処刑令を持った王都の使者が、雪の尾を引いて砦を去った翌朝。
外はまだ朝靄の名残が石壁の縁にまとわりつき、煙突の煙が低く伸びていた。鐘は鳴っていないのに、胸の内側だけが鐘の前みたいにざわつく。そういう朝がある。季節のせいにしてしまえば楽だが、寒気の質は昨日と違っていた。
北門の見張りが合図の旗を振る。早馬だ。馬体の汗が白く泡立ち、乗り手の肩口には黒い紋章の刺繍が貼り付いている。黒地に薔薇――王太子派の印。
訓練された手つきで鞍から飛び降りた伝令は、言葉を節約する術を知っていた。封筒だけを差し出す。封蝋が冷たく光る。蝋の赤は濃く、押印の縁がわずかに潰れて、焦りがそのまま形になっている。
ロウランが刃で封を割る。細い音。紙の繊維が断ち切られる瞬間の感触が空気に伝わり、私の皮膚の浅い場所でぴり、と震えた。彼は読み、顔色を変えない。かわりに紙をまっすぐ私たちの方に向けた。
――エリシア・レイバック、処刑日確定。十日後、王都の広場にて。
短い一行の下に、見慣れた名――王太子側近の署名。
砦の空気が凍りつく、というのは比喩だ。だがこのときは、暖炉の火が一瞬だけひるんだのかと思うほど、温度が落ちた気がした。
マリルがとっさに私の手を握る。細い指が氷みたいに冷たい。私の指も同じだった。二つの冷たさが重なっても温かくはならない。けれど、冷たさの輪郭は少し鈍くなった。
「……生きてここにいる私を、勝手に殺したことにするのですか」
言葉にすると、それは驚きではなく、怒りの形をしていた。私の声はかすかに震えたが、瞳の奥で別の火が立った。あの夜、王都の広間で私に浴びせられた冷水みたいな嘲笑を、火に変える。
ロウランが紙を畳まずに机に置く。視線は短く、鋭く、次に向かう場所を探していた。
兵たちが自然と集まった。食堂の長卓の端から端へ、誰も座らないまま半円の輪ができる。輪の中心に紙がある。紙は軽い。だが今日、その軽さは残酷さの単位になっている。
沈黙を割ったのは、ロウランの低い声だった。
「……昨日の命令書と、今朝のこの密書。喧嘩腰の文体の違いだけで、書いた手は同じだ」
声は冷静だ。けれど、その冷静さは諦めではない。冷静さは、ここでは刃の形をしている。
彼は視線を私に移し、ほんのわずかだけ声を柔らかくした。
「“十日後、広場にて”。つまり、手続きはすでに進んでいる。俺たちが何をしようとしまいと、王都は“処刑済み”という事実を作るつもりだ」
「事実を作る」
口の中で繰り返す。事実は数値と同じ顔で現れる。台帳、印章、通達。紙の上に書かれた赤い線のように。
私は静かに息を吸い、机の上の別の紙束に手を伸ばした。兵站倉庫から押収した書簡の束。黒薔薇の印章が押され、墨の匂いがまだ甘い。
「……倉で見つけた書簡。黒薔薇の印章。兵糧の横流しの指示はここにある」
紙の重みは、覚悟の重さをまっすぐに伝えない。だから私は重さを言語化する。
「塩の粒度は、海塩でした」
私は小瓶を掲げた。透明な瓶の中で白い粒が乾いた光を放つ。
「北境にあるべきは本来、岩塩。粒の角の丸み、付着する微細な有機物が違う。倉の床に落ちていたのは海塩の残滓。……王都の河港で降ろされる塩です」
ハーゼンがうなずいた。
「台帳の改竄もあった。補給所が“帳簿上だけ”動かされている。実際の荷は古軍道沿いの別の倉から出ていた」
私は息を整え、紙束と小瓶と腕章を机の上に並べた。
北境の倉庫に不自然な海塩。
王都の台帳改竄。
黒薔薇の腕章をつけた盗賊化した兵。
そして、私にかけられた毒殺未遂の濡れ衣。
線は、どれも別々の色をしていたのに、いまなら一本に結べる。
「すべては繋がっています。王太子派が資源を独占するため、兵糧の流れを“自分たちの都合のよい線”に付け替えた。足のつかない負担を北境に押しつけ、反対する者は切り捨てる。……私は、その生贄に仕立てられた」
言い切ると、体の中から、薄い氷の膜が剝がれ落ちたような音がした。
