婚礼の翌日、砦の空気は目に見えないところで少しだけ密度を変えた。
同じ廊下、同じ石壁、同じ雪の色なのに、交わされる視線の角が丸くなり、呼び止める声の手前に一拍、柔らかい溜め息が差し込まれる。
「エリシア殿」だった呼び名が、昼までに「奥方殿」に変わり、夕刻までにその響きが兵たち自身の口の形に馴染みはじめた。
名前は、口の中で温められてから世界に出るほうが、長く残る。
私は厨房への通路で、干し肉を運ぶ若い兵に会釈され、ぎこちない笑顔を受け取った。
「奥方殿、昨夜は……その、よかったです」
よかった、の中身は何も言わない。言葉にしない心遣いは、言葉より多く伝えることがある。
「ありがとう。あなたの分の夕餉、温かいうちにね」
他愛もない挨拶が、自分の喉を気持ちよく通り過ぎていく。罪人の喉は細く、婚約者の喉は固く冷たかった。いま、私は将軍の妻だと呼ばれて、喉の内側にやっと体温が戻ってきた。
けれど、夜は別だった。
与えられた夫婦部屋の扉を押し開けた瞬間、胸の内側で見えない魚が暴れるみたいにざわついた。
小さな寝台が二つ。屏風が一枚、真っ直ぐに立てられている。暖炉の火は低く、薪が割れ目に沿ってゆっくり崩れる音がする。
王都にいた頃、婚約者のために用意された豪奢な寝室はあった。けれど、同じ部屋で眠るという現実は、絹のカーテンの向こうでぼかされ、常に舞台装置のままだった。
ここでは、布の向こうにいる人の体温が、板の床を伝って届いてくる。
ロウランは黙って鎧を外し、机の上に整然と置いていった。金具が木に触れる音は短く、どれも同じ強さで、同じ間隔を保っている。
「安心しろ」
彼は振り向かずに言った。
「俺はお前の自由を奪う気はない。同じ部屋で眠るが、屏風を隔て、互いに干渉しない」
言葉はまっすぐで、硬い。けれど、硬さの奥に、不器用な優しさが混じっているのがわかった。硬さは、刃ではなく鞘のほうの硬さだった。
「……ありがとうございます。ですが、私は……守られるだけの存在ではいたくありません」
言いながら、自分の胸の底に沈んでいた焦燥が、言葉によって水面近くまで浮かび上がるのを感じた。
守られることに、私はずっと飢えていた。
飢えを満たす温かさは、ときに、足を奪う。
私は歩きたい。盾の影からではなく、盾の横で。
ロウランは頷いた。
「知っている。……明日、巡察に同行しろ」
「はい」
短い応答が、夜の光を少し動かした。
眠りは浅かった。屏風の向こうから聞こえる呼吸の律動に、こちらの呼吸が勝手に拍を合わせようとして、何度も自分を取り戻す。
手帳を胸の下に差し入れて、紙の硬さを肋骨の代わりにして眠る。
夜が動いたり止まったりするあいだに、火はひとつ、ふたつと小さくなり、最後の赤い芯が砂粒みたいになった頃、眼が落ちた。
翌朝、巡察。
外壁の見張り台、矢倉から矢倉へと歩く。風が石の角で渦になり、その渦の癖を足裏で覚え込む。
傷病兵の小屋に入ったとき、鼻の奥が瞬間的に縮んだ。湿った布の残り香、古い血の鉄の匂い、油の甘さと煤の苦さ。
毛布の下で震える兵の指は黒ずみ、包帯は汚れたまま硬く貼りついている。
私は躊躇わなかった。
「汚れた包帯では、傷が癒えるどころか悪化します。せめて清潔な布と温湯を」
医療は専門ではない。けれど、王都で礼法の一部として耳にした「衛生」の概念が、ここでは剣になる。
ロウランが副官に目配せする。
「湯沸かし場を増やす。清潔布の確保、優先だ」
命令は簡単で、結果はすぐだった。
中庭の隅に大鍋が据えられ、雪が次々に放り込まれていく。蒸気が立ち、ほつれた麻布がひとつひとつ熱で柔らかくなる。
