夜明け前、王都北門の石造りのアーチが、灰色の空を切り取っていた。雲は低く垂れこめ、空気は刃物の背のように鈍く冷たい。馬の鼻先から白い息が規則正しく吐き出され、その湯気が、薄く明るみはじめた空に溶けていく。
 門の内側には護送隊の列。騎兵が八。輜重車が二。雪に軋む音と、革と金具の触れ合う乾いた音。小走りの斥候が往復しては隊長に合図を送る。
 その中心で、黒い外套の肩に霜を載せながら、ロウラン・ファルクナーは北を見ていた。灰青の視線は一点に固定されているわけではない。雲の流れと、遠くで風が谷をなでる音、雪の粒が足元でどれほどの圧で潰れるか――いくつもの小さな事象をひとつの線に束ねて、彼だけが知る地図に描き直しているようだった。

 私は輜重車の荷台に乗っていた。手枷は外されたが、腰の帯に薄く刻まれた封印紋が冷たく、肌に押し花のように張り付いている。うっかり指で触れると、冬の水に指先だけを浸したときのような痛みが走る。
 マリルが震える手で私の外套のボタンを留め直してくれた。彼女の指先はささくれだって、私のボタンと違って、完璧ではない。でも、その不完全さにだけ信頼できる温度が宿っている。
「寒くないですか」
「ええ。大丈夫」
 私の声はいつもより低く、少し乾いて聞こえた。心も乾いて、軽くなったのだと思う。軽くなったものは、風に煽られてどこへでも飛んでいってしまう。飛ばされないように、私は膝の上で手を重ねた。

 荷台の隅に、古い皮表紙の地図が押し込まれていた。半ば紙魚に食われ、角は毛羽立っている。気づかれないようそっと開くと、北境の地形線が、針のような山脈と絡みあっていた。
 王都で見ていた新しい地図の印と、目の前の古軍道図の印は違っていた。補給所の位置が、わずかずつ内陸へと寄っている。関税所も、峠の名前も、馴染んだ音のいくつかが消えて、新しい、口の中でうまく転がらない音が書き込まれていた。
(動いている……)
 地図の上では何も動かないはずだ。けれど、帳簿は動く。人の意図も動く。私は新旧の地図を頭の中で重ね合わせ、相違の縁だけを光らせていく。そこに浮かび上がるのは補給路の改竄――あるいは、誰かの利のための路の付け替え。
 馬がいななく。列がのろのろと進みはじめる。世界が、ゆっくりと北へ動き出した。

 北門の前で兵のひとりが、肩越しに私を見た。目があったのは一瞬だったのに、ひどく長く感じられた。
「罪人令嬢さまは鼻も高ぇな。北風で折れねえといいが」
 笑い声がいくつか、雪の上に落ちた。
 私は応じなかった。応じるべき言葉の形は、喉の奥にありふれた棘のように浮かんだが、飲み込んだ。舌にじわりと苦みが広がる。代わりに私は、息だけを整えた。馬の歩幅に合わせて、荷の重心が左右にずれないように。車輪の揺れがひどくなる一瞬前には、身体をほんの少し右へ寄せる。
 ロウランは何も言わなかった。兵を止めることも、私を庇うことも。けれど、私が罵声ではなく空と地図を見ていること、その小さな調整の連なりに気づいたのは、彼だけだったのだと思う。列が城壁の影を離れるころ、副官のハーゼンに低くひとこと伝える声が耳に届いた。
「峠の前で休む。風が変わる」
 風が変わる。言葉は天気の報せのように簡単だったが、そこには雲脚と視界の透明度、雪の粒の粗さの計算が入っている。シャンデリアの真下で生きてきた私は、こういう精度を知らなかった。知らなかったものに、なぜだか救われることがある。

 王都の屋根はしだいに低くなり、やがて背丈ほどの低木が続く雪の原に道は出た。雪は思っていたほど白くなく、ところどころ灰色の膜をかぶって、風に細く削られていた。私たちはそれを噛み砕くように進んでいく。
 斥候の片方が戻ってきて、手の甲で額の汗を拭った。
「峠道、白くて固い。轍は薄い。風が北西から下りてる。昼までに越えたい」
 ロウランが短く頷く。
「古軍道に入る。王道はやめだ」
 ハーゼンが目を丸くした。「王道なら距離は半分ですが」
「補給点が多いのは古軍道だ。王道の補給は“誰か”が見ている」
 副官はそれ以上問わなかった。ひとつの決断に、いくつの証拠が折りたたまれているかを、彼は知っている顔をしていた。

