辺境の将軍は失脚令嬢を一途に愛す ― 追放から始まる逆転婚



 地下水路の最後の梯子を上り切ったとき、夜の空気は、湿った石の匂いに砂糖菓子の粉をひとつまみ混ぜたような甘さを帯びていた。
 王都の外縁、廃れた礼拝堂。天井の半ばが抜け、星の欠片が黒い梁の間に挟まっている。壁の聖人画は色褪せ、頬の陰影のところどころに水が溜まっていた。祈りの時間はとうに過ぎ、代わりに風が小声で聖句を唱えている。
 外から、音が寄せる。鼓の拍、笛の輪、笑い声の粒。冬の祭典――仮面舞踏会の夜だ。城下は灯火と音楽で満たされ、貧しい家も豊かな家も、顔を隠して踊る約束を一晩だけ守る。顔を隠すというたった一度きりの平等。

「間に合ったな」
 ロウランが、剣の柄に布を巻き直しながら言う。布は黒。光が吸い込まれて輪郭だけが残る色。
 ハーゼンは礼拝堂の裏手で、泥に埋もれかけた古い石棺を足場に箱を積み上げ、そこに衣装を広げた。
「軍楽隊に紛れる。俺は笛を持つ。……音は出る」
「楽譜は?」
「いらん。下手でいい」
「ええ、ひとつだけ外してください。一音の狂いは、合図になる」
 私の声は意外に落ち着いていた。
 私の役目――仮面舞踏会の慣習を利用して、別人に化ける。王都で教わった礼儀作法は、皮肉にも今夜ほど役に立つ夜はない。
 マリルはここにいない。けれど、彼女が持たせてくれた小箱――黒い絹、古い銀糸、針の入った革巻き――が私の手の中に温かい。ここに来る途中、洞窟の隙間で私は銀糸を通し、黒衣のドレスの縫い目をひとつだけ変えた。王都の型紙通りの「上等」を捨て、歩くための「無駄のない線」に。
 鏡は、礼拝堂の柱に立てかけられた銀板。映る私の顔は、銀仮面に覆われて頬の半分しか残っていない。それでも、背筋の線は、私自身のものだ。
「誰も、私が“罪人令嬢”だとは気づかない……」
 囁いてみる。声は仮面の内側で柔らかく弾み、胸に戻ってきた。
 恐れは消えない。けれど、形がある恐れは、鞄に入れられる。私は恐れの端を丁寧に折りたたみ、銀仮面の下に仕舞った。

 王宮へ向かう道は、甘い香りと足音でいっぱいだった。砂糖を焦がした匂い、油の匂い、葡萄酒の匂い。仮面の孔から入ったそれらが、少しずつ混ざって肺の奥に層を作る。
 大門前。金の槍を持つ近衛の背後で、シャンデリアの光が屋外まで漏れている。冬の夜に光が溢れると、空気は少し緩む。
 私たちは三手に分かれた。ロウランは軍楽隊の列の最後尾へ。ハーゼンは酒樽の搬入口から、仕込みの荷車を押す男の影に潜る。私は来賓の流れに身を入れ、堂々と歩く。堂々と歩くことほど、疑いを消す方法はない。
 足を運ぶたびに、踵が大理石を軽く叩く。音は短く、正確で、私の姿勢を支えてくれる杖みたいだ。

 王宮の扉が開いたとき、光は私を瞬間的に目隠しした。シャンデリアの下、絹の波がゆっくり動いている。曲線が重なる。扇の骨が開いて閉じる音。銀の匙が皿に触れる微かな金属音。
 表向きは祝宴。裏では、派閥の駆け引きの手が、指先だけで会話をする。
 仮面の隙間から目をやれば、かつての友人が見えた。腕に同じ刺繍、同じ色の象徴。思い出の衣装は、そのまま武装になる。
 白の中心――義妹リリアナ。純白のドレス。背中の編み上げは新しく、肩の羽根飾りは“目立つため”の大きさを越えて、もはや宣言になっている。王太子セドリックの腕に絡み、勝ち誇った笑み。
 彼らが近づく。
 すれ違いざま、リリアナが私の耳の近くでささやいた。
「まぁ……見覚えのある背筋ね。まさか、亡霊じゃないでしょうね?」
 亡霊、という言葉が仮面の内側の肌を少し冷やす。
 私は笑みを崩さず、一礼した。
「亡霊は、音楽に触れませんわ。踊る足がないから」
 彼女はわずかに眉を上げ、それから、王太子の袖を引いて遠ざかった。復讐の言葉を喉まで上げ、飲み込む。飲み込むことは、戦いのひとつだ。胸の奥で言葉が燃える音がした。今、燃えれば煙になる。灰は証拠に使えない。

