蓬莱宮(ほうらいきゅう)の自分の宮へ戻ろうと、石段に足を掛けた時だった。
蓮花(リェンファ)様!」
 物陰から突然名を呼ばれ、私は飛び上がる。はずみで、手にしていた杯から薬湯を幾滴かこぼしてしまった。
「ああっ、申し訳ございません、蓮花様。驚かせるつもりではなかったのですが」
 そこに立っていたのは、薬師の星宇(シンユー)であった。
 星宇は植え込みの陰から飛び出してくると、私の足元に身を投げ土下座する。
「昨日は、本当に、本当に申し訳ございませんでした。どうぞ、いかようにも処罰なさってください。ただ、私めが心より反省していることだけは蓮花様にお伝えしたいと思いまして……」
 そこまで言って、星宇は地面に頭をこすりつけるのを止める。目を上げ、スン、と鼻をうごめかせた。
「この匂いは……」
 彼の視線は、私の足元に落ちた数滴の薬湯に向けられる。星宇は、スンスンと鼻を鳴らしながら、足元へにじり寄って来た。
「うぉ、なんじゃ!?」
 次に星宇は石段に零れた薬湯を指先で掬い上げ、迷わずそれを口の中へと入れた。
「星宇、腹を壊すぞ」
「この味は……」

 星宇が立ち上がり、私の手にある杯へ目をやる。
「蓮花様、そのお薬はどうなさったのですか?」
「うん? あぁ、皇帝が毎日飲んでいるものじゃ。昔から体が弱くてのぅ。じゃが、孫の暁明(シァミン)が最近とみに悪戯っ子らしく、こっそり奪って来て私に押し付けおった。困ったものじゃ」
「このお薬を、毎日……」
 星宇が表情を引き締め、眉根に皺を寄せた。
「どうした、星宇」
「蓮花様、こちらの強壮剤は非常に強い薬効がございまして、日常的に口にすべきものではございませぬ。過剰に飲めばかえって体に負担をかけ、死すら招きかねないものでございます」
「なんじゃと!?」
 思わず取り落としかけた杯を、星宇は素早く受け止める。そして、改めて中を覗き込み、鼻をうごめかせた。
「……間違いございませぬ。これは体力のある者に限り、ここぞという時にだけ飲むことを許される劇薬に近い薬。体の弱っている者が立て続けに飲めば、やがては起き上がることすらできなくなるほど衰弱されることでしょう」
「そんな……」
 ここ最近の悠宗の様子を思い出す。いつ会いに行っても、架子床(ベッド)で苦しそうに横になっている。
「息子は……、助かるのか?」
 思わず星宇に掴みかかる。
「あの子は昔から、体の強い方ではない。そんな天佑(チンヨウ)が、このようなものを口にし続けていたらどうなるのじゃ? 助かる方法はあるのか? 星宇、のぅ!」
「蓮花様……」
 星宇はしばし驚いた表情でこちらを見返していたが、やがて思索に耽る顔つきとなる。
「皇帝陛下の御年は、確か……」
「四十九じゃ」
「体の強くないお方が、この御歳まで息災でいらっしゃることを鑑みるに、これを処方され始めたのはごく最近のことではないかと思われます」
「まことか?」
 星宇は重く頷く。
「この薬を本当に連日口にしていたなら、恐らくひと月も経たぬうちに心の臓が止まってしまわれるしょう。しかしそうなってはおられない。恐らく、皇帝陛下がこれを口にされたのはここひと月以内、それから連続で飲むことは避けられていると思われます」
 へなへなと腰を抜かしそうになる。倒れかけたのを星宇が巧みに受け止めてくれた。
「一体誰じゃ。我が息子に毒を盛った痴れ者は……」
「蓮花様、毒ではございません。強壮剤です」
「体を蝕むのであれば、同じであろうが!」
 震えが止まらない。眩暈と吐き気が同時に押し寄せる。
「強壮剤ゆえに厄介なのでございます。皇帝陛下のお体のことを考え、少々効き目が強いかと思ったが処方した、害する意図などなかったと言い逃れ出来ますから」
「言い逃れなど、させるものか。天佑にもしものことがあれば、妾は決して許さぬ……!」

 しばらくの間、星宇は黙って杯を見つめていた。私が落ち着くのを見計らい、星宇は静かに口を開いた。
「これが常用するにはきつすぎる強壮剤だということも分からぬ程度の薬師であれば、皇帝付きのお役目を速攻外し、代わりに私をその任に着けていただいた方がよろしいかもしれません」
「……こんな時によくも自分を売り込めるな」
「申し訳ございません。ですが、この薬効を理解した上であえて処方しており、それを宮中の誰も咎めないとしたら、それは……」
「それは?」
 星宇が真っすぐに私の目を見た。
「力あるものによる指示の可能性がございます」