太監の馬が、コホンと一つ咳払いをする。
「今宵、貞清尼寺にて別れの宴を行う」
(ん? 初耳じゃぞ)
傑倫を見れば、彼もまた「聞いていない」と首を横に振っている。
「急な閉鎖で、皆不満もあろう、これは我らからの償いだと思ってくれ」
「待て、馬。酒宴は……」
先日の賞花の宴を思い出し、私は警戒する。
だがざわめく面首たちを前に、馬はこちらへ耳打ちした。
「気の毒な者たちです。最後くらい心行くまで食わせ飲ませ、盛大に送り出してやりましょう」
その言葉に、私はただ頷くことしかできなかった。
貞清尼寺は蓬莱宮の中にある。先帝亡き後、かつての后妃たちがその魂を慰めるために祈る場所だ。先帝の后妃たちは既に先立ち、蓬莱宮は何年も前から私一人の場所となっている。故にずいぶんと長い間、貞清尼寺へは誰も足を踏み入れていない。私自身は、太后であるため息子の所へ出入りしていることも多く、他の后妃がいる頃もこの寺で時を過ごすことはほぼなかった。
(遅いのぅ)
傑倫のことだ。
傑倫はこういう時、私を部屋まで迎えに来てくれる。
(既に陽は落ちた。宴の始まる時間であろうに)
私は面首たちと最初に顔合わせした時と、同じ装いにしている。
金糸の刺繡を施した紅蓮灰の衣、軽やかな純白の被帛を腕に絡め、髪には金梳・金簪・金笄を惜しげもなく刺した。
やがて控えめに扉を叩く音が耳に届く。
「傑倫か」
「私でございます」
顔を見せたのは、太監の馬であった。
「がっかりさせてしまい、申し訳ございませぬ」
「別に、がっかりなどしておらぬ」
「おぉ、何とお美しい」
馬は私を見て目を細める。
「きっと皆、大喜びでございますな」
「……そうであろうか」
広間で微笑みかけた際、誰一人喜ばなかったのを見ている。このような装い、彼らには何の慰めにもならないだろう。
「趙右丞相は用事がありここへは来られませぬ。寺にてお待ちですので、そこまでは私めがご案内いたしましょう」
恭しく頭を下げ、こちらに背を向け歩き出した馬の後ろへ、私はついて行った。
貞清尼寺へ到着した時、すぐに私は違和感に気付いた。
(なんじゃこれは……)
面首たちを送り出すための盛大な宴と言っていたはずが、妙に薄暗い。
(夜の寺とは言え、妙じゃ)
料理や酒の用意が見られない、匂いすらない。給仕をする侍女たちや、楽器を奏でる楽師たちの姿もない。代わりに大勢の僧の姿があり、場は静まり返っている。
「馬」
私は先を行く太監に呼びかける。
「妾は宴と聞かされたぞ。なんじゃこれは」
「宴でございますよ。太后陛下を囲んで、皆で存分に楽しむのです」
それを聞いた瞬間、ぞわりと肌が粟立った。本能が危険を察した。
「気が進まぬ。妾は去ぬるぞ」
私は馬に背を向け、早足で出口を目指す。だが、物陰に隠れていた僧たちが、目の前でぱたりと扉を閉じてしまった。
「何をする!」
「いけませんな、太后陛下」
馬の顔に邪悪なものが浮かんでいた。
「太后陛下は、陽の気を捧げさせるために若い男を集めた。しかしながら、彼らに一度もその役目を果たさせておりませぬ。民の血税を使いこのような役所まで立てておきながら、ただの一度も。せめて今宵、この者らには最後にしっかりと働いてもらい、それから送り出してやろうではございませぬか。形だけでも、責務をしっかりこなしたとさせてやりましょう」
「……それは、出来ぬ」
「なぜでございましょう」
これ以上陽の気を浴びれば、私の体は子どもになってしまう。それを知る人間が増えれば身に危険が及ぶと思ったが。
「馬よ、今の妾の姿を見れば理解すると思うが。女道士の術により、妾は陽の気を受ければ体年齢が半分となってしまう身になっておる。次に男と身を交わせば、恐らく九歳ほどになってしまうであろう。故に、抱かれるわけにはいかぬのじゃ」
馬は長年私に仕えてくれた太監だ。正直に説明すれば、理解を示すと期待したのだが。
「……そのようなこと、とっくに存じておりまする」
馬の口がニタリと裂けた。
「だからこそ、皆で太后陛下を抱き潰してやろうと申しておるのです」
