彼はまぎれもなく、優しさで出来ていた。

――いやーだぁ!パパ、いかないでよぉー!

今ではお父さんにですら遠慮するようになった私にも、
思いっきりわがままを言っていた、いや「言えていた」時代がある。


あまり記憶には残っていないけれど、あとで両親から話を聞く限り、5歳の頃のエピソードが、その最たる例だ。


その年には、大きな地震による津波で、沿岸部に大きな被害がもたらされた。

精神科医であるお父さんは、被災した人々のために編成された「心のケアチーム」の一員として、遠い被災地へ赴こうとしていた。


お父さんは私が寝ている間を見計らって黙って出発することもできたはずだけど、そうはしなかった。


お父さんは、私の前に膝立ちをして真っすぐ私を見つめながら、こう話した。


――楓、よく聞くんだよ。この前おっきく地面がゆれたせいで海から大きな波が来て、たくさんの人とか、家とかが流されてしまった。

パパは、そんな人たちを助けに行きたいんだ。

遠いところだし、助けるためには時間がかかるから、帰るのがいつになるかは分からない。
寂しい思いをさせると思うけど、ママと一緒に待っていてほしいんだ。


そのときの私は、それを全力で拒絶した。当然だ。

5歳の子どもが、そんな説明をされても納得どころか理解すらできるわけがない。


――いやだ!パパ、いかないで!ここにいて!


私はお父さんが目の前からいなくなるのが嫌で嫌で、涙でぐしゃぐしゃになりながら、必死になって引き留めた。


お父さんはあのとき、私に正直に話したことを後悔しただろうか。


お父さんは私を強く抱きしめ、それからお母さんに私を託すと、家を後にした。


――いやーだぁ!パパ、いかないでよー!


背中から娘が大泣きして叫ぶ声が聞こえるなか、車に乗り込んだお父さんは、どんな気持ちだっただろう。


いつまでも泣いている私を抱っこしながら、お母さんは優しく言った。


――楓、パパは、楓といっしょにいるのが大好きだよ。楓も知っているよね?

でもね、そんな大好きなことをがまんしてでも、困っている人を助けたいんだって。

パパがいなくてママも寂しいけど、ママは、パパのことを応援したいんだ――


そのときの私には、お父さんが自分をおいて遠いところに行こうとする気持ちは分からなかったけど、
お母さんの気持ちは感じ取っていた。

お父さんのことを応援したい気持ちと…

やっぱり寂しい、という気持ち。


寂しいのは自分だけじゃないんだと気付いたら、少し気持ちが落ち着いたのを今でも覚えている。


そして、同じ気持ちでいるお母さんを、私が助けてあげなきゃ、と幼いながらに思った。