(フオ)に向かって、(マー)がぺこぺこと頭を下げている。この二人は上下関係にあり、当然ながら皇帝付きの霍は、馬にとって目上の存在だった。
(馬が何かやらかしたのか?)
 自分付きの太監が頭を下げさせられてるのは、あまりいい気分がしない。だが、何か粗相があったのであれば、主人である私にも責任がある。
「馬が何かしたか」
 私が二人に近づき声を掛けると、馬はハッと顔を上げた。
「た、太后陛下。い、いぃえぇ、別に……」
 馬がしどろもどろになる一方で、霍は余裕を持った微笑みを浮かべる。
「いえ、先日彼へ贈った野菜が美味しかったらしく。それについての礼をいただいておりました」
「そ、そうでございます! 霍殿、先日は本当に良いものをありがとうございました」
(野菜を、な……)
 先程の馬は、切羽詰まった顔つきをしていた。
(良いものをもらって、ありがたがっているようには見えなかったがのぅ)

 ■□■

(しかし分からぬ。太后の体に一体何が起こっておるのだ)
 主である蓮花(リェンファ)を部屋まで送り届けた後、宦官の(マー)俊煕(ジュンシー)はイライラと控鷹監(こうようかん)へと向かっていた。
(男の陽の気を受ければ若返ると言い含め、大勢の面首《あいじん》を侍らせることであの老いた体へ負担をかけてやるのが当初の目的であった。しかし、どういうわけか太后は本当に若返ってしまった。これでは、幼き暁明様を皇帝に担ぎ上げ裏で牛耳る《《我々》》の計画が……!)
 先程、霍より苦言を呈されていたのは、この件についてであった。
(霍殿は順調に事を運んでおると言うのに。儂が足を引っ張ったとなれば、いずれ見限られてしまう。秘密を共有した無能など、処刑されるのが落ちじゃ。何とかせねば……。太后を弱体化させるには、どうすれば……)

「狡いではないか!」
「っ!?」
 控鷹監へ足を踏み入れた馬の耳に、怒りを含んだ若い声が飛び込んできた。
(なんじゃ?)
 声のした部屋の扉を細く開き、そっと中をうかがう。
 一人の体格のいい面首が、数人の面首に囲まれ糾弾されているようだった。
「蓮花様は、各々好きに過ごせとおっしゃったはずだ。俊豪(チンハオ)、お前は抜け駆けして蓮花様に夜這いを仕掛けたそうだな!」
「夜這いじぇねぇよ、散歩にお誘いしたんだ。それに、好きに過ごせって言われたから好きにしただけだぜ?」
 広い肩幅と暑い胸板を誇る俊豪が、詰め寄る若者たちを鼻で笑う。その態度に眉を吊り上げた一人が、乱暴に胸倉を掴んだ。
「なんだ俊豪、その態度は! 僕は、李家の人間だぞ!」
「あぁ、地位のあるお貴族様のたくさんいらっしゃるお家柄の、お坊ちゃまでございますな」
「そうだ! 貴様のような猟師のせがれごときが……!」
 言い終わらぬうちに、浅黒く焼けた大きな手が貴族の若様の手首を掴んだ。
「痛っ、貴様……!」
「ここへ来た時、()丞相(じょうしょう)様に言われただろうが。この場所では身分など関係ない、等しく太后陛下の男后妃であると」
「くっ、離せ……! 骨が……っ」
 悲鳴を上げる青年から、俊豪はあっさりと手を離す。指の形がくっきり入った白い手首をさすりながら、李家の若様は俊豪を睨み後ずさった。
「元々の身分など関係ねぇ。ここは男後宮、寵を得た者が勝者だ。だが……」
 俊豪は不敵に笑うと、指の関節をボキボキと鳴らした。
「こちらで勝負がしたいのであれば、いつでもお相手いたしますぜ」
 俊豪の眼光に圧倒され、貴族の息子はじりじりと後ずさる。やがて悔しそうに舌打ちを一つすると、彼は仲間と共に部屋から飛び出して行った。
「俊豪」
 諍いの勝者に駆け寄ったのは、まだあどけない容姿の小柄な面首だった。
「肝が据わってるね。あいつにあんな物言いが出来るなんて」
「ここは、身分の関係ねぇ場所だからな。もしも貴族と猟師として往来で出会っていたら、迷わず地面にひれ伏して地面に額をこすりつけてたさ」
 歯を見せて屈託なく笑う俊豪を、小柄な面首は眩しそうに見上げる。
「それよりいいのか小龍(シャオロン)。あんたも貴族の若様なんだろ? 俺なんかと話していたら、あいつらに睨まれるんじゃねぇか?」
 小龍と呼ばれた小柄な面首は、そっと肩をすくめる。
「貴族と言っても、四男で庶子だからね。家での扱いはほぼ使用人だったよ」
「そっか。貴族と言っても色々あるんだな」
「それよりさ、蓮花様と散歩したんだよね? どんなお方だった?」
 小龍の言葉に、遠巻きに耳を傾けていた面首たちが色めき立った。

「そうだな」
 皆の反応に、俊豪は得意げになる。
「ここへ来る前に聞かされていた印象とは随分違ったな。そもそも、大金やるから七十を超えた太后様を満足させろって話だったろ? ところが蓋を開けてみりゃ、相手はすこぶるつきの美少女じゃねぇか」
 面首たちが、うんうんと頷く。
「ひょっとすると、とんでもねぇ厚化粧をしてんじゃねぇかと疑ったんだが、陽の光の下で間近に見ても、その肌は間違いなくつやつやのぷるぷるだ。きめ細かで透き通るような美しさ、皺なんて一つも見当たらねぇ。あれだけの美少女が皇帝陛下の母親なんて、とてもじゃないが信じられないぜ」
 面首たちは目を輝かせ、俊豪の話に聞き入る。
「で、でも、本当は御歳を召しているんだよね? じゃあ、その……、加齢臭がしたりは?」
「それがそれが! 白檀の中にうっすらと甘い桃の香りが混じったような、とてつもなくいい匂いが白い首筋から立ちのぼってきてたぜ」
 ごくり、と生唾を飲む音がした。