ロウランはわずかに顎を引いた。
「ならば、真実で殴る準備を整える」
その言い方は、彼にしては珍しく、荒い。けれど、必要な荒さだった。
「殴る相手は誰です?」と誰かが問う。
「王都にいる“うごめく手”だ。印章の持ち主、帳簿をいじった筆、黒薔薇を動かす口――名前がなくても、骨はある」
骨。
私は骨が好きだ。骨は嘘をつかない。塩も、風も、骨のように正直だ。
緊急の集会が開かれた。砦の中央、天井の煤が剥がれかけた大広間。兵たちが立ち尽くし、壁際に置いた長椅子にも腰を下ろさない。
「王都に逆らえば反逆罪だ」
「でも、このままじゃ奥方殿は“処刑されたこと”にされる!」
「将軍に従うか、命令に従うか……どっちも命を賭ける覚悟がいる」
声がぶつかり合い、空気がじわじわと熱を持つ。正しい熱は必要だ。だが、熱だけでは風を変えられない。
私は立ち上がった。
周囲の視線が集まる。
かつて王都の社交場で“視線の中心に立つ”ことは、美しい作法の集積だった。ここでは、立つこと自体が意思になる。
「私はもう、犠牲になるつもりはありません」
声は自分のものなのに、少し外から聞こえる気がした。
「皆さんを危険に巻き込みたくはない。だから……真実を突きつけに、私が王都へ行きます」
一斉にどよめきが起こる。否定の言葉が重なるより早く、ロウランの手が私の腕を掴んだ。掴む力は強くない。けれど、離さないという意思があった。
「一人で行かせるものか」
低い声が、広間の梁をまっすぐ通って、床に落ちる。
「これは俺の戦でもある。お前ひとりの冤罪を晴らすためだけじゃない。北境を“帳尻合わせの数字”にする連中に、骨の形を思い出させるためだ」
彼がそう言った瞬間、兵たちは目を伏せた。
伏せられた目の下で、顎が動く。ひとり、ふたり、三人――やがて、それは線になる。
「将軍に従う」
「俺も」
「俺も、俺もだ」
声は大きくない。けれど、重なっていくと雪の上を押し固める足跡みたいに、面になる。面は、易々とは崩れない。
午後から、砦は急速に“準備の音”に満ちた。
紙と糸、筆記具、印章、油、布、塩の小瓶――必要なものと必要でないものを選び分ける音。選ぶことは、戦の第一歩だ。
私は机の上に帳簿の写しを広げ、偽造された数字の列と実際の動きの差を、別の紙に書き写した。文字だけでは足りない。矢印で動きを描き、日付と印章の位置を書き添える。
小瓶には、倉から採取した海塩と、砦の古い岩塩をそれぞれ入れ、ラベルを貼る。粒の角度、粒径、湿度の違いを書き記す。
黒薔薇の腕章は、糸のほつれ具合と刺繍の手癖から、製作の“元”が同じ工房であることを示す手がかりになる。私はほつれを拡大鏡で確かめ、写生図を添え、色糸の撚りの方向を書き留める。
マリルが目を赤くして糸を綴じ、書簡と証拠を鞄に分けて収めていく。
「どうか……どうかご無事で」
彼女の声は、泣き声ではないのに泣き声よりも脆い。
「戻ってくるわ。あなたの淹れる薄い茶が、まだ残っているから」
私は冗談めかして言い、彼女の手を握った。握り返す力は弱い。けれど、その弱さは誠実だった。
副官のハーゼンが地図を抱えて入ってくる。
「王都への最短路はすでに封鎖されています。関所に黒薔薇が張り付き、検問の回数も増えている。だが――」
視線の先がわずかに笑う。「密輸人が使う地下水路なら、潜入可能です」
「地下水路?」
「砦の南東、谷の底に古い採掘坑がある。そこから川に抜ける洞窟が続いている。冬は水量が減る。荷は通せないが、人ならいける。……危険だが、他に道はない」
危険、という言葉は、ここに来てから私の辞書の中で意味を変えた。王都では、危険とはほとんど“噂”の別名だ。ここでは、足の下で鳴る石の音だ。
「準備を」
ロウランが短く言った。「行くのは、俺とエリシア、ハーゼン、それから……」
「私も行きます」
マリルが前に出てきた。
「だめだ」
ロウランは即答した。
「お嬢様の身の回りは、私にしか」