 広間の片隅で、笛の音が一瞬だけ狂った。
 それは、約束の一音。わざと外す一拍の遅れ。
 私は手袋の縁をつまみ、心臓の鼓動と同じ速度で二度、三度撫でた。合図。
 ロウランは軍楽隊の列の陰に紛れ、笛を口に当てたまま視線だけで宰相派の密談室の扉を示す。扉の前には、黒薔薇の腕章。彼らは華やかな仮面をしない。嘘を隠すのが下手だ。
 私は視線を返し、ゆっくりと踵を返した。
 王太子派の領域から宰相派の廊へ。舞曲の拍が少し遅くなった気がするのは、心の速さのせいだろう。
 執務棟へ続く廊下は影が濃く、足音がよく響く。私はその音をわざと一定に保ち、巡回の近衛の耳に“いつもどおり”の足取りを聞かせる。扉の鍵は、見慣れた型だった。王妃教育の一環で、私は“王宮で触れていいものと、触れてはいけないもの”の差を厳密に叩き込まれた。皮肉にも今夜、触れてはいけないものに触れるために、その教育が力になる。
 針と細い鋼線。息を止め、指先の聴覚を最大にする。金属の舌が小さく笑って、それから恥じらうみたいに開いた。
 中は冷たい。紙の匂いが眠っている。
 帳簿。背表紙に同じ革、同じ手の癖。私は頁を繰る指の圧を一定に保った。数字が並ぶ。正しい時刻に正しい量が運ばれたことになっている。だが、塩の記述のところで私は指先の速度を落とした。
 粒度の欄。海塩の表記。
 小さく微笑んで、私は帳簿を鞄に滑り込ませた。

「こんなところで何をしているの?」
 背後から声。
 振り返る。
 銀の仮面。扇。立ち姿。
 クラリッサ――幼馴染の侯爵令嬢。かつて、同じ先生に背筋の立て方を教わり、同じ盆の上にグラスを載せて歩かされた友。
 彼女は扇の骨を人差し指で弾いた。
「罪人の真似事? 哀れね」
 扇の風が私の頬に触れる。
 私は仮面の下で微笑み、視線の高さを半寸だけ下げた。
「哀れかどうかは、真実を知ってから仰って」
 言葉は扇より冷たかった。
 クラリッサの瞳が一瞬だけ揺れ、扇がぱたんと閉じる。
「真実、ね」
 彼女は声を低くして近づいた。「あなたの真実? それとも、王都の真実?」
「塩の真実」
 私は囁き、彼女の手に一瞬だけ帳簿の端を見せた。海塩の記述。倉の二重底の印。
 彼女の吐息がわずかに浅くなる。
「あなた、いつからそんな……」
「踊りは終わりに近づくほど、最初のステップの意味がわかるものよ」
 私は彼女の隙を突き、帳簿を確かに鞄に収めた。
 クラリッサは扇を胸の前で重ね、視線を逸らすでもなく、私から外すでもなく、宙の一点に固定した。
「……行きなさい、亡霊」
 亡霊という言葉の温度が、ほんの少し変わっていた。私は一礼し、廊下へ戻る。

 広間では、ちょうど曲が変わったところだった。人々が半歩ずれて足を揃え、輪が大きくなったり小さくなったりする。
 壇上に王太子セドリックとリリアナが立つ。背後の幕が開けられ、冬の夜の星が、掌に収まりきらないほどの金の紙吹雪になって天井から降る。
「この国を導くのは、私と新しい婚約者リリアナだ!」
 声が高い。勝利の高さ。
 喝采の濁流。
 私は胸の奥で、何か固いものがひとつ、音を立てて落ちるのを聞いた。
 けれど、表情は崩さない。仮面は、内側の顔を守るためにある。
 私は一礼し、踊りの輪から静かに離れた。
 決定打は、ここではない。
 ここで刃を抜けば、刃は音に着飾られてしまう。音は華やかで、真実は地味だ。今は地味さが必要だ。

