砦の朝は、音が遅れてやって来る。
東の端に色が生まれ、石壁の影がわずかに薄くなったあとで、やっと靴音や鍋のぶつかり合う響きが壁から剥がれるように立ち上がる。雪は音を吸う。だからここでは、誰かの声は、言葉になる前にいったん胸の中で温めなければならない。温度を持たない音は、砦の石に貼りついたまま、誰にも届かない。
その朝、最初に届いたのは、良くない知らせだった。
斥候が戻らない。
北の森へ出した二人組。定めた刻限をひと刻、ふた刻と過ぎても、門をくぐる影が現れなかった。
「雪に足を取られただけだろうよ」
「森の中は見通しが悪い。夜営して戻ってくるさ」
兵たちは笑ってみせた。笑いは、恐れの反対語ではない。恐れの影にくっついて、いつも少しだけ遅れてくる。
ロウランは笑わなかった。彼は、笑いの直前に起きる、ほんのわずかな沈黙の方を見ていた。
「森の入口に風の逆流が起きていた」
低い声が、食堂の長卓の端に落ちる。「吹雪の兆候にしては早すぎる。何か潜んでいる」
彼の言葉は誰の胸にも触れずに通り過ぎることがない。触れた場所で熱を作って、判断を催促する。
沈黙が砦を包んだ。
もし斥候が全滅していれば、彼らの携える周辺地図は敵の手に渡る。地図は紙だが、ここでは血の延長にある。失われれば、足の一本をもがれるのと同じだ。
私は黙っていた。黙っている間も、目は勝手に動く。食堂の窓の外を渡る風の向き、煙突から上がる煙のたわみ、雪面に残る雪庇の輪郭。
地図を広げる。砦を中心に、北の森へ伸びる谷筋が細い指のように分岐している。
「……この谷を通れば、追跡者は音を立てずに砦の近くまで来られます」
自分の声が、自分の背中を押した。王都で学んだ戦術書は形式ばかりで、言葉は美しかったが、風は描かれていなかった。私はここで、風を覚えた。
ロウランが一瞬、私を見た。見るというより、測る眼差し。
「出る。捜索兼殲滅だ」
決断は短く、余白はなかった。「エリシア、同行しろ」
ざわめきが起きる。
「罪人を? 女を?」
その反射的な言葉に、ロウランは即答する。
「彼女の目は地図より正確だ。俺の命令だ」
命令は、安堵でもあり、重荷でもある。私は頷いた。重たさの方は、毛布のように温かかった。
選抜された小隊は十。副官ハーゼンが最後に人数を確認し、火の消えた炉の灰を鉄のスコップでひとなでして外に出る。
雪を踏む音は、みんな似ているのに、人によってわずかに違う。軽い音、深い音、ためらう音。私はその混ざり具合で、編成の輪郭を頭に描く。
私は馬ではなく徒歩で出た。馬上からでは拾えないものがある。吐く息を白く散らしながら、枝のしなりを見て、雪の粒の粗さを足裏で探った。
少し行ったところで、倒木の幹に、短い削れ跡があるのを見つけた。
「斥候の合図……」
私は手袋の指で触れ、棘の向きを確かめる。「でも、向きが逆です」
本来なら砦へ帰る方向を示す刻みが、森の奥を指すように掘られている。
「改竄(かいざん)だな」
ハーゼンが眉をひそめる。
「斥候を捕らえ、痕跡を偽装して追手を迷わせる……あの手の連中のやり口だ」
あの手の連中、という言葉の輪郭は、まだ空気の中で曖昧だった。黒薔薇の刺繍が、その輪郭をすぐに肉付けすることになる。
森は、雪があるのに暗い。
梢は風をはじく盾になり、音は下へ降りてこない。白い光が木々の隙間で細かく砕けて、足元の雪の上に斑点を作る。斑点は目を惑わせる。歩くときは、白ではなく影を踏むのだと、斥候のひとりが昔教えてくれた。
やがて、雪に半ば埋もれた槍が見つかった。槍穂の根元に布が巻いてあり、その布が黒く凍っている。血だ。
けれど、遺体はなかった。
私は喉の奥がひゅっと狭くなるのを感じた。
「生け捕りにされている可能性が高い」
言葉に混ざった震えを、誰かが聞いたかもしれない。
ロウランは槍を引き抜き、雪を払って柄に刻まれた印を確かめる。砦の刻印。彼はそれを、丁寧に雪の上へ置き直した。落とし物は、拾って返す。返す先が残っていれば、の話だ。
さらに奥。視界の向こうが、ふっと浅く開けた。
粗末なテントが三つ。囲むように焚き火。火は低く、煙は横へ流れる。