昏い瞳が、私を見ていた。
「今宵、貞清尼寺にて別れの宴を行う」
(ん? 初耳じゃぞ)
傑倫を見れば、彼もまた「聞いていない」と首を横に振っている。
「急な閉鎖で、皆不満もあろう、これは我らからの償いだと思ってくれ」
「待て、馬。酒宴は……」
先日の賞花の宴を思い出し、私は警戒する。
だがざわめく面首たちを前に、馬はこちらへ耳打ちした。
「気の毒な者たちです。最後くらい心行くまで食わせ飲ませ、盛大に送り出してやりましょう」
その言葉に、私はただ頷くことしかできなかった。
貞清尼寺は蓬莱宮の中にある。先帝亡き後、かつての后妃たちがその魂を慰めるために祈る場所だ。先帝の后妃たちは既に先立ち、蓬莱宮は何年も前から私一人の場所となっている。故にずいぶんと長い間、貞清尼寺へは誰も足を踏み入れていない。私自身は、太后であるため息子の所へ出入りしていることも多く、他の后妃がいる頃もこの寺で時を過ごすことはほぼなかった。
(遅いのぅ)
傑倫のことだ。
傑倫はこういう時、私を部屋まで迎えに来てくれる。
(既に陽は落ちた。宴の始まる時間であろうに)
私は面首たちと最初に顔合わせした時と、同じ装いにしている。
金糸の刺繡を施した紅蓮灰の衣、軽やかな純白の被帛を腕に絡め、髪には金梳・金簪・金笄を惜しげもなく刺した。
やがて控えめに扉を叩く音が耳に届く。
「傑倫か」
「私でございます」
顔を見せたのは、太監の馬であった。
「がっかりさせてしまい、申し訳ございませぬ」
「別に、がっかりなどしておらぬ」
「おぉ、何とお美しい」
馬は私を見て目を細める。
「きっと皆、大喜びでございますな」
「……そうであろうか」
広間で微笑みかけた際、誰一人喜ばなかったのを見ている。このような装い、彼らには何の慰めにもならないだろう。
「趙右丞相は用事がありここへは来られませぬ。寺にてお待ちですので、そこまでは私めがご案内いたしましょう」
恭しく頭を下げ、こちらに背を向け歩き出した馬の後ろへ、私はついて行った。
貞清尼寺へ到着した時、すぐに私は違和感に気付いた。
(なんじゃこれは……)
面首たちを送り出すための盛大な宴と言っていたはずが、妙に薄暗い。
(夜の寺とは言え、妙じゃ)
料理や酒の用意が見られない、匂いすらない。給仕をする侍女たちや、楽器を奏でる楽師たちの姿もない。代わりに大勢の僧の姿があり、場は静まり返っている。
「馬」
私は先を行く太監に呼びかける。
「妾は宴と聞かされたぞ。なんじゃこれは」
「宴でございますよ。太后陛下を囲んで、皆で存分に楽しむのです」
それを聞いた瞬間、ぞわりと肌が粟立った。本能が危険を察した。
「気が進まぬ。妾は去ぬるぞ」
私は馬に背を向け、早足で出口を目指す。だが、物陰に隠れていた僧たちが、目の前でぱたりと扉を閉じてしまった。
「何をする!」
「いけませんな、太后陛下」
馬の顔に邪悪なものが浮かんでいた。
「太后陛下は、陽の気を捧げさせるために若い男を集めた。しかしながら、彼らに一度もその役目を果たさせておりませぬ。民の血税を使いこのような役所まで立てておきながら、ただの一度も。せめて今宵、この者らには最後にしっかりと働いてもらい、それから送り出してやろうではございませぬか。形だけでも、責務をしっかりこなしたとさせてやりましょう」
「……それは、出来ぬ」
「なぜでございましょう」
これ以上陽の気を浴びれば、私の体は子どもになってしまう。それを知る人間が増えれば身に危険が及ぶと思ったが。
「馬よ、今の妾の姿を見れば理解すると思うが。女道士の術により、妾は陽の気を受ければ体年齢が半分となってしまう身になっておる。次に男と身を交わせば、恐らく九歳ほどになってしまうであろう。故に、抱かれるわけにはいかぬのじゃ」
馬は長年私に仕えてくれた太監だ。正直に説明すれば、理解を示すと期待したのだが。
「……そのようなこと、とっくに存じておりまする」
馬の口がニタリと裂けた。
「だからこそ、皆で太后陛下を抱き潰してやろうと申しておるのです」
昏い瞳が、私を見ていた。



