、運動会、海で遊んでいる写真、友達と撮った卒業アルバムのような一枚……どの写真の中でも、陽菜は太陽のように笑っていた。



「……この笑顔を見ると、あの子がどれだけ頑張ってたか、わかるんです」

 ページをめくるたびに、陽菜の人生が静かに流れていく。



「病気が見つかったのは、中学の頃なの。最初は風邪みたいな症状だったけど、精密検査をしたら……」

 母親の声が震えた。



「医者には、長くは生きられないかもしれないって、そう言われました。でも、陽菜は……私の人生は、短いかもしれないけど、ちゃんと生きるって、そう言ったのよ」

 葵は、指先がかすかに震えているのに気づいた。



 ページの終わり近くに、小さな封筒が挟まっていた。



「これ……陽菜が、たぶんあなたに渡したかったんだと思う。何かあったときは、これをって、私に託されてて」



 そう言って、母親はその封筒を差し出した。



 封を開けると、中には小さな手紙が入っていた。



 葵へ。



 もしこの手紙を読んでるなら、私はもう病院で眠ってるか、それとも……いなくなってるかもしれないね。

 でも、葵に言いたいことが、どうしてもあって、書いておこうと思いました。



 葵と出会えて、私は、はじめて「誰かに好きになってもらえるかもしれない」って思えた。

 自分のことを、少しだけ、信じられるようになった。



 いっぱい笑ったよね。泣きそうなときも、そばにいてくれたよね。

 ありがとう。本当に、ありがとう。



 私は怖くなかったよ。葵がいたから、最後まで「普通の女の子」として過ごせた。

 誰かを好きになれて、好きになってもらえて、もうそれだけで、私は幸せです。



 だから、もし私がいなくなったあとも、葵には、いっぱい笑っててほしい。

 たくさんの季節を、いっぱいの景色を、見てほしい。



 でも……。

 時々でいいから、私のことも、思い出してくれたら嬉しいな。



 陽菜より。



 手紙を読み終わる頃には、僕の頬には、知らず知らずのうちに涙が伝っていた。



「……ありがとう、陽菜」



 小さく呟いたその声に、静かな部屋の空気が、ふわりと優しく包んでくれたような気がした。



「陽菜はね、最後のほう、よく言ってたの。葵くんと出会ってから、夢が1つ増えたって」



「夢……?」



「どんな結末でも、ちゃんと自分の足で、最後まで歩きたいって」



 その夜、帰り際、玄関で母親が僕の手を握った。

「お願いね……陽菜を、最後まで見てあげて」



「はい。僕、陽菜がどんな顔をしても、どんな姿でも、絶対に最後まで、隣にいます」



 空を見上げると、秋の風がひんやりと吹いていた。

 でも、心の中は、あたたかかった。