焚き火の周りに十数人の男たち。鎧は統一されていないが、腕には同じ腕章が巻かれている。黒地に、薔薇の刺繍。
黒薔薇――王太子派近衛の印。
けれど、彼らはいま、軍人ではない。腰に吊るした革袋はふくらみ、靴は泥と血で鈍く黒い。目が、荒事のあと特有の焦点の合わなさを隠していない。
焚き火から少し離れた雪面に、二人が膝をつかされていた。縄。口を布で縛られ、手足は後ろで結わかれている。
斥候だ。
兵のひとりが、息を呑む音を殺し損ねた。
救出は急務だ。だが正面から突っ込めば、最初に斥候の喉が切られる。
火は小さい。風は西から。雪松の群れが、凹地を半月に囲んでいる。足跡は、焚き火の周りで無数に重なり、凹地の縁まで延びている。――自分で言葉を並べるより先に、体が勝手に配置を描いた。
「風が西から吹いています」
私は静かに口を開いた。「雪松の枝に火を放てば、煙が一気に吹き下ろされる。煙幕の中で、こちらは風上に立てば視界を保てる」
言いながら、凹地の縁を指差す。足跡の帯は、思っている以上に人の身体を絡め取る。
「敵は雪面に足跡を多く残しています。凹地に誘えば、自分たちの足跡に囚われて動きが鈍るはず。斥候には、凹地の外へ逃げる導線を」
兵たちは顔を見合わせた。半信半疑。半分の疑いは、半分の信頼の裏返しだ。
ロウランは短く言った。
「採用する。煙幕、凹地誘導、突入三手」
副官が、手の中の図を素早く三つに折ったみたいに、命令を配る。
私の背骨の中の冷たい柱が、少しだけ温かくなる。自分の提案が採られることが嬉しいのではない。斥候の喉元にかかっていた目に見えない刃を、いま少し鈍らせられるからだ。
火矢が放たれた。乾いた松は、火の言うことをよく聞く。細い枝から太い枝へ、音もなく火が走り、遅れて黒い煙が太い綱のように斜面を下りる。
煙は風の言いなりで、男たちの喉や目にまとわりついた。慌てた足が雪に取られ、弓を引く腕が視界を探す。
ロウランは先に出た。氷の刃という比喩は、この人の動きの温度を言い当てている。熱がないのではない。余計な温度がない。余白がない。
突きと斬撃。最短距離。最短の痛み。二人が雪の上に崩れ、白が黒で汚れる。
兵たちは半弧を描いて突入した。狙いは焚き火ではなく、凹地の縁。敵をそこへ押し、沈め、足に雪を絡ませる。
私はマリルとともに、斥候のもとへ走った。
「静かに。今、外す」
縄を切る。布を外す。息が荒い。
「……呼吸はある。凍傷がひどいけれど、助かる」
自分の声が震えている。震えが、手の速さを邪魔しないように、歯を強く噛む。
マリルが自分のスカーフを裂いて、斥候の手先に巻く。白い布はすぐに紅くなる。
「見える? 声は聞こえる?」
斥候の目がかすかに動く。目は嘘をつくこともあるが、生きる方向だけは嘘をつかない。
凹地に追い込まれた連中は、足元を失い、体の重さだけで消耗していった。雪は柔らかい。ただし、動く者には鋭い。
数人が散り散りに逃げ始める。斥候への手を離さないように、私は視界の隅で黒薔薇の腕章の数を数える。
ロウランは深追いしなかった。追えば背が伸びる。背が伸びれば、斥候の体温が落ちる。
「撤収だ」
短い号令。兵たちが弓の弦を緩め、倒れた男たちから腕章と印のあるものを剝ぎ取り、凹地の中にわざと足跡を交差させて、追手を迷わせる跡を作る。
煙が晴れていく。風は、やったことに関心がない顔をして、ただの風に戻る。
雪原には、黒薔薇がいくつも落ちていた。刺繍は手仕事で、ひとつひとつ微妙に違う。忠誠が均一でないことは、紋章の糸目にも表れる。
砦へ戻る道すがら、兵たちの肩越しに声が落ちる。
「罪人が砦を救った」
「見たか、凹地の使い方。王都の書付けじゃねえ」
私は前だけを見た。うしろの声は、耳の皮膚の外側で風に混ざる。
若い兵が、私の並びに駆け寄ってきた。頬にまだ綿毛のような産毛が残っている。
「白い雪に映える……北の白薔薇だ」
ぽつり、と言った。
誰も笑わなかった。
名前は、こうして生まれる。誰かの口の中で偶然こぼれ、雪の上に落ちて、冷えて固まって、拾い上げられる。
