「太后陛下、お目覚めの時間にございます」
扉の外から控えめに聞こえて来た侍女の声に、私は眠りの世界から引き戻された。
(んん?)
架子床の上で身を起こせば、心なしか普段より体が軽い。
(傑倫の陽の気を受けたのは昨夜が初めてではないが、今朝は効果覿面じゃな)
差し込む朝日へ、手の甲を晒してみる。昨日よりも肌つやや張りが格段に良くなっているのが一目で見て取れた。
(あの女道士の力、本物であったか)
「んぅ……」
すぐ隣で身じろぎする気配と共に、低い唸り声が聞こえて来る。
頬に影を落とす長い睫毛がピクリと動いた。
「傑倫」
そわそわしながら私は、忠臣の逞しい肩を軽く揺する。声まで少し高くなっているようだ。
「起きぬか、傑倫。のぅ、今朝の妾を見てみよ。肌が昨日までと違うと思わぬか?」
「は……。拝見いたしま……」
甘さを含んだ気だるげな声を上げながら傑倫は瞼を開く。そしてこちらに目を向けた途端、その精悍な顔を強張らせ勢いよく起き上がった。彼の様子に、私は思わず笑いをこぼす。
「ふっ、そこまで驚けばさすがにわざとらしいぞ。じゃが、あの女道士の術は本物であったようじゃの」
私はすべやかになった手の甲を慈しみを込めそっとさする。両頬を手で包めば、そこにも昨日までと違う張りが感じられた。
「傑倫、見事である。そちの陽の気がここまで妾を若返らせるとは」
誇らしく思いながら、褒美の言葉を与える。しかし傑倫が口にしたのは、予想外のものだった。
「……まこと、あなた様は蓮花様でいらっしゃいますか?」
んん?
「他の誰だと言うのだ。化粧をせねば、妾とわからぬか?」
「いえ、そうではなく」
いかなる時にも眉一つ動かさない豪胆を絵に描いたような男が、見たことがないほど狼狽えている。
やがて絞り出すような声で、傑倫はこう言った。
「畏れながら今の蓮花様は、三十を超えたばかりのお姿にしか見えませぬ」
(ぬっ……)
晴れやかな気持ちに陰りが差した。
「……そちだけは、そのような空々しい戯言を口にせぬ男だと思っておったぞ」
怒気を込めた声を、裸身のままの忠臣へと放った。
皇帝の母ともなれば、周りの者はわざとらしいほど日常的に誉めそやす。七十歳を超えてからは「三十過ぎにしか見えないほどお若ぅございます」が定番となった。馬などは毎日のようにそれを口にする。
そんなこと、あるわけがなかろう。
己の姿など鏡を見ればわかる。どう贔屓目に見ても六十より下に見えぬことくらい知っている。行き過ぎたおべっかは、愚弄以外の何物でもない。
それとも、それに疑問を抱かず受け入れるほど私が愚かだとでも思うてか。
「いくら肌の調子が良くとも、三十はありえん」
しかし今朝の傑倫は、やけにしつこい。
「臣は虚言など申しませぬ! 蓮花様、どうぞこちらを!」
差し出された鏡を、私はため息をつきつつ受け取った。
「……そなたが嬖臣でなくば、罰を与えているところじゃ」
「臣は太后陛下に絶対の忠誠を誓っております。嘘や戯言など申し上げるわけがございませぬ!」
あまりにも真剣な眼差しに気圧され、渋々鏡の中を覗く。次の瞬間、私は息を飲み鏡を取り落とした。
(これは……! この私の姿は……!)
鏡の中に見えた人影に見覚えがあった。
現皇帝である息子天佑が、まだ幼かった頃の私の姿だ。皇太子を生んだことで、数多の后妃たちの妬み嫉みを受けつつ、全てを気合で弾き飛ばしていた頃のあの……。
「これは……、どういうことじゃ……」
震える手で鏡を拾い上げ、中へ見入りながら私は自分の頬をぺたぺたと撫でる。
(夢ではない)
さすがに十代の娘盛りとまではいかぬが、昨日の私よりも格段に若かった。
(これは間違いなく三十代の頃の妾の顔じゃ。こんなことが……!)
私は傑倫を振り返る。三十以上も年下の彼が、今や私より年上にすら見える。
――男の陽の気を受けるたび、若返る術っス
(何青蝶……!)
