夜明けが、氷の表面に爪を立てるようにゆっくりと広がっていく。灰色の空から落ちる光は、どこにも焦点を結ばず、世界を均一に冷やしていた。
 北境の砦は、そんな朝の中に立っていた。石灰岩で積み上げられた城壁は風雪に削られて、ところどころ粉を吹いたように白い。近づけば、指で触れても崩れ落ちそうなほど、表面は脆く見える。けれどその立地は、峡谷の喉元を押さえ切るように狭く、確かな構造を持っていた。風化しているのは皮膚であって、骨は太い――その印象は、遠目より近くで見た方が強い。

 見張り台から角笛の乾いた音が落ち、門前はざわついた。護送隊が到着した、と告げる声はすぐ静まり、代わりにいくつもの視線が、ひとつの点に集まった。
 私に。
 罪人令嬢。王都を追われた姫さん。
 呼び名はいくつもある。人の口は器用だ。名付けることに慣れている。相手を理解するより、名札を貼って安心する方がずっと簡単だから。
「見栄えは立派だが、またお飾りか」
「王都の匂いがする」
 好奇心と侮蔑。それはたいてい混ざり合って、雪のように冷えている。私は眉を動かさない。姿勢だけは崩さない。倒れない。倒れたら、いとも簡単に別の名前を貼られる。
 マリルがそっと肩に寄り添って、小さな声で囁く。
「気にしなくていい。……ここからは、私が聞きます。お嬢様は前だけを」
 彼女の指は昨日からずっと冷たい。けれどその冷たさは、私を現実に留めてくれる。温かい言葉は甘い。甘いものは飢えた心に染み込む。けれど、飢えを忘れさせもする。マリルの冷たさは、私がいま空腹であることを思い出させてくれた。

 門の前に立ったロウランは、何も言わない。その沈黙は、命令よりも先に空気を並べ直す。
「門を開けろ。客人を通す」
 短い声が響くと、小さく反発する声が一つ、二つ。
「罪人を客人呼ばわりとは」
 続くはずの言葉は、ロウランの視線に切られて消えた。鋭い一瞥は、刃というより、冷水のようだ。熱を持った感情にかけられると、その場で湯気だけが上がって、後には何も残らない。兵たちは思い出す。氷刃の将軍がなぜ恐れられているのか。恐怖とは、彼の剣の鋼だけの話ではない。秩序を乱す温度を、容赦なく常温に戻す能力のことだ。

 城門の影をくぐった瞬間、私の鼻腔に馴染みのある匂いが刺さった。
 塩。
 正確には、海塩の匂い。湿りを含んだ、ほんの少し生臭い気配。
 北境で使われるのは、本来、乾いた岩塩だ。砦の調理場や兵糧庫に立ち込めるのは、もっと粉っぽい、乾いた匂いのはず。
「……塩の匂いが強すぎる」
 思わず口から漏れた自分の声に、自分で驚く。
 ロウランが横目で私を見る。問いは含まれていなかった。ただ「聞いた」という印の視線。
「この土地で海塩が常用されるはずがない」
 言葉にすると、直感は輪郭を得た。輪郭は思考の足場になる。私は足場をひとつ得た。

 午前のうちに、兵站官が食糧台帳を携えて現れた。頬にはひげの青みが濃く、書類の角を指の腹で何度もなでながら、早口で言う。
「昨日、王都の倉から補充がありました。麦、干し肉、油……在庫は安定しています」
 ロウランが受け取った台帳を私は横から覗き込む。紙面の数字の配列が、私の目には少しだけ違って見えた。規則的すぎる。きれいすぎる。帳尻合わせの整然さ。
「ここ。麦の在庫が“偶数単位”で記されています。実際の俵数は奇数のはずです。俵ごとに紐の色が違うから、ふつうは端数が出る」
 兵站官の目が一瞬泳いだ。
「……素人が口を挟むな。王都の娘に、こっちのやり方がわかるか」
 口調は粗いが、目の奥にあったのは怒りではなく怯えに近いものだった。怒りは外へ向かうけれど、怯えは内側で自分に跳ね返る。彼は自分の身の振り方を恐れている。
 私は床板の隙間に白い粒を見つけ、かがみ込んだ。指でつまむと、粒は湿りを持っていて、指先にわずかにくっついた。
 腰の小さな携帯灯に火を入れて、その粒をそっと近づける。
 じゅ、と短く鳴って、色がくすんだ。黒く焦げる――いや、正確には、含まれていた微細な有機物が焦げている。
「海塩です。湿気が混じっているから、こうして火で炙ると黒くなる。岩塩はぱちぱちと弾けるだけで、色は変わりません」
 兵たちの視線が一斉に集まった。見世物を見る目ではない。答えを探す目だった。
 ロウランが低く言う。
「二重底を確認しろ」
 兵が床板を外す。釘抜きが木に沈んでいく鈍い手応えが、私の背骨にまで響く。板が持ち上がると、冷たい空気が地面の隙間から溢れた。薄暗い空洞の中に、小さな樽がいくつも詰め込まれている。
 樽の側面に焼印――王都の商会の印。
 兵站官が顔を強ばらせた。
「な、何故こんなところに……」
 誰に向かっての“何故”か、彼自身わかっていないような声だった。