 裏庭の回廊は冷たく、石の欄干に月の光が細い流れを作っていた。
 柱の陰にロウランが立っていた。軍楽隊の黒い制服のまま、笛を肩にかけ、片手に細い巻紙、もう片手に薄い革の包み。
「宰相派と王太子派、双方の裏帳簿を確保した。……これで十分に奴らを追い詰められる」
「こちらも」
 私は鞄を開け、帳簿の背を見せた。
 二人の視線が、短く、重なる。
 言葉より先に、呼吸が互いの喉を流れる音を知った。
 それだけで、今夜のすべての危険がひとつ分だけ軽くなった気がした。

 だが、その背後で気配が動く。
 黒薔薇の腕章。仮面なし。
 ロウランの指が笛から剣に移る。私は仮面の紐を片手で押さえ、身を石壁に寄せた。
「迂回だ」
 彼は目線で合図し、私たちは回廊を逆に走った。
 広間に戻る。喧騒の渦の中にわざと飛び込む。
 仮面を被った人々が笑い、踊り、輪がほどけて新しい輪が生まれる。
 ロウランは剣を抜かない。代わりに、音楽に合わせて体を滑らせ、進路上の男たちの肩を軽く押し、踵で床を打ち、波に逆らわず、しかし確実に縁へと移動する。
 私はステップを踏み、ドレスの裾を翻し、仮面の眼孔から黒薔薇の動きを観察する。彼らは踊れない。輪に入ると足をもつれさせ、仮面の羽根を掴んでしまう。
 観客のひとりが叫んだ。
「新しい演出だ!」
 拍手が沸き、それがまた別の拍手を呼び、私たちの逃走は瞬間的に祝祭の一部に組み込まれた。
「……この国の民は、真実より踊りを信じるのか」
 私は皮肉を吐いた。
 ロウランは短く答えた。
「だが今は利用する」
 利用する――その言葉が、私の胸に少しだけ熱を残した。王都にいた頃、利用されることばかり学んだ。今は、使う側に立つ。

 人の波を抜け、厨房脇の通路へ。湯と油の匂い。床は少し濡れている。私たちはそこを走り抜け、裏門へ向かった。
 月が顔を出し、庭の影が濃くなる。塀の上に黒い影が乗る。
 一本の矢が、鞄を掠め、革を裂き、紙の角を薄く切り取った。
「証拠は渡さぬ!」
 屋根から飛び降りてきた騎士がひとり、月光を背に黒くなった。
 ロウランが剣を抜く。
 音が消える。剣戟の前の空白の一秒。
「仮面は剥がれた。ここからは本当の顔で戦う」
 彼の言葉が、夜の冷えた空気を少し温めた。
 私は裂けた鞄の口を抱きしめ、紙を内側へ押し込む。指先が震える。震えは、冷えだけではない。
 刃が交わる。火花が散る。
 遠くで、舞踏会の最後の曲が鳴っている。
 楽団の音は華やかで、剣の音は乾いている。ふたつの音が同じ夜に重なる奇妙さが、私の足を地面に貼りつけた。
「エリシア、下がれ!」
 ロウランの声。
 私は二歩下がり、庭の石の縁に踵をかけた。滑る。片足が空を踏む。
 腕が引かれた。瞬間的に身体の重さが戻り、私は膝をついた。
 ハーゼンが影の中から現れ、短剣を投じて屋根の上の弓手を牽制する。
「門は開けた。裏路地に馬車を待たせてある!」
 彼の声は短く、それでいて夜の広さを切り分けてくれた。
 私は立ち上がり、再び鞄を抱え、呼吸を整えた。
 胸の中で言葉が形になる。
「必ず広場で、真実を暴く」
 口に出すと、夜が一瞬だけ私の味方になった気がする。
 花火が上がる。
 夜空に金の花が咲き、光が庭を一秒だけ昼にする。
 その光の中で、剣を交えるロウランと黒薔薇の騎士の影が、鮮やかに浮かんだ。
 影は、嘘をつかない。
 私は影を信じる。
 影の動きで、次の一歩を選ぶ。

