早馬は、鐘の音より先に寒さを引き連れてきた。
砦の北門前で一際高い嘶きが上がり、風向きがひと呼吸だけ変わった気がした。雪の粒が走り、石壁の影が薄まる。鞍から転げ落ちるように飛び降りた伝令の頬はひび割れて赤く、革の手袋は汗で濡れて黒く光っている。
「王都――宰相府より」
短く告げる声が、息と一緒に白く崩れた。
封蝋には、王都宰相府の印。溶かした蜜蝋に鉄の冷たさを押しつけたときの匂いが、紙縒りの隙間からほんのりと立つ。私はそれを嗅ぎ分ける自分の鼻の確かさに、少しだけ救われた。世界は、すべて裏切るわけではない。匂いと重さは、嘘がつけない。
ロウランが短刀で封を割った。刃の音は静かで、紙が裂ける音の方が大きかった。読み上げはなかった。彼は視線で数行を走り抜け、黙って紙をもう一度たたむ。
沈黙が先に落ちてきたので、言葉は落ちてきたあと、床に並べられるだけの仕事をした。
「宰相府は――罪人令嬢エリシア・レイバックを再拘束し、速やかに王都へ送還せよ、と命じている。従わぬ場合、北境への兵糧支援を停止する」
声は乾いていた。乾いているということは、湿り気が後からやって来るということだ。
兵たちの顔が、一斉に青ざめた。
兵糧が止まる。
小麦は、歩かない。塩も、風に乗ったりしない。止められれば、止まる。砦は、冬の真ん中で飢える。
腰の封印紋が、ぴり、と小さく疼いた。あの夜と同じ、骨の裏をひっかくような微かな痛み。私は自分の呼吸の形を、喉の奥で片手で守るみたいに保つ。
「……やはり」
声に出すと、それだけで氷がひとつ割れた。
誰かの思惑が、私の輪郭を消すことで形を保とうとしている。
帳簿の数字の偶数、床に落ちた海塩、二重底の樽――すべては、私という名前を消すための、長い線の一部だったのだと、やっとはっきり見えた。
ロウランは椅子を引き、立ち上がった。
その動作には怒気は混ざらず、ただ決められた場所に置くべきものを置くときの動きだけがあった。
「王都の命令に従えば、この砦は罪なき者を差し出す人質の器に成り下がる」
低い声が、食堂の梁に届いてから、落ちてくるまでに少し時間があった。「俺はそれを拒む」
ざわめき。
国命に逆らえば、処罰は避けられない。北境は外縁だが、国の外ではない。
それでもロウランは、冷たい水を桶に満たすみたいに、言葉で場を満たした。
足場は、言葉でも作れる。
彼は私の方へ向き直る。
灰青の瞳は、測る目ではなく、差し出す目になっていた。
「形式上、俺と婚姻を結んでもらう」
文字がいくつか、耳ではなく皮膚に刺さった。婚姻――その二文字はいちばん最後に刺さる。
彼は続ける。「軍婚の規定により、将軍の妻は軍法下の庇護を受ける。王都ですら、容易には手を出せなくなる」
私は息を呑んだ。肺に入った空気が、刃の背のように冷たくて、奥の粘膜に乾いた筋を残した。
「……偽装の婚姻を、私に?」
「そうだ。これは契約だ。お前の自由を縛るつもりはない。ただ――盾が必要だ」
盾。
鎖ではなく。
その単語は、胸の内側で、ゆっくりと重みを変えた。
婚姻という言葉は、私の身体から最も遠いところにあるべきものだった。あの夜、絹の手袋が外された瞬間から、私はもう二度とその言葉に頼らないと決めた。
けれど、盾という言葉は、婚姻の隣に置いても腐らなかった。錆びない、乾いた金属音がした。
マリルが、私の肘のあたりで小さく囁く。
「お嬢様……これは鎖ではなく、楯です」
彼女の声は、まるで熱のない灯りみたいに、形だけで私の胸の中を照らす。私に必要なのは、いまは熱ではない。見えることだ。
私は、うなずいた。
「分かりました。将軍のご提案、受け入れます」
言いながら、言葉の重心を、自分の側に引き寄せる。
「ただし――契約書に“離縁条項”を加えてください。私が望めば、自由に別れられるように。互いの自由を尊重し、身体の不可侵も明記してほしい」
ロウランは、ためらわなかった。
「当然だ」
その即答の軽さに、私は目の奥が少し熱くなるのを感じた。軽さは、過去を軽んじる軽さではない。私の過去を重いまま置いて、その上に今を置く軽さ。
重ねることができる人は、約束ができる。