「マリル」
私は、彼女の肩に手を置いた。
「ここを頼む。戻る場所を守って。……あなたの手で、湯を沸かして、布を干して、湯気の匂いで砦を満たして」
彼女は唇を噛み、それから小さく頷いた。
「必ず、戻ってきてください」
「必ず」
約束の言葉を口にするたび、今の私は恐ろしく軽率になっているのではないかと怖くなる。けれど、約束は軽率な方がいいときがある。重すぎる約束は、足を止める。軽い約束は、足を前に出す。
夜。出立前。
執務室の窓は外の吹雪で内側から白く曇り、暖炉の火が小さく乾いている。
ロウランが机の縁に腰を預け、私を見た。
「恐くはないのか」
正面から問われると、恐れは素直に顔を出す。
「恐ろしいです」
私は息を吐く。
「ですが、恐怖に負ければ、私はあの日のままです。婚約破棄され、泣き崩れ、誰かに名札を貼られるのを待つだけの弱い令嬢のまま。……今度こそ、自分の意志で立ちたい」
言った瞬間、胸の奥の古い氷がひとつ割れた。割れた破片が、私の内側で小さな音を立てて沈む。
ロウランは目を細め、深く頷いた。
「ならば俺は、その意志を剣で支える」
言葉は短く、余計な飾りを持たない。だから、こちらが勝手に飾りを足したくなる。
私は頷いた。
「お願いします、将軍」
「ロウランでいい」
思わず目を瞬いた。
彼は目線を少し外し、照明の明るさを確かめるみたいに天井を見てから、改めて私を見た。
「この先で、俺が“将軍”であるせいで動きが鈍る場面があれば困る。呼びやすい名で呼べ」
「……ロウラン」
声にすると、名前は少しこちらに寄る。
彼の口元が、わずかに緩んだ。
「行くぞ、エリシア」
呼ばれた名に、いくつもの夜が救われる音が混ざっていた。
出発は深夜。
砦の地下の古い階段を降りる。石段は薄い氷膜を纏い、踏むたびにきしりと鳴る。松明の灯りが壁の水滴に映り、揺れて、私たちの影を三倍にする。
洞窟の入口は口をすぼめた獣のようで、外の吹雪とは別の風が内側から吹き付けてくる。
生温い。
「……誰かが最近ここを使った」
ハーゼンが壁面を指でなぞる。煤の跡が新しい。松脂の匂いの層が、薄い。
ロウランが頷く。
「警戒を二倍にしろ。足音は短く、息は浅く。――進む」
私の背中の鞄が、証拠の重みでいつもより硬い。小瓶が当たって小さな音を立てるたびに、私は歩幅を微調整して揺れを殺した。
足元の水は冷たく、脛のあたりで布の裾に染みていく。石の感触は滑らかで、不意に鋭い。
洞窟の中では、音が大きくなる。自分の呼吸も、松明の火がはぜる音も、滴り落ちる水滴の音も。
私は音を数えることで恐れを測る。数えられるものは、まだ管理できる。
どれほど進んだ頃だろう。洞窟の幅が少し広がり、天井が低くなる。
次の瞬間、小さな風切り音が、耳の皮膚の裏側を撫でた。
矢だ、と身体が先に言っていた。
ロウランが即座に私の肩を引き、石柱の陰に押しやる。反射の速さに思考が追いつかない。二本目、三本目――矢羽根が石に当たり、はじける音がばちん、と短く響く。
暗闇の向こうで、笑い声。
「待っていたぞ、令嬢」
黒い声だった。
低すぎず、高すぎず、獣に真似させると不自然になる人間の真ん中の高さ。
松明の明かりが揺れ、輪郭が現れる。黒薔薇の腕章。布は新しく、刺繍は粗い。急拵え――けれど、毒は新しいものほど効く。
私は反射的に鞄を胸に抱えた。肩の革が軋み、瓶と瓶が小さく触れ合う。ここを通すために集めた証拠は、いま私の骨と同じだ。折れたら終わる。
ロウランが剣を抜く。
氷の刃という比喩は、この場所で改めて意味を持つ。洞窟の湿った空気の中で、彼の動きだけが乾いている。
「俺の妻に指一本触れるな」
言葉は長くなかった。長くない分だけ、距離を詰める。
黒薔薇のひとりが嗤う。
「“妻”? 名札を変えたつもりか。広場に立つ名は、もう決まっている」
ロウランの返事は剣だった。
刃が最短距離で走り、初撃の男の腕から音が消え、次の男の喉が空気を吸い損ねた。
