石畳の上に、冬が薄く寝そべっていた。
 王城前の広場は、朝の光がまだ低い角度で落ちてきて、霜の粒を細かく光らせるたび、息を吐く群衆の白が折り重なる。人いきれの熱の上に冷えた空気がもう一枚かぶさって、ざわめきはいつもより低く、長く続く余韻を引いた。
 簡素な木の檀。赤い布。背に王家の紋章。
 頂に立つのは王太子セドリック、隣には義妹リリアナ。ふたりの背は、冬の朝の光に誇張され、金糸の刺繍が燦めくたびに、群衆の視線がわずかに引き寄せられる。
 王宮の鐘が三度鳴った。
 セドリックが顎を上げ、広場を見渡す。
「罪人エリシア・レイバックは、毒殺未遂と反逆の罪により、本日ここにおいて処刑される!」
 宣告の声は、よく通る。よく通る声というのは、よく割れる。
 ざわめきが広がる。
「毒を盛ったらしい」「いや、潔白だって」「将軍に庇護されてるんだろ」「昨日、黒い旗を見た」「本当に処刑なのか?」
 噂は冬の小川のように細く、流れが絡み合って、どこかで急に音を立てる。

 檀の下に引き出された私は、白い囚衣をまとっていた。
 白は、汚れも影もよく映す。
 私は背筋を伸ばした。恐れは背骨の中に住みつく。だから、背を立てるのは私自身のためだ。
 囚衣の裾を踏まないよう足をわずかに開き、視線を水平に保って、前を見る。
 王都の朝は、人を高いところに上げ、同時に落とす準備を始める。
 マリルの顔が群衆の端に見えた。目は真っ赤だが、口元は固く結ばれている。
「奥方様……」
 呼びかけは、私の耳に届く前に霜に触れて、少し丸くなった。
 私は頷く。頷きは、彼女のためではなく、私のためでもある。

 群衆の後方、灰青の瞳がひとつ。
 ロウランは、群衆の中に立っていた。軍服ではない、灰の外套のまま。立つというのは、ただの姿勢ではなく、意志の角度だ。彼の立ち方は、そこに一本の線を引いていた。檀へ、そしてその先へ。
 セドリックが、優位を確信した顔で、もう一度声を張る。
「この女こそ、王国の恥だ!」
 言葉は、真冬の水のように澄んでいて、底が見えない。
 私は唇を結び、群衆を見る。
 見返す目に、恥は棲まない。視線の中に住むのは、私が決める。

 近衛が私の腕を掴み、檀に引き上げようとした。
 その手が動くより早く、別の手が檀に触れた。
 低い声が、広場の空気の厚みを裂く。
「この断罪は無効だ」
 ロウランだった。
 彼は一段で壇に上がり、軍法会議の招集状を掲げた。金の封印が朝の光を小さく跳ね返す。
「軍法に則り、反証を行う」
 その一言で、広場の息が一度止まり、次の瞬間、音が一斉に戻ってきた。
「何を勝手に!」
 王太子の顔が赤く染まり、声が幼い怒りの高さに跳ねる。
 ロウランは振り向かない。彼は招集状を王宮側の官吏に手渡し、私に視線を向けた。
 合図は、手袋の縁をつまむ小さな仕草。
 私は一歩前へ出て、鞄を胸の前で開いた。革の口が鳴る。
「これが、私にかけられた罪の根拠を覆す証拠です」
 声は震えなかった。震える代わりに、紙がわずかに鳴った。

 最初の束――兵糧横流しの帳簿。
 王都倉庫の出入記録。数列。印章の擦れ。
「この欄を。ここに“不自然な欠損”がある。王都の倉からは、書類の上では同じ日に同じ量が出ていることになっている。けれど、実際の荷車の轍は、古軍道にしか残っていなかった」
 次の小瓶――塩。
 私は蓋を開け、掌に少し載せた。
「北境の倉に落ちていた塩は海塩。粒の角は丸く、湿り気を含み、火にかざすと黒く焦げて縮む。ここでは岩塩しか使わないはず。味を覚えている者なら、わかります」
 小瓶を焚き火の炭の上へ、ほんの一瞬かざす。海塩が微かに弾けて黒い点を作り、岩塩は白いまま残る。
 商人たちの一団が前に進み出て、思わず声を出した。
「海塩? そんなもの北境で常用するわけがない!」
「帳簿の改竄、俺も見た! 印の押し方が違う!」
 声が増える。
 私は黒薔薇の腕章を掲げる。
 黒い布に粗い刺繍。急ごしらえのそのほつれが、昨日の洞窟の湿りをまだ覚えている。
「この腕章は、盗賊化した“黒薔薇の騎士団”がつけていたもの。王太子派近衛の紋。彼らの出入りを見た者は?」
 広場の隅から、若い兵が手を上げる。
「見た。密輸の倉に“黒薔薇”が出入りしていた。――押収した印章は、王太子側近のものだ」
 密書の写し――宰相派と王太子派の名が、互いの利益に合わせて並ぶ。
 私は別の紙を広げ、矢印で金の流れを示す。
「ここで塩が消え、ここで金が増える。消えた先と増えた先が一致する。私にかけられた“毒殺未遂”は、それを覆い隠すための煙幕――見せ場のための嘘の舞台」
 群衆のざわめきの質が変わる。
 疑いは、理解に似ている。理解に似た疑いは、怒りになる。