 倉の中は、一瞬でざわめいた。
「……厄介なことに首を突っ込むな」
「証拠を見つけたって、揉み消される」
「王都の金に逆らって、生き残れると思うか」
 声は低く、互いの顔を見ようとしない。顔を見ないのは、意思を結ばないという意思表示だ。士気は見えない形で下がり、床に残った塩の粒のように湿っていく。
 私は唇を噛み、言葉を探した。
 社交界で私は、言葉を刃にして使い続けてきた。相手の弱いところへ綺麗に刃先を入れる術は、嫌でも身についた。ここで必要なのは、きっと別の言葉だ。心に下支えをつくる言葉。刃ではなく、骨になるもの。
「……私は、自分を陥れた者に屈したくありません」
 声にすると、胸の奥の塊が崩れていくのがわかる。「もし王都が私を罪人と呼ぶなら、せめてここでは、真実で戦わせてください。嘘に名前を与えて、それで終わりにしたくない」
 兵たちの何人かが、視線を逸らした。
 それは、拒絶ではない。外せない矢を、一度だけ避けて呼吸を整える仕草だ。小さな亀裂が、固い石の面に走った音がした。耳ではなく、胸の裏側で。

 ロウランが一歩、前に出た。
「この件は、私の責任で預かる」
 短い宣言が倉の空気を入れ替える。
「令嬢はここで保護する。居室を与え、警備をつけろ」
「しかし、将軍、それは――」
 兵站官がうわずった声を上げる。ロウランは彼に目を向け、静かに告げた。
「不服があるなら、決闘で決めろ」
 誰かが息を呑む音が聞こえた。
 決闘――この砦ではまだ生きている古い規則だ。武に訴えるという意味ではない。責任の所在を個に引き受ける覚悟を示す作法でもある。
 兵站官は口を閉ざし、唾を飲み込んだ。沈黙が行き場を失って、倉の壁に貼りつく。
 私はその場で深く頭を下げようとして、踏みとどまった。
 礼をするなら、場を整えてから。この瞬間に礼を言うのは、私を守るために矢面に立つ人の背に、余計な重みを載せるだけだ。礼は、後でいい。
 それでも胸の中では、なにかがほどけた。王都から追放されても、まだ私を「守る」と宣言する声がある。その事実が、今日の寒さの中でいちばん温かかった。

 居室は砦の内側の一角、兵の詰所と武具庫の間にあった。石の壁は夜の冷えを閉じ込めているが、小さな暖炉に火が入れられると、部屋はすぐに息を吹き返した。
 窓は小さく、雪に磨かれた空が四角く切り取られる。王都の部屋の窓には、必ずレースのカーテンがかかっていた。ここには布ひとつない。けれど、いらないものがないのは、私にとって救いだった。
 マリルが荷解きをし、私の寝台に薄い毛布を重ねる。その動きは丁寧で、王都で仕込まれた作法の名残と、辺境で生きるための実用がいい具合に混ざっている。
「お湯を持ってきます。手を温めてください」
「ええ。ありがとう」
 返事をして、部屋の隅に寄せてある鎧立てに目が留まった。
 ロウランの鎧だ。肩にかかる毛皮の留め金に、戦場の傷が浅い線を刻んでいる。鎧の隙間には雪が溶けて乾いた白い筋。手入れは悪くない。けれど、王都で見てきた、儀礼用の鎧の光沢とは違う。
 私は棚から油布と布を取り出し、ためらいながらも、鎧の継ぎ目に指を滑らせた。布はすぐに金属の匂いを吸い、わずかに暗くなる。
 王妃教育の一環として、私は王の装備に触れる作法も習っている。「主の命を守るものに触れるときは、主の皮膚に触れるつもりで」と、老練な侍従が教えた言葉が、場違いなほど鮮明に蘇る。
 ここでそれを思い出すのは、滑稽かもしれない。けれど、役に立つなら、滑稽で上等だ。
 飾りだった手が、いまは役に立つ。役に立つ手は、救いだ。