私は手を洗う桶の位置を動線に合わせて移し、干し場を風の通り道に沿わせるよう提案した。
兵たちは驚き、「奥方殿の言葉で将軍が動いた」とざわめいた。
ざわめきは、責めではなく、少し羨望を含んでいた。
私の胸に、「役に立てた」という実感がひろがっていく。
役に立つことは、私が生き直す最初の形だ。
昼前、包帯を替えた兵が私の手を掴んだ。
「ありがとう」
彼の掌は固く、指の節に古い傷が光っている。
「まだ痛い?」
「痛い。でも、前より軽い。……匂いが違う」
私は微笑んだ。匂いは、嘘をつかない。
そこに、私の仕事の答えがある。
巡察から戻ると、書類の束が私の机の端に置かれていた。
食糧と薪の配分表、布と油の残数、負傷者の名簿。
私は字を読む速度より、現実の方が速く動くことを知っている。だから、紙に現実の速度を刻む。
傷の内容を簡単に分類し、重症者に温湯と清潔布を優先する基準をつけ、当番表から足りない手を抜き出して、湯沸かしに回す。
王都で学んだ「見栄えのよい帳面」は、ここでは役に立たない。ここで役に立つのは、紙に汗の跡が残る帳面だ。
その夜。
屏風の向こうで、何かが軋む小さな音がした。寝台が揺れ、続けて、押し殺した呻き。
「……また……守れなかった……」
夢を見る人の声は、どこか水の中から上がってくる。
私はためらった。
線引き。
それは私が望んだことでもある。
けれど、いま目の前で、誰かが夢にひとりで沈んでいくのを聞きながら、壁の側に座っているだけなのは、違うように思えた。
私は屏風の端を、指の腹でそっと押して回り込んだ。
ロウランは額に汗を滲ませ、眉を深く寄せ、喉の奥で短い呼びかけにもならない音を繰り返していた。
誰かの名か、場所の名か――彼自身も、覚めたら忘れてしまう種類の音。
私は水差しから布を濡らし、彼の額に当てる。
「もう大丈夫です」
言葉を選ぶ時間はなかった。選んでいる間に、夢は長くなる。
彼の瞼が震え、やがて静かに開いた。
「……見られたか」
「ええ。でも……誰にだって、弱い夜はあるはずです」
そう言うと、彼は小さく目を伏せ、息を整え、それから短く呟いた。
「済まない」
その二文字は、軽くなかった。
軽くない謝罪は、受け取るのに力がいる。
私は頷き、布をもう一度冷やしてから、元の場所へ戻った。
屏風は、風でゆるく揺れた。
線はある。けれど、線のこちら側と向こう側の温度差は、少し薄くなっていた。
翌朝、彼は何事もなかったように執務に戻った。
机に向かい、地図の上で指を滑らせ、報告に短い印をつけ、命令を出す。
夜の彼と、朝の彼は、同じ人だった。
冷徹な氷刃の将軍ではなく、重さと温度のある人。
その顔を見たことで、彼の言葉が私の胸に触れる角度が変わる。
守る価値、という言い方が、私は好きではない。価値は、測られるものではないから。
けれど、彼の目が、私を「共に立つ価値」として見はじめたことは、言葉の外側で確かに伝わった。
「奥方殿」
書類を持ってきた兵が、扉のところで立ち止まり、笑うとも苦笑するともつかない顔で言った。
「今日は、手洗い桶の前で手を洗うやつが増えました」
「いいことです」
「はい。……けど、凍ってました」
私は思わず吹き出した。
「じゃあ、桶を暖炉の風下側へ。火の粉が飛ばないぎりぎりの距離。……あと、灰をひと握り。ぬるぬるするけど、汚れは落ちます」
「灰?」
「油を割るのに役立ちます」
兵は「なるほど」と頷き、出ていった。
こういうやりとりのたびに、私の中で何かが小さく咲く。花ではなく、草に似た、踏まれてもまた立ち上がる種類の芽。
日が傾く頃、侍女のマリルが湯を運びながら、静かに笑った。