 リリアナの手が震え、扇が小さく鳴る。顔から血の気が引き、唇の端が白い。
 セドリックはまだ、虚勢の鎧を脱がない。
「でたらめだ! 女の言葉を信じるのか!」
 私はひとつ息を吸い、吐き、静かに言った。
「信じるのは言葉ではありません。証拠です」
 言葉は塩に似ている。多すぎれば舌が痺れ、少なすぎれば意味が消える。
 この朝、必要な塩加減は、もう決まっていた。

 商人たちに続き、荷車引き、職人、女たちが口々に声を上げる。
「王都の塩は最近、妙に薄い味がした!」「計りの目盛りが削られてた!」「税の徴収が急に厳しくなったのは、あんたらの“都合”だろう!」
 広場の空気が、いっきに傾く。
 群衆は、いつも最後に真実に追いつくわけではない。けれど、真実に追いついた群衆ほど、速いものはない。
 王太子派の騎士たちの表情に、初めて“戸惑い”が影を落とした。

 追い詰められたセドリックが、刃を選んだ。
 剣が鞘から鳴り、冬の空気が一瞬だけ乾いた金属の匂いを帯びる。
「黙れ! 俺が王太子だ! 罪人を裁くのは俺だ!」
 刃が振り下ろされる――私の方向へ。
 時間がわずかに引き延ばされ、光が刃の縁で分かれ、霜がちらと跳ねた。
 ロウランの踏み込みは、そのすべてより速かった。
 氷刃のような速さで、彼の剣がセドリックの剣を受け止める。
 金属音。短く、真ん中の高さで、広場全体に同じ速さで広がる音。
「――俺の妻に刃を向けるな」
 低く、冷たい声が、広場を貫いた。
 声は、胸の骨に届き、そこで小さく共鳴した。
 セドリックの腕が震える。剣先がぶれる。
 ロウランは剣をひねり、王太子の手から刃を弾き飛ばした。
 剣は空で光を一度だけ形にし、石畳に落ちて鈍い音を立てた。
 群衆から、怒号と喝采が一度に溢れた。
「王太子こそ国を売った裏切り者だ!」
「白薔薇様に冤罪を着せた!」
「恥を知れ!」
 声が波になり、波が檀にぶつかり、布を揺らす。

 リリアナが膝をついて泣き崩れた。
「兄上、もうやめて……」
 涙は、たしかに本物だった。けれど、遅い。遅すぎる涙は、誰の喉も潤さない。
 セドリックはなお喚く。
「俺を誰だと思っている! 俺は――」
 その言葉を、別の声が断ち切った。
 王の側近。細い杖と、深い紺の外套。王家の紋章の小さな旗を従え、官吏たちとともに壇上へ現れる。
「処刑を停止せよ」
 短い言葉が、朝の空気をまた一段階澄ませた。
「軍法会議にて、すべて再審せよ。王太子の権限は一時停止される」
 王の言葉ではない。けれど、王の呼吸の届くところから発せられた言葉だ。
 セドリックの背が、目に見える形で小さくなった。
 彼は足元を見、リリアナを見、群衆を見、最後に自分の掌を見た。掌には、何も残っていない。
 私の封印紋が、ぴり、と弱く疼いた。今度の痛みは、消える痛みだった。

 私は鎖を解かれ、檀に立った。
 広場は息を潜める。
 私の声は、静かでなければならない。静かな声は、強い。
「私は、潔白を叫ぶためだけにここへ来たのではありません」
 風が言葉の縁を撫でる。
「この国が真実を見失わぬために、立たねばならなかった。塩は、嘘をつかない。風も、嘘をつかない。数字は、嘘をつきたがるけれど――私たちが目を開けば、嘘は長く続かない」
 沈黙のあと、歓声が来た。
「白薔薇様!」
「奥方殿!」
 呼び名が、私の肩に乗る。重いが、担げる重さだ。
 白薔薇は、借り物だった。今、少しだけ、体温が移る。

