青蝶(チンディエ)は頭の後ろで手を組み、ぐっと背筋を伸ばす。
「んじゃま、次の仙薬が飲める一年後まで我慢するしかないっスわ。ま、どうせ控鷹監(こうようかん)は閉鎖になるんでしょ? 面首(めんしゅ)さえいなくなれば、後宮にいるのはほぼ宦官ばかり。もう襲われることもないでしょうよ」
「そう、じゃな……」
 しかしこの女道士、やけにこちらの事情に詳しい。ひょっとすると状況説明をする必要も最初からなかったのではないか?
 青蝶は、ふわぁと大あくびを一つする。
「んじゃ、アタシはこの辺で。お疲れっした」
「うむ」
「あ、そうそう」
 青蝶はその双眸に強い光を宿してこちらを見た。
(マー)氏にはお気を付けなさいませ」



 控鷹監は私のための男後宮ではあるが、表向きは役所の一つだ。私の一存で閉鎖することはできず、皇帝の許可が必要となる。翌朝一番に、私は黄麒宮(おうききゅう)にいる息子の元へ訪れた。
悠宗(ゆうそう)、話が……」
暁明(シァミン)、暁明! 出てきなさい、暁明!」
 部屋へ足を踏み入れると、息子の悠宗が暁明の名を呼んでいる。顔色はうっすら赤黒く額に汗を浮かべており、今日も具合が悪そうだ。
「暁明がどうかしたか」
「あぁ、母上。いや、お恥ずかしい。困ったものです」
 そこへ(ジァン)淑妃が薬湯を持って入ってくる。悠宗はそれを受け取ると、ぐっと飲み干した。大きく息をつき、汗をぬぐう。
「最近の暁明はどうにもやんちゃが過ぎまして。私のための薬湯を侍女が持って来ようとすると、その足に絡みついて転ばせたり、手から薬湯を叩き落としたりと悪さばかりするのでございます」
「なんと、あの暁明がそんなことを」
「仕方がないので江淑妃に作らせましたところ、さすがに母親に無体を働くことはできないのか大人しくしているのですが」
 側で静かに控えていた江淑妃が、こくりと一つ頷く。
「ですが今日は少し私に用事がございまして。薬湯を侍女に任せたところ、またしても暁明がその杯を奪い取ってどこかへ隠れてしまいまして」
「ふむ、侍女を狙って悪戯をするか。それは困ったものじゃのぅ」
「躾が行き届いておらず、申し訳ございません」
 沈痛な面持ちで江淑妃が頭を下げる。
「そちが気に病むでない。暁明はこれまで素直過ぎた。遅れてきた反抗期と言うものであろう」
「はい……」

「して、母上。本日はいかなる御用向きで?」
 悠宗の顔色は、先ほどよりずいぶん落ち着いたように見えた。これなら政務の話をしてもかまわないだろう。
「控鷹府の閉鎖を考えておる」
「控鷹府の……。理由をお伺いしてもよろしいでしょうか、母上」
(理由……)
 まさか、面首どもに襲われたからとは言いづらい。いくら穏やかな息子でも激昂するのは目に見える。皇帝じきじきに彼らの処刑を言い出せば、私とて止められまい。
「そう、じゃな。必要性を感じない、そう思った。後宮文化を記録することは大事じゃが、そのために役所をわざわざ一つ設けるほどではなかった。先日、作業を行った際にそう判断した」
「なるほど。では閉鎖といたしましょう」
(あっさり通った)
 元々、私の仕事の補佐をさせるという名目で設立した役所だ。私が必要ないと言えば、それまでなのだろう。
「では、閉鎖の日時はいつにいたしましょうか」
「二日後。今日にも皆に伝えようと思う」
「随分と性急ですな」
「閉鎖を決めた以上、無為に長引かせても意味が無かろう。二日あれば身辺整理も終わる筈じゃ」
 寂しい気もするが、私が彼らを集めたのは言わば『養分』にするためだった。彼らの人となりに触れた今となっては、そのことに幾ばくかの罪悪感を覚える。だが、彼らが「お役目」に躍起になればなるほど、本来の目的である暁明を守ることが出来なくなるのだ。閉鎖はやむを得ない。

「皇帝陛下! 太后陛下! 私は反対でございます!」
 突如大声を上げて前に出てきたのは、太監の馬であった。
「控鷹府を閉鎖するなどと、とんでもございませぬ! あれは我が国にとって絶対に必要な役所でございます! 閉鎖はなりませぬ!」
「馬……」
 奇妙なことだ。この者は控鷹監の真の姿が、私のための男後宮だと知っている人間の一人だ。
(国にとって特に意味のない役所であることくらい、一番理解していように。何ゆえにこの者はここまでむきになっておるのじゃ)
 馬は唾を飛ばし、控鷹府の必要性を皇帝に説いている。キンキンと頭に響く声は悠宗にとってあまり愉快なものではないらしく、その顔色は徐々に悪くなってきた。
「馬、下がれ。皇帝はご気分が優れぬようじゃ」
「いいえ、下がりませぬ」
 馬は私の言葉に異を唱える。
「太后陛下、失礼を承知で申し上げます。あなた様は、控鷹監に集められた彼らの人生をなんだと思っておられるのか! 彼らは厳正なる審査の後に採用された、中央の官吏にございます。気まぐれに召し上げ、気に入らぬと言って数日で放り出すのは、あまりにも身勝手ではございませぬか?」
(ぐ……)