午前のうちに、準備は整えられた。整えると言っても、王都の婚礼の準備とは比べようもない。砦の大広間から余計な机を端に寄せ、床に敷物を一枚追加する。糸のほつれた旗を一旦外し、煤をはたく。古参兵が倉庫の奥から古い式次第の板を探し出し、埃を手の甲で拭った。
花はない。楽師もいない。
けれど、冬の光はある。
窓から斜めに差し込むそれは、王都のシャンデリアよりも正直だ。
私は用意された淡い灰色のドレスに袖を通し、髪を低く結わえて、白い紐でまとめた。鏡は研磨が甘く、私と部屋と窓の外の雪を少しずつ混ぜて映す。
「きれいです」
マリルの声に、私は笑って見せた。笑いは、嘘ではなかった。
鎖ではない。楯。
その言葉を、何度も胸の内側で磨く。
兵たちが輪になって立ち、槍の石突きを床に揃えて置く。揃う音は、鼓動に似ていた。
神官の代わりを務めるのは、古参の兵。背筋は伸びているが、声帯は戦場の叫びで少し擦り切れている。だから、言葉に無駄な飾りがつかない。
「ここに、将軍ロウラン・ファルクナーとエリシア・レイバックを、軍法の下に夫婦とする」
淡々とした宣言のあと、一拍の静寂が落ち、それから一斉に槍が掲げられた。
「将軍と奥方に、栄光あれ!」
鬨の声は、石壁に当たって、少し丸くなって戻ってくる。
私はその音の真ん中にいた。
形式だけの婚姻だと分かっているのに、頬が熱くなる。耳の縁まで、血が行き届く。
ロウランが、私の方にわずかに身を傾けた。
「……妻殿」
その呼び名は、刃ではなく、柄の方で触れられるように、やさしかった。
私は目を伏せ、短く息を吐き、それから顔を上げて頷く。
兵たちの足音が、床に小さく跳ねた。
王都の婚礼では、歓声はもっと大きかった。けれど大きい音は、大きいほど、すぐに消える。
ここでは、音は小さいまま、長く残る。
式の後、私たちは執務室に移った。
木の机の上には、簡素な契約書。羊皮紙の白は、冬の白より温かい。私は、ペン先を紙の端にそっと置いて、条項を書き足していく。
一、互いの自由を尊重すること。
二、望めば離縁可能であること。
三、身体の不可侵と、意思の優先。
四、夫婦の名義での資産の分別。
書きつけるたび、過去が薄い紙に吸い込まれていくようで、指先の感覚が頼りなくなる。
ロウランは無言で読み、躊躇なく署名した。
彼が軍の印章を外して、私の手に渡す。指輪の代わりに、硬い印。
「これは盾だ。いつでも捨てられる」
灰青の瞳が私を見る。
「だが捨てるまでは、俺の庇護は絶対だ」
絶対、という言葉は危うい。
王太子も、似た言葉を使った。
けれど、そのときの絶対には、私が含まれていなかった。
今目の前の絶対には、私がいる。
私は印章を胸の前で握り、小さく、けれどはっきりと頷いた。
夜明けとともに、砦の呼び名はひとつ変わった。
「エリシア殿」から「奥方殿」へ。
呼び名は、ただの記号ではない。呼ばれるたびに、自分の骨の形が少しずつ変わる。
「奥方殿、今日の巡察はご一緒に」
「奥方殿が見つけた塩の件、改めて感謝します」
兵たちの声は、わずかに照れくさそうで、けれど温かかった。
私はまだ戸惑いながらも、それを受け取る。
居場所は、与えられるものではない。受け取りに行くものだ――そのことを、私は少しずつ学んでいる。
朝の巡察では、外壁の風の当たり方と積雪の位置を確認した。階段の一段目の苔が湿っている。昨日の風は北西。今日の風は、途中で北東に折れている。
調理場では、岩塩を混ぜて味を立たせる方法を、料理当番の女兵と一緒に試した。海塩の丸い角は、冬の疲労をなだめるけれど、戦の前の舌には、もう少し鋭さが必要だ。
小さなことが、積もって砦を変えていく。
その小さな変化の中に、自分の居場所が、ほんの少しだけ形になって見える瞬間がある。
手で触れると、ほぐれてしまいそうなほど、脆い形。でも、触れずにはいられない。
温かさに身体が慣れはじめた頃、門の前にひとりの騎士が現れた。
王都の印を掲げた槍旗。端のほつれは新しい。馬体は痩せ、蹄鉄に泥が薄く貼りついている。
彼はゆっくりと馬を下り、胸元から封筒を取り出した。封蝋は宰相府のものより赤が濃く、押された紋は、見慣れない副印を伴っている。
書面を受け取ったロウランは、その場で封を切り、目を走らせた。
私の背中の封印紋が、ふたたび冷えた指で押されるように疼く。
紙の上の文字は、冷徹だった。