 鎧の肩の部分を布で磨いていると、扉が音もなく開いた。
 ロウランが立っていた。彼は一瞬、鎧と私の手を見比べて、目を細める。
「……なぜ、それを」
「婚約者教育の一環です。王妃は、王の装備に触れることもある、と」
 自嘲するような響きが自分の声に混じる。けれど、ロウランはそれを拾わなかった。
 短い沈黙のあと、彼は不器用に言った。
「助かる」
 それだけだったが、私には十分だった。
 「役に立つ」という言葉は、時に褒め言葉ではない。使い勝手のよさだけを指すこともある。けれど彼の言い方には「信頼して重ねる」という温度があった。
 私は布を畳み、手を膝の上で重ねた。
「鎧の継ぎ目の革が乾いています。油を含ませておきます。明日の巡察で軋む音が減るはず」
「任せる」
 会話は短かった。短い分だけ、余白が残る。余白は、安心でもある。
 マリルが戻ってきて、湯の入った器をテーブルに置く。湯気が上がり、指先の感覚が戻っていく。
 部屋の隅で、革の綴じ紐が小さく鳴った。外では、風が壁を叩いていた。何かが始まり、何かが終わる前の、しゃがんだ姿勢の音。

 夜更け。マリルの寝息が、毛布の向こうで静かに上下している。私は窓の外の月の輪郭を指でなぞるように見ていた。
「私は、役に立てる」
 声に出してみる。
「罪人と呼ばれても、ここでならまだ……」
 言葉は小さく、部屋の空気に吸い込まれた。
 王都では、私の価値は名札と同じだった。公爵令嬢、王太子の婚約者、薔薇の令嬢。名札を剥がされた途端、私はただの空きスペースになった。
 ここでは、名札より先に手が動く。目が見て、鼻が嗅いで、舌が塩の味を覚える。
 もう一度、生き直せる。
 その意志が、月の光の下で初めて、自分のものになった。

 ――その夜の後半、私はまだ知らなかった。
 砦の最上段の塔で、見張りの若い兵が望遠鏡を覗き込み、遠方に黒い旗を見つけたことを。
 風に裂ける布の端が見せた紋章は、王都宰相派のものだった。
「なぜ北境に……」
 彼は思わず声に出した。隣の老兵が黙って首を横に振る。
「将軍に知らせるか」
「まだだ。風が強い。見間違いの可能性もある」
 判断は恐れと慎重の境目で揺れ、結局、報告は朝まで保留された。
 砦は静かだった。静けさは、嵐の前にだけ現れる特殊な種類の静けさで、耳を澄ませば、空気が自分の形を忘れかけている音がした。

 翌朝、砦の中庭は昨日より少しだけ温度が高かった。暖炉の煙が真っ直ぐ立ち上がらず、途中でふわりと緩む。
 朝の点呼の後、ロウランが配置確認をしている間、私は調理場に回った。
 鍋の縁には白い筋が残っている。指でこすると、濡れた爪の下に塩の粒が溜まる。味見をさせてもらうと、塩気の角が丸い。海塩の丸さだ。
「岩塩はありますか」
 調理場の女が首を振る。
「ずっと海塩ですよ。王都の倉から来るのは、こればかりで」
 言いながらも、彼女は私の目を真っ直ぐに見なかった。見ないのは罪ではない。生きるための癖だ。
 私は礼を言って戻り、倉庫横でロウランに報告した。
「調理場も海塩です。王都の倉のまま」
「わかった。……兵站官に、倉庫の鍵を」
 鍵はすでに私たちの側にある。けれど、鍵よりも重要なのは、開ける意志を誰が持つかだ。

