若返った私の姿に、太監の馬をはじめ周囲のものは当然ながら驚き慌てた。
「た、太后陛下!? いや、まさかそんな……」
「何が『まさか』じゃ。男と身を交わし陽の気を受ければ若返る、そう言ったのはそちであろう?」
「は、それはそうでございますが……」
目を剥きワナワナと唇を震わす馬に、おかしみを感じる。
「妙よな。そちは妾にいつも『三十過ぎくらいにしか見えぬ』と申しておったな? ならば、今のこの姿こそがそれであろうが」
「は、それはそうでございますが……、いや、しかし……」
「妾が徐蓮花であると認められぬか? ならばそちが妾に仕えるようになってからのことを答えてやろうぞ。何でも聞いてみよ」
「そ、それでは畏れながら……」
私は馬の質問に、一つ一つ答えてやる。馬は唸りながらもただ頷き続けた。
「馬よ、そちの連れて来た女道士は本物であったぞ。褒めてつかわす」
「も、勿体ないお言葉にございます……」
訝しみながらも、一同は現実を受け入れざるを得ないようだった。
「ど、どのようなお姿になられようとも、私どもの願いは、太后陛下がお健やかに過ごされることでございますゆえ」
狼狽えながらも恭しく言葉を綴る馬の姿に、私は絹扇の奥で忍び笑いを漏らした。
「は、母上……!?」
皇帝の寝所へ向かい自身が母親であることを伝えると、息子天佑は目を丸くして言葉を失った。呼吸困難に陥った天佑の背を江淑妃が慌ててさすり、侍女に命じて薬湯を持ってこさせる。杯の中の液体を飲み干すと、天佑は胸を押さえて大きく息をついた。
「すまぬな、そこまで驚かせるつもりはなかったのじゃが」
危なかった。江淑妃の手慣れた看護に心から感謝した。
私が以前より蓬莱宮にて傑倫より陽の気をいただいていることは、さすがに天佑には話していない。母親として、息子に胸を張って言える内容ではないからだ。周囲にも口止めをしてある。
男後宮である『控鷹府』の設置も、文化史の編纂をする私の補佐役を自ら育成するという名目で、許可を得ていた。
私は天佑に、女道士から若返りの秘術を授けられた、とだけ説明した。嘘ではない。
「驚くなと言う方が無理でしょう。今の母上のお姿はもはや……」
天佑は視線を上から下まで幾度も往復させ、私を確認する。
「私の娘、いや妹だと言っても、誰も疑いませぬ」
(娘でも良いのじゃぞ)
目的が「孫を守るため若くなりたい」ではあったものの、やはり若返った己の姿には心が弾む。
例えば今日は、ここまで足を運ぶのに息切れすることが一切なかった。あの老いた体を体験した後だと、まるで羽でも生えたかのようにこの身は軽く、動きやすく感じる。失ったものを取り戻した、そんな清々しさを感じていた。
「おばあ様、いらしてるの?」
私たちの会話を聞きつけ、トコトコと可愛らしい足音が近づいてきた。
「わぁ!」
顔を見せた暁明が、ぱっと花の咲いたような笑顔を浮かべる。
「おばあ様、今日も綺麗!」
「ありがとう、暁明。よく妾だと分かったのぅ」
「お着物が、いつもおばあ様の着ているものと同じ!」
「そ、そうか……」
『今日も綺麗』で済ませていいのか、着物が同じであれば同一人物と認識するのかと少し気にかかったが、私は孫からの真っ直ぐな賞賛の言葉を素直に受け止めることにした。
(ん?)
気配に目を上げると、皇帝付きの太監・霍が柱の陰からこちらを見ていた。隣には私付きの馬の姿もある。二人ともただならぬ光をその双眸に潜ませていたが、私と視線が合うと二人は目を細めにっこりと笑った。
(何なのじゃ……)
問いただそうと思ったが、可愛い暁明の前で声を荒げたくない。今は、不問とすることにした。
(そうじゃ、せっかく若返ったのだから……!)
「うむ、美味である」
私の前には、湯気の立ち上る料理が並べられていた。
(あぁ、素晴らしい。豚の角煮がするすると食べられる!)
好物の豚の角煮があまり食べられなくなったのは、四十を超えた辺りだったと思う。口はその味を欲しているものの、二つ以上食べると胸やけや胃もたれを起こす体になってしまったのだ。
(それにこのふかひれの煮込みも! 干しナマコの和え物も! 豆腐にかかった葱だれの何たる美味なことか)
齢を経るごとに失ったのは、胃の許容量や吸収力だけではなかった。味覚も鈍り、昔のように食事に感動することも減っていた。
(あぁ、この胡麻団子のサクサクと香ばしい味わい、餡の深みも懐かしい。そうじゃった、これはこういう味じゃった)
目の前に広げられた食べきれぬ好物を、ほんの数口箸をつけるだけで下げさせていた昨日までが嘘のようだ。もっと味わいたいと思うのに胃腸がそれを許さず、恨めしく思いながら卓子が片づけられるのを見ているしかなかった。
(それを今日は食べられる。心行くまで!)