昨日、私に奇妙な術を施した女道士の悪戯っぽい笑顔が、脳裏へありありと蘇った。
扉の外から控えめに聞こえて来た侍女の声に、私は眠りの世界から引き戻された。
(んん?)
架子床の上で身を起こせば、心なしか普段より体が軽い。
(傑倫の陽の気を受けたのは昨夜が初めてではないが、今朝は効果覿面じゃな)
差し込む朝日へ、手の甲を晒してみる。昨日よりも肌つやや張りが格段に良くなっているのが一目で見て取れた。
(あの女道士の力、本物であったか)
「んぅ……」
すぐ隣で身じろぎする気配と共に、低い唸り声が聞こえて来る。
頬に影を落とす長い睫毛がピクリと動いた。
「傑倫」
そわそわしながら私は、忠臣の逞しい肩を軽く揺する。声まで少し高くなっているようだ。
「起きぬか、傑倫。のぅ、今朝の妾を見てみよ。肌が昨日までと違うと思わぬか?」
「は……。拝見いたしま……」
甘さを含んだ気だるげな声を上げながら傑倫は瞼を開く。そしてこちらに目を向けた途端、その精悍な顔を強張らせ勢いよく起き上がった。彼の様子に、私は思わず笑いをこぼす。
「ふっ、そこまで驚けばさすがにわざとらしいぞ。じゃが、あの女道士の術は本物であったようじゃの」
私はすべやかになった手の甲を慈しみを込めそっとさする。両頬を手で包めば、そこにも昨日までと違う張りが感じられた。
「傑倫、見事である。そちの陽の気がここまで妾を若返らせるとは」
誇らしく思いながら、褒美の言葉を与える。しかし傑倫が口にしたのは、予想外のものだった。
「……まこと、あなた様は蓮花様でいらっしゃいますか?」
んん?
「他の誰だと言うのだ。化粧をせねば、妾とわからぬか?」
「いえ、そうではなく」
いかなる時にも眉一つ動かさない豪胆を絵に描いたような男が、見たことがないほど狼狽えている。
やがて絞り出すような声で、傑倫はこう言った。
「畏れながら今の蓮花様は、三十を超えたばかりのお姿にしか見えませぬ」
(ぬっ……)
晴れやかな気持ちに陰りが差した。
「……そちだけは、そのような空々しい戯言を口にせぬ男だと思っておったぞ」
怒気を込めた声を、裸身のままの忠臣へと放った。
皇帝の母ともなれば、周りの者はわざとらしいほど日常的に誉めそやす。七十歳を超えてからは「三十過ぎにしか見えないほどお若ぅございます」が定番となった。馬などは毎日のようにそれを口にする。
そんなこと、あるわけがなかろう。
己の姿など鏡を見ればわかる。どう贔屓目に見ても六十より下に見えぬことくらい知っている。行き過ぎたおべっかは、愚弄以外の何物でもない。
それとも、それに疑問を抱かず受け入れるほど私が愚かだとでも思うてか。
「いくら肌の調子が良くとも、三十はありえん」
しかし今朝の傑倫は、やけにしつこい。
「臣は虚言など申しませぬ! 蓮花様、どうぞこちらを!」
差し出された鏡を、私はため息をつきつつ受け取った。
「……そなたが嬖臣でなくば、罰を与えているところじゃ」
「臣は太后陛下に絶対の忠誠を誓っております。嘘や戯言など申し上げるわけがございませぬ!」
あまりにも真剣な眼差しに気圧され、渋々鏡の中を覗く。次の瞬間、私は息を飲み鏡を取り落とした。
(これは……! この私の姿は……!)
鏡の中に見えた人影に見覚えがあった。
現皇帝である息子天佑が、まだ幼かった頃の私の姿だ。皇太子を生んだことで、数多の后妃たちの妬み嫉みを受けつつ、全てを気合で弾き飛ばしていた頃のあの……。
「これは……、どういうことじゃ……」
震える手で鏡を拾い上げ、中へ見入りながら私は自分の頬をぺたぺたと撫でる。
(夢ではない)
さすがに十代の娘盛りとまではいかぬが、昨日の私よりも格段に若かった。
(これは間違いなく三十代の頃の妾の顔じゃ。こんなことが……!)
私は傑倫を振り返る。三十以上も年下の彼が、今や私より年上にすら見える。
――男の陽の気を受けるたび、若返る術っス
(何青蝶……!)
昨日、私に奇妙な術を施した女道士の悪戯っぽい笑顔が、脳裏へありありと蘇った。