 午前が深くなるにつれて、空は粉をまいたように白濁し、遠くの丘の縁がぼやけた。雪は踏むたびに、疲れたため息のような音を出す。
 私たちは峠の手前の、風が巻く窪地でいったん止まった。休憩というより、姿勢を正すための短い溜め息だった。馬の鼻面に凍りかけの水を押し当て、飴色の汗を布で拭う。私は荷台を降りて、荷のロープの締め直しを手伝った。指先がかじかんで、結び目を作るのにいつもより時間がかかる。
 兵たちは私を見もしない。見ない代わりに、聞こえるように言う。
「王都なら魔導士のひとりもつけたろうに」
「こんな“飾り”ひとり守るために寄り道とはな」
 飾り。私は胸の奥で褪せた赤の花を握り潰す。私はもう飾りではないし、飾りであったとしても、道を踏み外した飾りは刃になれる――私はそう思いたかった。

 峠にかかりはじめたとき、雪の上に黒い裂け目のような影がした。最初は自分のまつげが作った影かと思った。違った。
 斥候の一人が駆け戻り、息を荒くして言う。
「狼……に見えたが、顎が二つある。音に寄る」
 双顎狼――ツイン・メイル。群れで包囲し、蹄音に誘われて突っこむ習性。北境の古い記録の片隅に、その名だけ読んだことがある。
 兵のひとりが舌打ちし、「罪人を置いて逃げりゃいい」と笑った。笑いというより、恐怖の行き場を探す音。空気が崩れかける。崩れた空気は凍えるより早く人を殺す。
 私は荷台の縁に手をかけ、身を乗り出した。古軍道図の線を頭に浮かべ、目の前の尾根の線をそこに置く。風。煙。雪庇の癖。――三つの提案が、舌の先に降りてきた。

「火を――」
 私の声は、自分の耳にも頼りなかったが、落ちる先はわかっていた。「あの尾根筋。矮松が帯になって残っています。雪庇は厚いけど、火は走らない。煙は風に乗って、あちらに流れる。視界を奪えます」
 ハーゼンが私を振り返る。瞬間、私は恐れた。言い終わる前に遮られるのが怖かった。けれど、そうはならなかった。
「退避は……逆走しないで。半月です。左の凹地に沿って。雪が浅くて傾斜が穏やか。荷が軽く弾む。馬車をロープで繋いで、転倒を防いで」
 誰も笑わなかった。私の喉の奥の震えより、距離と角度と時間の値の方が先に届いたのだと思う。
「それから――音。車軸の心棒に金属の欠片を結んで。規則的に打たせれば、奴らは音の中心を誤認します。偽の心臓を作るんです」
 息を吸う音の合間に、ロウランの低い声が重なった。
「採用だ。火点は三つ。俺の合図で点火。護送車は半月陣。転倒防止、ロープで連結。斥候は側へ回り込み、足腱を切れ。……行け」
 副官の命令が雪に弾け、兵たちの動きが一斉に流れを変える。舌の上で氷砂糖が解けるように、体のうちに凍りついていた恐怖の塊が小さくなった。

 最初の一頭が音を破るように現れた。白い斜面を滑る影。顎が二つあるというのは、比喩ではなかった。上と下、互い違いに並ぶ歯列が、雪の破片を噛み砕きながら近づいてくる。
 ロウランは馬から跳び降り、短槍を一歩で突き上げた。刃先が喉の柔いところを正確に射抜き、血の黒が雪に爆ぜた。斥候が左右から足の腱を切り、最初の個体は沈む。続く二頭目は煙に惑い、三頭目は音の中心に吸い寄せられ、空を噛む。
 火点に火が走る。乾いた矮松がぱちぱちと高い音を立て、黒い煙は風に乗って、谷へ、狼たちの目へ、私たちの呼吸の隙間へと流れ込む。
 輜重車の羊皮の覆いに火の粉がかかった。私は叫ぶより早く、マリルが水袋を叩きつけ、火はじゅう、と鈍い音を立てて消えた。
「左、間隔を狭めて! 輪にならないで、弧です――半月を保って!」
 自分でも驚くほど、命令の語尾はぶれなかった。情けないことに膝は震え、指は冷えでうまく動かなかったのに、声だけが、誰かから一時的に借り受けた道具のように、目的通りに働いた。
 数頭を斬り払い、煙の壁が濃くなると、群れはあっけなく退いた。音が遠ざかるのと同時に、私の耳鳴りが戻ってきた。自分の心臓の鼓動が、少しの間だけ、世界の心臓の鼓動と重なっていたのだと思う。
 被害は軽微。だが馬が一頭、右前脚を痛めた。