「お嬢様……いえ、奥方様。将軍様はきっと、誰よりもお嬢様を必要としています」
「マリル、これは契約婚よ」
「ええ。ですが、心まで契約で縛れる人はいません」
言葉は穏やかで、刃物のような鋭さはなかった。
なのに、その丸さが胸を突いた。
契約は紙に書ける。
心は、紙にのらない。
のらないから、怖い。
のらないから、生きている。
夕餉のあと、私は中庭に出た。雪は細かく、風に煽られて舞っている。
見上げると、空は淡く薄い鉛色で、そこに灯りの色が溶けていく。
階段の影で、若い兵たちが声を潜めて笑い合っていた。
「奥方殿に“手を洗え”って言われてから、あいつの飯、うまくなったな」
「塩の加減だろ。岩塩混ぜるようになって」
「白薔薇が砦の飯を救ったってわけだ」
白薔薇。
この呼び名は、まだ借り物だ。
けれど、借りた名は、いつか自分の体温で温め直せる。
夜。
屏風のこちらと向こうで灯りを落とし、各々の寝台に横になる。
木の枠が軋む音が、静かに重なって、すぐに遠ざかる。
私は外套の襟を顎まで引き上げ、手帳をめくる。
今日のことを、淡々と書きつける。
湯沸かし場、布、灰、桶の位置、兵の笑い声、マリルの言葉。
書き終えると、不思議と眠気がすぐに来た。
眠りに落ちる直前、封印紋が、微かに冷たく疼いた。
王都の影は、まだここに伸びてきている。
深夜。
それを最初に破ったのは、鐘ではなく、雪のきしむ音だった。
それから鐘。
石壁に沿って何度も反響し、音は厚みを増して、部屋の空気を押し広げた。
「王都からの使者が再び! 処刑令を携えています!」
伝令の声が廊下を駆け抜ける。
私は反射的に起き上がり、外套を掴んだ。
屏風の向こうから、床板を一歩で踏み切る音。
ロウランが剣を取り、扉を開けかけたところで、私を振り向く。
目は夜の色をしていた。
「来たな……」
その声には、恐れはなかった。
恐れの形を知って、別の場所に置いてある人の声。
私は布団の端を握りしめ、胸の内で短く言う。
(逃げない)
扉の外で、雪が鳴った。
この先で、文字はまた黒い灰になるだろう。
けれど、灰は火の記憶を持っている。
私たちは、それを風に混ぜて、明日に運ぶ。
契約の婚姻は紙の上で始まった。
戦いの絆は、紙の外で始まる。
その線を、いま、跨ぐ。
廊下を走る足音、鎧の金具の触れ合う音、伝令の早口。
ロウランは短く、けれど丁寧に命じ、私は倉庫へ走る。
湯の温度、布の枚数、油の量――目は勝手にそこへ行く。
必要なものを抱えて戻ると、兵たちはすでに持ち場につき、矢羽根は整い、火は抑えられていた。
密使の影が門前に揺れる。
私は石段の手前で立ち止まり、息を整えた。
私の役目は剣ではなく、言葉と、手と、眼だ。
それで十分だ。
いや、それが必要だ。
私の指の腹に、紙の感触がまだ残っている。
契約の文字をなぞったその指で、今日、包帯を結び直した。
王都の文字がどれだけ冷たくても、私は、ここで、温かい文字を書き続ける。
誰にも見えない紙に。
雪の上に。
兵の背中に。
ロウランの、目の奥に。
鐘は鳴り続け、夜は長くなる。
長い夜は、二人の間の屏風を薄くする。
薄くなった屏風は、まだそこにある。
線引きは消えない。
けれど、線は、橋にもなる。
私は外套の襟をもう一度上げ、階段に足をかけた。
足の裏に、石の冷たさがはっきりとある。
それが、私の居場所の証拠だ。
この冷たさの上で、私は暖かい側に立つ。
誰に頼まれたわけでもないが、誰かに必要とされている。
それで十分だった。
足音は、音の中へ紛れていく。
雪は、小さく、しかし確かに、解け始めていた。



