一つ目は、同室だったおばあちゃんとの思い出だ。


物心がつく前に実のおばあちゃんを亡くしていた私にとって、おばあちゃんと言ったらこの人の笑顔が思い浮かぶ。


初めての入院に緊張していた私が病室に入ったとき、ちょうど身体を起こしていたおばあちゃんと目があった。


するとおばあちゃんは、満面の笑みを浮かべて言った。


「あなたが、楓ちゃん?」


初対面で急に名前を呼ばれて驚いたけど、すぐに警戒する必要がないのだと分かった。

なぜなら、目尻のしわが印象的で、その表情やしぐさから優しさと温かさが滲み出ていたから。


この人はまちがいなく、やさしい人だ。


「今日から娘が同室させていただきます。葉月です。よろしくお願い致します」


「はい、木村幸枝といいます。こちらこそよろしくお願いしますね」


お母さんに促されて私が「よろしくおねがいします」と言っておじぎすると、
おばあちゃんは目尻のしわをいっそう深くして、「よろしくね、楓ちゃん」と言った。


そして、すっかり警戒を解いた私は、思っていることを素直に口にする。

「どうしてわたしの名前を知っているんですか?」

「今日から同室になる女の子がいるって看護師さんから聞いてね。
嬉しくって、わがまま言って何てお名前の子なの?って聞いちゃった。
そしたらとっても素敵なお名前だったから。あなたが来てくれるのを楽しみにしていたのよ。
なんと言ったって、ほら」


そう言って、おばあちゃんは窓の外を指差した。



秋晴れのやわらかな日差しを一身に受けて真っ赤に輝く、大きな楓の樹。



穏やかな風に吹かれるたびに、さらさらと音を立ててゆれている。


その光景に心を奪われ、私は言葉を失っていた。


「綺麗でしょう、この部屋からの景色。
初めて来たとき、一目で気に入っちゃってね。
そんなところに『楓』という名前の女の子が来てくれると言うのよ。
こんな素敵な偶然、滅多にあるもんじゃないわ」


おばあちゃんは心底嬉しそうに、笑っていた。


それに、と言っておばあちゃんは手招きをする。


「あなたの名前、本当にあなたにぴったりだと思う。
楓の樹を見たときのあなたの笑顔。すっごく輝いていたわ。
とてもいい名前を付けてもらったのね」


おばあちゃんはそう言って、私の頭を撫でてくれた。

しわがあって、お母さんよりちょっと大きくて、すごく、あったかかった。


楓の樹と、それが見える病室と、優しいおばあちゃんと、『楓』という私の名前。


このとき私は、大好きなものが一気に四つも増えてしまった。


おばあちゃんがいてくれたおかげで私は、お母さんがいなくても寂しさや不安を感じずに入院生活を送ることができた。

おばあちゃんが語る昔の話を聞いたり、教えてもらいながら折り紙を折ったりしているうちに、一日はあっという間に過ぎていった。


私が発作が起こしたときは、ナースコールを押して看護師さんを呼んでくれた。すごく心強かった。


それに、おばあちゃんは私にある「おまじない」を教えてくれた。


少し長いおまじないだけど、私は今でも忘れていない。
  


カエデの葉っぱは かえるの手
初夏のカエデは きれいな緑
かえるの母が うたいます
おたまじゃくしに うたいます

あなたはいずれ りっぱなかえる
りくの上では おいしい空気
いっぱいすって いい気持ち
きれいな空気 いっぱいすって
ケロケロケロと 歌いましょう

やさしい歌声 ひびいたら
もうだいじょうぶ だいじょうぶ
だいじょうぶったら だいじょうぶ


おばあちゃんは、看護師さんが来るまでの間、
私のベッドに来て背中をさすりながら、このおまじないを繰り返し唱えてくれた。

すると不思議なことに、私の呼吸は楽になっていった。

それまでは、吸入するまでは全然収まらなかったというのに。


ときには、看護師さんが来るころには完全に治ってしまっていたこともあったほど、
このおまじないの効果はすごかった。