――「軍婚は不正。将軍は私情をもって軍法を歪めた。エリシア・レイバックを直ちに処刑せよ」
声に出さずとも、言葉はそのまま空気に滲み、石の目地に染み込んでいく。
私は一瞬、足の裏に床の感触を探し損ねた。
形式だけの庇護では、王都の執念を止めきれない。
そんな当たり前のことに、私は心臓の形のままぶつかった。
ロウランは命令書を折り、密使の胸に押し返す。
「ここは北境だ」
彼の声は、炭の下に残っていた赤に、そっと火を入れるときの温度だった。
「俺の剣が掟だ。王都の文は焚き火にくべろ」
密使が目を見開き、なにか言いかけるより早く、命令書は火に差し出された。
火は、紙の上の文字に興味がない。
文字は、黒い灰になって、煙に混ざった。
私はその黒を目で追いながら、喉の奥を一度だけ鳴らした。
これで、私たちは引き返せない。
王都は、北境を飢えさせるつもりで、言葉を投げてきた。
私たちは、飢えに言葉で返すことはできない。
剣と、雪と、風と、塩で返すしかない。
夜半、外壁の上で風が変わったのを、見張りが先に気づいた。
鐘楼の影に立つ若い兵が、望遠鏡を覗き込み、息を飲む。
「……影だ」
遠い闇の中で翻る布。黒旗。
印は見えない。けれど、その動き方を知っている。軍の旗の動き方だ。
合図は、鐘に伝わった。
砦の中に警鐘が鳴り響く。音は何度も壁に跳ね返り、少し高い音と低い音が重なって、胸の骨を叩く。
私は外套を握りしめ、外に出る。
白い息が口から飛び出して、すぐに消える。
中庭を走る兵の顔が、灯火の下で一瞬ずつ照らされる。
ロウランが、短い指示をいくつも重ねていく。
私の足は、自分の意思より先に動いて、倉庫へ向かっていた。塩の粒度、油の残量、矢の本数――手帳の中の行が、階段の段差のように、身体を導く。
胸の奥で、小さく呟く。
「これは契約の婚姻。けれど、私はもう逃げない」
盾であるなら、私は盾の裏に隠れているだけではいけない。
「盾であるなら、私も剣になる」
剣は、私にとって言葉だ。
言葉は、風の向きを少しだけ変える。焚き火に、あとひと欠片の薪を足す。
その小さな変化が、夜の長さの意味を変える。
塩袋の口を締め直していると、扉の向こうから、マリルの足音が近づいてきた。
「お嬢様」
彼女は小さな包みを抱えている。私の外套の内側に入れておくように、と手渡された湯石。
指先に温度が戻る。温度が戻ると、恐れも戻る。
私は笑って見せた。
「ありがとう。……大丈夫よ」
大丈夫、という言葉は、たいてい大丈夫ではないときに使われる。
それでも、今夜の大丈夫は、少しだけ嘘が薄かった。
盾はここにあり、剣はここにある。
そして、私の呼吸の形は、まだ壊れていない。
城壁の上に上がると、風がさらに強くなっていた。
黒旗は、もう少し近くに来ている。旗の縁が割れて、糸が夜の中にほどけていく。
隣に立ったロウランが、私に目を向ける。
目は、以前と同じ色をしている。
「寒いぞ」
「ええ」
短い言葉の交換が、妙に長く感じられた。
彼は言葉を重ねない人だ。重ねないというのは、無関心ではない。
私は自分の中の怖れを、ひとつずつ名前で呼んで、火のそばに置いていく。
名前のあるものは、少しだけ軽くなる。
名前のないものは、刃より重い。
鐘は鳴り続ける。
闇は厚みを変え、音は高く、低く、私たちの耳の皮膚を擦っていく。
戦の火種は、目では見えない。
でも、音が教える。
雪嵐の夜に、音は火に似ている。近づけば熱く、離れれば冷たい。
私は、音の側に立つ。
音が私の中を通り過ぎ、背中から出ていく。
その通り道は、きっと私の形のまま残る。
今夜は、長い。
長い夜は、刃物のように細く、同時に布のように広い。
私たちは、その上に立つ。
盾と剣を持って。
契約の婚姻は、紙の上の線だった。
けれど、今は、砦の中庭の石の上に、雪の上に、兵の掌の皮膚の上に、もっと太い線が引かれている。
線は繋がり、やがて、ひとつの輪になる。
輪の中に、私たちは立つ。
輪の外から、黒旗が近づく。
私は、呼吸を整え、外套の端を掴み直した。
夜は、まだ開いている。
開いている夜の縁で、私は、小さく笑った。
笑うことができるうちは、まだ負けていない。
そう教えてくれたのは、王都ではなく、北境だった。
風が、私の頬に触れる。
その風は、もう、怖くなかった。