 群衆の後方、商人のひとりが帽子を高く掲げた。
「広場で嘘を吐くな! ――と言える朝を、久しぶりに見た!」
 笑いと泣き声が同時に湧き、広場は短い時間だけ、冬の朝ではない別の温度を持った。
 ロウランが横に立つ。
 彼は何も言わない。言葉のかわりに、私の背に影を作ってくれた。影は、嘘をつかない。
 私は、その影の中で、ようやく浅く息をした。

 勝利は、火に似ている。
 火は人を温め、同時に油断を燃やす。
 そのとき、広場の外縁で、馬が石を蹴る音がした。
 早馬。
 伝令の外套は雪に濡れ、馬の鼻息は切れている。彼は人垣を割って前へ進み、杖を持つ側近に封筒を差し出した。
 側近の眉が動き、その視線がロウランに渡る。
「北境に“古き魔群”、出現。砦が危うい――」
 言葉の途中で、広場の温度が一段階落ちた。
 歓声が、霜に吸われて消える。
 ロウランと私は、互いの顔を見た。
 そこに映っていたのは、同じ形の影だった。
「ここで立ち止まっている暇はない」
 私が言うと、ロウランは頷いた。
「軍法会議の期日は?」
 側近が答える。「三日後。王宮北翼、公開」
 三日。
 数字は、刃の幅と同じくらい、はっきりしている。
「三日で戻る」
 ロウランが短く言うと、側近は驚いた顔をした。
「戻れ」
 驚きの中から出たのは、命令ではなく、祈りに近い言葉だった。

 私は壇から降りる直前、群衆を振り返った。
 彼らの目の中に、朝の光が小さく立っていた。
 私はその光をひとつずつ拾って、胸の中の手帳に押し花のように挟んだ。
 王都の空は、冬でも薄く青い。
 北境の空は、冬になるといっそう硬く、低くなる。
 その違いを、私は両方、覚えている。
 覚えていることが、私の武器だ。

 外門へ向かう途中、クラリッサが石柱の陰から姿を見せた。昨夜の扇。仮面のない顔。
「亡霊じゃなかったのね」
「亡霊は、ここまで息切れしないわ」
 彼女はほほえまず、でも背筋は美しく伸びていた。
「ねえ、エリシア。……あなたが塩のことを話したとき、父が脇で小さく頷いたのが見えたの。商会の事情は、娘には話さないくせに」
「父親は、世界が少し静かになると、自分の言葉を反芻するものよ」
「言い当てるのはやめて」
 クラリッサは小さく息を吐いた。「気をつけて」
「あなたも」
 短い言葉の受け渡しが、ひとつの季節のように感じられた。
 石段を降りると、マリルが走ってきた。
「お嬢様!」
 抱きしめられる。
 彼女の身体から、洗い立ての布と湯の匂いがした。
「戻ってこなかったら、許しませんから」
「戻るわ。あなたの薄い茶、私がいないと誰も褒めないでしょう?」
 マリルが泣き笑いになり、頷く。
 ロウランが振り向き、短く言った。
「行く」
 その合図で、馬が前に出る。
 私は鞍に上がり、手綱を握った。
 王都の冬の風が、頬を切る。
 痛みは、覚醒の証拠だ。

 城門の影を抜けると、空は広場よりも広かった。
 北の方角に、薄い雲が走る。
 古き魔群――伝承でしか聞いたことのない名。
 けれど、伝承は塩に似ている。古くても、効くときは効く。
 私は鞄を確かめ、小瓶の当たる音を聞いた。
 あの音は、砦へ向かう私の鼓動と同じ速さで鳴っている。
 ロウランが馬腹を軽く蹴り、灰青の瞳を北に向けた。
「エリシア」
「はい」
「帰ってきたら、ここで言えなかったことを言う」
 私は頷く。
「私も」
 言えなかった言葉は、刃の背。戦の最中は、触れないほうがいい。
 けれど、刃の背がなければ刀は鞘に収まらない。
 私たちは、今は刃の方を前に向ける。
 鞭が鳴り、馬が走り出す。
 石畳から土の道へ、土の道から古軍道へ。
 風が顔を打ち、冬が頬を撫で、塩が舌に戻ってくる。
 王都の広場は背後に小さくなり、やがて、鐘の音も人のざわめきも、冬の空の中に吸い込まれて消えた。

 道の脇、凍った小川に薄い陽が差す。
 氷の下で水が静かに動いている。
 その動きは、王都の広場の空気に似ていた。
 静かに動くものが、最後に大きく流れを変える。
 王都の朝は終わった。
 北境の昼が、私たちを待っている。
 私たちは、そこへ行く。
 手に、紙と塩と刃を持って。
 背に、影を背負って。
 そして、胸に――真実を。