心配そうに見つめる侍女たちを尻目に、私は食事を大いに楽しんだ。
(うむ、悪くない)
続いて行なったのは、私が「徐貴妃」と呼ばれていた頃に着ていた衣へ着替えることだった。老いて着ることのなくなった派手めの衣が、今の姿ならばしっくりと馴染む。
「ふふ、こんなのもあったのぅ」
私が先帝の寵を受けていた頃に作った数多の衣が、次々と部屋へ運び込まれてくる。丁寧に保存されていたそれらは、すぐにも着られるほどしっかりしていた。
「おや、懐かしい」
それは当時、一番のお気に入りだった紅蓮灰色の半臂だった。金糸の細やかな刺繍が、上品でありつつも華やかだ。
――蓮花。そなたと同じく、『蓮』の文字の入った色じゃ。艶やかなそなたによく似合う。これは美しいそなたをより一層美しく見せる衣じゃな。
(陛下……)
三十年も昔に失った人への当時の気持ちを思い出し、目頭がほんのりと熱を持った。
「太后陛下、そちらへお着替えになられますか?」
思い出の半臂を胸に抱いている私へ、侍女が問いかけてくる。
「そうじゃの……」
そうするかと一瞬思ったが、すぐに思いとどまった。
「これを着るのは明日にしよう」
明日は『控鷹府』の面首たちの前へ初めて顔を出す日だ。最も美しい装いは、その時のために取っておこうと考えた。
「かしこまりました」
「太后陛下」
侍女の一人が捧げ持ってきたのは、髪結いと化粧道具一式だった。
「ふふ、頼む」
今の姿と衣に相応しい髪型と装いにしようと、気を利かせたのだろう。私が椅子に座り姿勢を正すと、侍女たちの手が細やかに動きはじめる。
(あぁ、私はまだこんな姿にもなれるのか)
鏡の中で仕上がっていく自身の姿へ私は見惚れる。
陶器のようにすべやかな肌の上を、刷毛や筆が引っかかることなく走るのが嬉しい。
一度失ってしまったものへの懐かしさと愛しさが胸に突き上げ、甘く沁みた。
若返った我が身を存分に堪能したその夜、私はまたも傑倫を褥へと呼んだ。
「た、太后陛下!? いや、まさかそんな……」
「何が『まさか』じゃ。男と身を交わし陽の気を受ければ若返る、そう言ったのはそちであろう?」
「は、それはそうでございますが……」
目を剥きワナワナと唇を震わす馬に、おかしみを感じる。
「妙よな。そちは妾にいつも『三十過ぎくらいにしか見えぬ』と申しておったな? ならば、今のこの姿こそがそれであろうが」
「は、それはそうでございますが……、いや、しかし……」
「妾が徐蓮花であると認められぬか? ならばそちが妾に仕えるようになってからのことを答えてやろうぞ。何でも聞いてみよ」
「そ、それでは畏れながら……」
私は馬の質問に、一つ一つ答えてやる。馬は唸りながらもただ頷き続けた。
「馬よ、そちの連れて来た女道士は本物であったぞ。褒めてつかわす」
「も、勿体ないお言葉にございます……」
訝しみながらも、一同は現実を受け入れざるを得ないようだった。
「ど、どのようなお姿になられようとも、私どもの願いは、太后陛下がお健やかに過ごされることでございますゆえ」
狼狽えながらも恭しく言葉を綴る馬の姿に、私は絹扇の奥で忍び笑いを漏らした。
「は、母上……!?」
皇帝の寝所へ向かい自身が母親であることを伝えると、息子天佑は目を丸くして言葉を失った。呼吸困難に陥った天佑の背を江淑妃が慌ててさすり、侍女に命じて薬湯を持ってこさせる。杯の中の液体を飲み干すと、天佑は胸を押さえて大きく息をついた。
「すまぬな、そこまで驚かせるつもりはなかったのじゃが」
危なかった。江淑妃の手慣れた看護に心から感謝した。
私が以前より蓬莱宮にて傑倫より陽の気をいただいていることは、さすがに天佑には話していない。母親として、息子に胸を張って言える内容ではないからだ。周囲にも口止めをしてある。
男後宮である『控鷹府』の設置も、文化史の編纂をする私の補佐役を自ら育成するという名目で、許可を得ていた。
私は天佑に、女道士から若返りの秘術を授けられた、とだけ説明した。嘘ではない。
「驚くなと言う方が無理でしょう。今の母上のお姿はもはや……」
天佑は視線を上から下まで幾度も往復させ、私を確認する。
「私の娘、いや妹だと言っても、誰も疑いませぬ」
(娘でも良いのじゃぞ)
目的が「孫を守るため若くなりたい」ではあったものの、やはり若返った己の姿には心が弾む。
例えば今日は、ここまで足を運ぶのに息切れすることが一切なかった。あの老いた体を体験した後だと、まるで羽でも生えたかのようにこの身は軽く、動きやすく感じる。失ったものを取り戻した、そんな清々しさを感じていた。
「おばあ様、いらしてるの?」
私たちの会話を聞きつけ、トコトコと可愛らしい足音が近づいてきた。
「わぁ!」
顔を見せた暁明が、ぱっと花の咲いたような笑顔を浮かべる。
「おばあ様、今日も綺麗!」
「ありがとう、暁明。よく妾だと分かったのぅ」
「お着物が、いつもおばあ様の着ているものと同じ!」
「そ、そうか……」
『今日も綺麗』で済ませていいのか、着物が同じであれば同一人物と認識するのかと少し気にかかったが、私は孫からの真っ直ぐな賞賛の言葉を素直に受け止めることにした。
(ん?)