 月が雲に隠れ、音が遠のく。
 ロウランの剣が相手の腕を打ち払い、刃が石に跳ね返って高い音を立てた。騎士が膝をつき、仮面も腕章もつけていない顔が、初めて夜の中に露わになる。
 見覚えのある輪郭――王太子の近習のひとり。
 彼は片膝をつき、吐き捨てるように笑った。
「……白薔薇。仮面をかぶっても、匂いは隠せない」
 匂い。
 塩の匂いか。
 私の胸の奥で、北境の倉の冷えた空気が一瞬戻ってきた。
「匂いは正直よ」
 私は返した。「だから、あなたたちの帳簿は嘘をつけない」
 ヒリ、と夜が乾いた。
 ロウランが私の肩に手を置く。
「行くぞ」
 私は頷き、裏門へ走った。
 門の外には、黒い天幕をかぶせた小さな馬車。御者台に座る男が、笛の短い音で合図を寄越す。
「乗れ!」
 ハーゼンが背を押し、私は鞄を胸に抱えたまま車内に滑り込んだ。ロウランが続き、扉が閉まる。
 車輪が回り、石畳を小さく叩く音が徐々に速くなる。
 車窓の外、王宮の壁が遠ざかり、花火の光が細くなっていく。
 私は膝の上の鞄を開け、帳簿の背を撫でた。紙の縁が少し毛羽立っている。
「大丈夫ですか」
 ロウランが低く問う。
「大丈夫です。……もう逃げない」
 自分で言って、胸の奥に静かな重みができた。
 逃げないという言葉は、いつでも刃だ。
 けれど、今夜は、柄の方を握っている。

 馬車は城壁の影から街の細い路地へ抜け、橋を渡り、川沿いの倉の並びを掠めて走る。
 裏町の仮面はもう外れはじめ、人々の顔から化粧が汗で剥がれ、笑いが素の笑いに戻る。
 私は仮面の紐を緩め、頭から外して膝に置いた。銀の表面に花火の残光が小さく震える。
 仮面を外した顔は、自分の顔だ。亡霊ではない。
 私は窓の外を見た。
 王都は、夜に化粧をし、朝に落とす。
 真実は朝顔のように短命だと誰かが言った。
 けれど、塩は朝にも夜にも溶ける。
 塩の重さを、私は紙に変えた。
 紙は燃える。
 でも、燃え残った灰は、風の向きを教える。
 それを、明日の広場に持って行く。

 馬車が廃礼拝堂の前に止まる頃、夜はほんの少しだけ薄くなっていた。鐘はまだ鳴らない。鳥もまだ黙っている。
 扉を開けると、冷気が一度に入り込み、古い聖人画の顔が少しだけ濃く見えた。
 ハーゼンが見張りを交代し、私は机代わりの石の板の上に帳簿を広げる。
 紙の上に、王都の嘘が整然と並んでいる。
 私は指先でその嘘の角を触り、角が立っているところと、角が丸いところを区別する。
 角が立っているところには、刃を当てる。
 角が丸いところには、塩を振る。
 そうすれば、数字は黙らない。
 数字が黙らなければ、声が届く。
 声が届けば、広場は舞踏会ではない。

 礼拝堂の隅で、ロウランが外套を脱いで椅子にかけた。肩の呼吸が落ち着き、瞳の色が夜から灰青に戻る。
「今夜の舞曲は、悪くなかった」
 彼が冗談めかして言うと、私は笑った。
「一音、外したところは見事でした」
「合図だった」
「ええ。……私たちの合図は、手袋の縁、笛の一音、手帳の角。そして、視線」
「視線が一番、嘘をつかない」
 彼の言葉に、私は頷いた。
 視線は塩に似ている。目に見えないところで、味を変える。

 夜が明けるまでに、私たちは反証ファイルを組んだ。帳簿の写し、印章の擦れ、塩の粒度を示す小瓶、黒薔薇の腕章。
 糸で綴じ、紐で括り、革で包み、鞄に収める。
 指先が少し痺れる。緊張の痺れと、寒さの痺れと、覚悟の痺れが混ざる。
 窓の外、東が薄く白む。
 冬の空は、明るくなる前に一度だけ暗くなる。
 その暗さは、刃の背みたいに滑らかだ。
 私はその滑らかさに指を這わせ、深く息をした。
「もう一度、王宮に戻る必要はない」
 ロウランが言う。「広場だ。昼の人の目の前で」
「ええ」
 私は仮面を鞄の底に押し込んだ。
「仮面はもういらない」
 口に出してみると、胸が軽くなった。
 軽くなった胸は、よく響く。
 響きは、遠くまで届く。

 礼拝堂の鐘は壊れてもう鳴らない。
 代わりに、王都のどこかで、別の鐘が鳴りはじめた。
 最初の一打は低く、二打目は高い。
 私は帳簿の表紙を撫で、塩の小瓶を握り、革の紐を結び直した。
 夜は終わった。
 仮面の夜は、舞踏会とともに終わる。
 これから始まるのは、広場の昼だ。
 昼の音は、夜より硬い。
 硬い音に、私の言葉を混ぜる。
 塩のように。
 風のように。
 ――そして、真実のように。