その呼び名は、私の背中に軽く載って、思っていたよりは重くなかった。
砦に入ると、斥候はすぐに医務室へ運ばれ、火と布と油で処置された。凍傷は深刻だが、指は残せる。命は残る。
私は暖炉のそばで息を整え、水を一口飲んだ。
ロウランが、珍しく自分から私に声をかけた。
「王都式の戦術は“形”ばかりだ」
彼の言葉は批評ではなく、実感の形をしていた。「今日のお前の判断は、実地の目だった」
「……認めてくださるのですか?」
自分でも、幼い問いだと思う。けれど、口が先に動いた。
「認めるかどうかではない。事実だ」
無骨な言葉だった。無骨な言葉は、時に余計な飾りよりもよく温まる。
胸の奥が、静かに満たされる。満たされるというのは、息が最後まで肺に入ることだ。昨日までは、いつも途中で引き返していた気がする。
日が落ちる頃、食堂に小さな祝勝の席が設けられた。大皿に乗った温い肉と、パンと、薄い酒。杯は陶器で、ひとつひとつに欠けがある。欠けの数だけ、ここでの冬が重なっている。
私は端の席に控えめに座った。自分のための祝いではない。帰ってきた二人のための席だ。
けれどマリルが、そっと私の背を押す。
「もう、お嬢様は被害者でいる必要はありません。胸を張って」
胸を張る、という言葉は、王都ではよく叱責の前に使われた。「胸を張りなさい、あなたはレイバック家の娘なのだから」。
いま、その言葉は叱責ではなかった。
私は小さく頷き、杯を受け取る。
兵たちが声を上げた。
「白薔薇さまに!」
杯が触れ合う音が、砦の天井の煤に跳ね返って、もう一度降ってきた。
酒は薄く、温かかった。温かい酒は、泣きたいときに危険だ。私は泣かなかった。泣かないことと、泣けないことの差を、ここに来てから私は覚えはじめている。
笑いがひとしきり落ち着いた頃、斥候のひとりが立ち上がった。顔色はまだ悪いが、目の焦点は戻っている。
彼は杯を両手で持ち、震える声で言った。
「……敵の中に、王都の紋章をつけた“騎士”がいた」
杯の縁が、ほんの少し触れて、音を立てた。誰のものかはわからない。
「しかも……宰相派の旗印と一緒に」
砦の空気が凍るという言い回しは、ここではまったく比喩ではない。暖炉の火が勢いを落としたわけでもないのに、石壁の内側の温度が一段下がった。
ロウランは黙ったまま拳を握り、その手を机の下に下ろした。上に置けば、誰かの目に燃料になる。下にある拳は、自分自身の骨にだけ熱を伝える。
私は杯を置いた。
黒薔薇だけではない。王都の正式な騎士。宰相派の旗。
辺境は、もう外周ではない。
図の中心が、こちらに少しずつ寄ってきている。
(来るなら、ここで受ける)
心の中で言葉を立てる。声にしてしまうと、酒の匂いに混ざって、軽くなる気がした。
私は明日の記録を、まだ白い頁の上で先に組み立てる。風の向き、煙の色、靴音の深さ、塩の粒度――すべて。
剣は、私にとっては言葉だ。
言葉は、誰の喉でもなく、自分の喉から出るときにいちばん鋭い。
その夜、部屋に戻ると、暖炉の火はまだ赤く、マリルは毛布の中で体を小さくして眠っていた。
窓の外の月は薄く、ぼんやりとした輪郭のまま、氷の膜の上に自分の光を置いていた。
私は外套を脱ぎ、机の上に手帳を広げる。
今日の出来事を順番に並べ、最後の行に迷いながら一行足す。
――北の白薔薇、という名を、借りた。
借りた、という言葉にする。もらった、でも、与えられた、でもない。
名は、いつも借りものだ。いつか返すかもしれないし、返さないかもしれない。
けれど、借りている間は、汚さないようにしたい。雪に落とす前に、泥を拭うように。
火が小さくなっていく。外の風が壁を撫でる。
目を閉じる直前、封印紋が、かすかに疼いた。
痛みは微細で、ほとんど熱とも冷たさともつかない。遠くの合図のようだ。
王都は、ここに線をつないだまま離さない。
それでも、私は眠る。眠りは、明日のために切る唯一の刃だ。
刃は鞘に納まっているときにこそ、静かに光る。
私は、その光を胸に置いて、深く息を吐いた。
息は白くならなかった。部屋が、ほんの少しだけ暖かかったから。
それで十分だった。