 午前いっぱいを使って、倉の棚卸しが行われた。兵たちは順番に俵を担ぎ、残量を声に出して読み上げる。数字は声になると、紙の上より正直になる。
 床板の二重底から出した小樽は、印を写し取って封緘した。王都の商会に問いただすのは、今はまだ先だ。問いただす相手が、問いに答える用意をしていないとき、こちらの正しさは武器にならない。
 兵たちの間には、相変わらず不安がさざめいていた。
「これを掘り返したところで、誰が守ってくれる」
「正義は飯にならない」
 言葉は正しい。正しいことは大抵、寒い。
 私はひとつずつ目を合わせ、言った。
「守るのは、私ではありません。ここに立つ、皆です。……でも、私も立ちます。立って、名前のないものに名前をつける。隠された穴に手を入れて、何が入っているか確かめる。それが怖ければ、一緒に怖がります。だから、逃げるときも、きっと一緒です」
 すると、笑い声がひとつ、砦の空気に軽く跳ねた。
 笑った兵は、肩をすくめて言った。
「奥方殿、逃げるときは俺が先に逃げます。背中は、頼みました」
 冗談は、恐怖の角を少し削る。削れた欠片が、足元で音を立てて転がる。

 午後、砦の外壁沿いを歩くと、風が石を撫でる音が耳の近くで鳴った。現実が近づく音だ。
 歩哨の脇を通りすぎ、私は砦の中庭に戻る。ロウランが副官と何やら図を交わしていた。
 彼の前に立つと、彼はわずかに顎を動かして、私に注意を向ける。
「倉の件は、いったん封じた。王都へ送る文は、俺の名で発する」
「ありがとうございます」
 今日、何度目かの礼。そのたび、礼の意味は少しずつ違っていく。同じ言葉でも、中身は同じではいられない。
「……それから、部屋の鎧。革はどうだ」
「油を含みました。しばらくは軋みも減ると思います」
 ロウランは短く頷く。「助かる」
 また、その言葉。
 その言葉に、私は救われ続けている。

 夕刻。空気はさらに緩み、雪の表面から微かな水の匂いが立った。
 食堂では簡単な夕餉が配られる。干し肉の煮込み、硬いパン、熱い茶。海塩の角がやはり丸い。丸い味は、飢えた身体には優しい。優しさはときに鈍さでもある。
 マリルが私の向かいに座って、パンを割り、半分を差し出す。
「お嬢様、今日はよく食べてください。明日はきっと、もっと寒い」
「そうね」
 短い会話のあと、静けさが戻る。
 私はパンの欠片を噛みながら、今日の記録を頭の中で再びなぞった。数字の列、塩の粒度、床板の軋み。手帳は昨夜、矢で半分失われた。けれど残った半分に、今日のことをすべて書くつもりだ。
 仮にまた燃やされたとしても、私の身体が覚えている。匂いも、音も、指の腹に残った粉の感触も。
 記録は、私だけの剣だ。

 夜。部屋の暖炉に火が入ると、石の壁の冷えがやわらぎ、眠気が急に重く降りてきた。
 マリルの寝息が静かに整っていく。私は手帳を膝に置いたまま、窓の外の暗さを眺める。暗いという事実が、やけにくっきりと目に入る夜がある。今日がそうだ。
 明日、なにが起こるのか。
 わからない。
 だからこそ、私は今日の終わりに「わかる」ものを書き留める。
 私はここにいる。
 私は、役に立つ。
 私は、逃げない。
 たったそれだけの言葉でも、眠りの前には充分だ。

 ――翌朝になって、塔の見張りの報告が上がった。
 黒い旗。宰相派の紋章。
 報告を受けた副官は一瞬ためらい、すぐにロウランの元に向かった。
 私はその時、調理場で湯を分けてもらっていた。塩の匂いは今日も濃い。
 砦は静かだった。静けさの奥に、遠いところからくる靴音のようなものが、もう聞こえていたのかもしれない。
 嵐の前の、息。
 胸の奥で、誰かが深呼吸をする音がした。
 それが、自分自身の音だとわかるまで、ほんの少し時間がかかった。