「葵〜、部屋の前にご飯置いとくよ〜?」



 母の声が廊下の向こうから聞こえた。

 でも今は、タイミングが悪すぎる。



「はぁ⋯⋯わかったよ。置いといて!」



 少しイラついた声で返事をして、すぐにゲームの世界へと意識を戻した。負けたばかりで、感情の整理が追いつかない。



 ゲーム、漫画、小説、アニメ、映画。

 どれも僕にとっては現実から逃げるための道具でしかなかった。

 今夜はゲームを終えたらアニメ映画を観る、と決めていた。もうスケジュールは崩せない。



 こんな風に、ただ日々を潰すように生きているのには、理由がある。



 あれは、中学1年のときだった。



 好きだった子に、勇気を振り絞って告白した。

 結果は、あっけなかった。彼女は僕の気持ちを笑い飛ばしたうえで、クラス中にその話を広めた。

 あの日から、僕の世界は変わった。



 首を絞められ、殴られ、蹴られ、水をかけられた。

 漫画でしか見たことのないようないじめが、僕の日常になった。

 最初は耐えていた。でもある日、もう無理だと感じた。

 それから、学校に行けなくなった。



「あぁ⋯⋯付き合わなくてよかったな」



 自分にそう言い聞かせていた。傷ついたのは、僕の方なのに。



 それでも、心のどこかでまだ引きずっていた。

 恥ずかしかった。惨めだった。

 もしやり直せるなら、初めから全部、別の人生を歩みたかった。



 夜。

 母の声が、再び扉の向こうから聞こえてきた。



「⋯⋯はい、はい⋯⋯わかりました」



 母は誰かと電話をしているらしい。

 でも、僕には関係のない話だ。

 ベッドに体を投げ出すと、すぐにノックの音がした。



「葵⋯⋯ちょっといい?」



 母の声だった。

 仕方なく返事をすると、ドアがゆっくりと開いた。



「学校のみんな、心配してるらしいよ。早く来てほしいって」



「は?⋯⋯俺がどんな気持ちで家にいるか、わかっていて言ってるの?」



 自分でも驚くくらい、感情的になっていた。

 母は戸惑ったように言葉を飲み込んだ。



「え⋯⋯しんどいって⋯⋯?」



「もういいから。出てってよ」



 母は、悲しげな表情を浮かべて扉を閉めた。

 その表情が、なぜか胸に引っかかった。

 でも、気のせいだ。考えないようにしよう。



 眠りにつく頃には、怒りだけが残っていた。

 

 そして、夢を見た。

 教室の中心で笑う僕。

 周りにはたくさんの友達がいて、女子たちに囲まれていた。

 みんなが僕を見て、楽しそうに話しかけてくる。

 そんな夢だった。



「⋯⋯陽キャって、いいな⋯⋯」

 夢から覚めたあと、ポツリと呟いた。



 そんな未来、僕には来ないと知っている。

 だからこそ、夢でもよかったのに。もう少し見ていたかった。



 「フッ……」



 鼻で笑ってみた。

 でも、本当は笑えなかった。何も面白くない。ただ情けないだけだった。



 小学生の頃は、こんなじゃなかった。

 みんなと仲が良かった。

 だけど、中学に上がると、周りが変わっていった。反抗期、思春期。そんな言葉では片づけられないくらい、僕は急に嫌われていった。



「いや⋯⋯違うな⋯⋯」



 僕の性格が悪かった?たぶんそれもある。

 女子に生理的に無理って思われてた?それも、あるかもしれない。

 でも、どれもしっくりこない。



 結局、すべての始まりは、あの告白だった。

 あれがすべてを壊した。


「⋯⋯はぁ」

 深くため息をついた。

 誰にも聞こえない、夜の深い静けさのなかで。