ハーゼンが背後を抑え、狭さを利して突きを繋ぎ、私は石柱の陰から、矢の飛ぶ角度を目で追って声に変えた。
「右側の溝、深い! 足を取られる!」
叫びは恐れの音色を帯びていたが、言葉の形は崩れなかった。
黒薔薇のひとりが足を滑らせ、体勢が崩れる。ロウランの刃がそこへ落ちる。
松明の火が石壁の煤を舐め、白い煙が低く広がる。
「煙を低く!」
私は咄嗟に布を振り、火の位置を低くするようハーゼンに合図した。洞窟の天井が低い場所では、煙はわざと下げた方が相手の視界を奪う。
「エリシア、下がるな。俺の影の中にいろ」
ロウランの声が近い。
私は鞄を抱え直し、石の縁に背をぴたりとつけた。
矢が再び飛ぶ。一本が私の肩口をかすめ、外套を裂いた。布の裂ける音が、時間を一瞬ゆっくりにする。
血の温度が遅れて来る。
私は歯を食いしばった。
ここで怯えた声を出すことは、矢をもう一本呼ぶ。
呼ぶなら、別のものを呼べ。
「ハーゼン、左上! 滴りの多いところは足場が脆い!」
「了解!」
副官の刃がそこに差し込まれ、男の足が沈む。
戦いは、音の数を減らすことだ。
石に当たる矢の音、人の靴の音、息の音。
減っていく。
減った音の隙間に、別の音が入り込もうとする。
遠くから、細く、風が鳴く。
洞窟の奥はまだある。
黒薔薇は、すべてではない。
短い沈黙。
誰かが笑う。その笑いは、さっきの黒い声とは別の高さを持っていた。
「よく喋る奥方だ」
暗闇の奥に、別の影。
松明の明かりが届くより先に、その人の声が来る。
「王都では、声の高い女は嫌われる。ここではどうだ」
「ここでは、声の形が要る」
私は答えた。
「形のない声は、雪と同じに消える。……あなたの声は、形がない」
沈黙が一瞬、私だけを刺した。
返事は矢で来た。
ロウランの剣がそれを弾き、火花が小さく散る。
「話は広場で聞こう」
彼は低く言った。「俺たちは行く。お前たちは、ここで止まれ」
足音が動く。
黒薔薇の影がふたつ、石の影と混ざって消える。
息を吐く音が三つ、揃った。
ロウラン、ハーゼン、私。
松明の火が、もう一度、少し高くなった。
鞄の小瓶が、私の胸の前で軽く触れ合い、微かな音を出す。
音は生きている。
生きている音がある限り、私はここにいる。
ここから出て、広場に行く。
黒い手紙で作られた“事実”を、紙の外でひっくり返すために。
石の匂い、松脂の匂い、血の鉄の匂い。
全部覚えておく。
記録は、私の剣だ。
その剣を、私は今、鞄の中に抱いている。
抱えたまま、足を前へ出す。
前へ、前へ――。
洞窟の奥から、再び、風が来る。
生ぬるい。誰かが通ったすぐあとの空気。
私たちは、遅れている。
遅れているとわかっていて、行く。
それしか、選びようがない。
背後で、砦の方角の空がわずかに鳴った気がした。
音の幻だろう。
けれど、その幻は、確かな足の裏の冷たさと、同じ場所にある。
私は振り返らない。
前だけを見る。
十日――紙の上の数字は、私の体内ではもっと短い。
短い時間は薄く、薄い時間は、よく切れる。
その刃で、私は、紙を切る。
紙の向こうの手も、切る。
切り口に塩を振る。
痛みを覚えさせるために。
忘れた頃にもう一度、痛ませるために。
ロウランが振り向かずに言った。
「まだ行けるか」
「行けます」
私の声は、驚くほど静かだった。
静かな声は、強い。
彼が頷いた気配がする。
「なら、進む」
松明の火が、また少し、前へ移動した。
洞窟の壁の水が光を吸い、私たちの影が長くなる。
長くなる影の先が、王都と広場と、黒い手紙の向こうにつながっている。
影は嘘をつかない。
嘘をつくのは、紙と、印章と、噂だ。
だから、私たちは影の側を歩く。
歩いて、影の出口に立つ。
そこには、きっと、風と塩の匂いがする。
正直な匂いだ。
正直な匂いのする場所で、私は言う。
黒い手紙は、燃えた。
燃えた灰は、風に乗って消えた。
事実は、ここにある。
――と。