気配に目を上げると、皇帝付きの太監・霍が柱の陰からこちらを見ていた。隣には私付きの馬の姿もある。二人ともただならぬ光をその双眸に潜ませていたが、私と視線が合うと二人は目を細めにっこりと笑った。
(何なのじゃ……)
問いただそうと思ったが、可愛い暁明の前で声を荒げたくない。今は、不問とすることにした。
(そうじゃ、せっかく若返ったのだから……!)
「うむ、美味である」
私の前には、湯気の立ち上る料理が並べられていた。
(あぁ、素晴らしい。豚の角煮がするすると食べられる!)
好物の豚の角煮があまり食べられなくなったのは、四十を超えた辺りだったと思う。口はその味を欲しているものの、二つ以上食べると胸やけや胃もたれを起こす体になってしまったのだ。
(それにこのふかひれの煮込みも! 干しナマコの和え物も! 豆腐にかかった葱だれの何たる美味なことか)
齢を経るごとに失ったのは、胃の許容量や吸収力だけではなかった。味覚も鈍り、昔のように食事に感動することも減っていた。
(あぁ、この胡麻団子のサクサクと香ばしい味わい、餡の深みも懐かしい。そうじゃった、これはこういう味じゃった)
目の前に広げられた食べきれぬ好物を、ほんの数口箸をつけるだけで下げさせていた昨日までが嘘のようだ。もっと味わいたいと思うのに胃腸がそれを許さず、恨めしく思いながら卓子が片づけられるのを見ているしかなかった。
(それを今日は食べられる。心行くまで!)
心配そうに見つめる侍女たちを尻目に、私は食事を大いに楽しんだ。
(うむ、悪くない)
続いて行なったのは、私が「徐貴妃」と呼ばれていた頃に着ていた衣へ着替えることだった。老いて着ることのなくなった派手めの衣が、今の姿ならばしっくりと馴染む。
「ふふ、こんなのもあったのぅ」
私が先帝の寵を受けていた頃に作った数多の衣が、次々と部屋へ運び込まれてくる。丁寧に保存されていたそれらは、すぐにも着られるほどしっかりしていた。
「おや、懐かしい」
それは当時、一番のお気に入りだった紅蓮灰色の半臂だった。金糸の細やかな刺繍が、上品でありつつも華やかだ。
――蓮花。そなたと同じく、『蓮』の文字の入った色じゃ。艶やかなそなたによく似合う。これは美しいそなたをより一層美しく見せる衣じゃな。
(陛下……)
三十年も昔に失った人への当時の気持ちを思い出し、目頭がほんのりと熱を持った。
「太后陛下、そちらへお着替えになられますか?」
思い出の半臂を胸に抱いている私へ、侍女が問いかけてくる。
「そうじゃの……」
そうするかと一瞬思ったが、すぐに思いとどまった。
「これを着るのは明日にしよう」
明日は『控鷹府』の面首たちの前へ初めて顔を出す日だ。最も美しい装いは、その時のために取っておこうと考えた。
「かしこまりました」
「太后陛下」
侍女の一人が捧げ持ってきたのは、髪結いと化粧道具一式だった。
「ふふ、頼む」
今の姿と衣に相応しい髪型と装いにしようと、気を利かせたのだろう。私が椅子に座り姿勢を正すと、侍女たちの手が細やかに動きはじめる。
(あぁ、私はまだこんな姿にもなれるのか)
鏡の中で仕上がっていく自身の姿へ私は見惚れる。
陶器のようにすべやかな肌の上を、刷毛や筆が引っかかることなく走るのが嬉しい。
一度失ってしまったものへの懐かしさと愛しさが胸に突き上げ、甘く沁みた。
若返った我が身を存分に堪能したその夜、私はまたも傑倫を褥へと呼んだ。