 戦闘の後には、必ず静寂が寄ってくる。雪が音を吸い、焚き火のはぜる音だけが空気に残る。
 ロウランは手短に戦果を確かめ、血のついた槍先を雪に押し当てた。私は負傷馬の腿に触れ、冷たい雪と布で圧迫をして、蹄鉄の縁を目で追う。
「……釘の角度が揃っていない。雪を踏むたびねじれてます。次の休憩で打ち直したほうが」
 副官が目を丸くした。「そんなところまで見えるのか、奥方……いや、エリシア殿」
 奥方――その呼び方は、まだここには早い。わずかに私は首を振って、言葉の先を飲んだ。
 指が冷たく、わずかに震えはじめる。歯の根が合わない。私は舌の根でそれを押さえようとしたが、おそらく震えは目にも見えていたのだろう。ロウランが無言で外套を脱ぎ、私の肩にかけた。革と樹脂と鉄の匂い。
「礼は要らん。体温の維持が最優先だ」
 礼を言おうとして、やめる。代わりに問う。
「どうして王道を通らなかったのです」
 彼は短く答えた。
「王道の補給は“誰か”が見ている。古軍道は、地図に残っていない橋脚が多い。壊されにくい」
 壊されにくい。物語の中でこの言葉に出会っていたら、胸を刺すはずだった。いまは、胸の奥の、すでに何度も刺された場所のそばに、黙って置かれるだけだった。
「補給路を壊す者が、王都側にいる――そう見ておられる?」
「辺境に来ればわかる」
 簡潔さは、彼の癖であり、私の救いでもあった。自分がいま持っていない語彙を、他人の沈黙が埋めてくれることもある。

 凹地に焚き火がいくつも灯り、輪になって兵たちが座った。見張りは二交代。氷点下の空気が、火のはぜる音を大きくする。乾パンを割り、マリルと半分ずつ分ける。私の歯はまだほんの少し震えて、それがパンに当たって細かい粉をこぼした。
 私は膝の上に小さなメモ帳を置いて、今日の地形と風の記録を走り書きした。王妃教育の筆ならしで覚えた無駄にきれいな字は、寒さで少し崩れて、むしろ本当の線に近づいた。
 巡回の足音が近づく。ロウランが私の横で立ち止まる。火の光で、彼の影が私の手帳の端に落ちた。
「記録か」
「ええ。今日見た風は、昨日の風と違っていました。北西が強くなっている。谷を削る音が、少し低くなった」
「低い音は長い谷だ。吹き下ろす幅が広い」
 短い応答は、会話というより、図と図の突き合わせだった。私は思い切って踏みこむ。
「ロウラン将軍。王太子殿下の側近と宰相派、どちらも北境の塩運用に関与しています。王都の新しい地図では補給所の位置が“帳簿上だけ”動いていました。私の家に残っている旧図では、別の場所です。今日の峠も、正規の補給点には“跡”がない。荷車の轍も、焚火の跡も。補給は別の倉から行われている。台帳上は王道、実際は古軍道沿い。……そこで塩が横流しされているのでは」
 ロウランの眉が、ほんのわずか動いた。
「仮説としては筋が通る。証拠は」
「倉庫に残るはずの、塩の結晶の粒度。海塩と岩塩では付着の仕方が違います。北境の倉なのに、王都河港の海塩の粒が多ければ、不自然」
 私が知っているのは、教本と厨房の二階部分の間にある、ほんの小さな世界の理屈だ。けれど、それは確かな匂いを持っている。塩の匂いは、どこで嗅いでも塩の匂いがする。
 ロウランは火の粉を指で払った。
「……明日、砦に着いたら倉庫を見よう」
 短い言葉が、氷の上に刻まれて、音もなく凍る。肯定は、長い演説よりも短い方が強い。私はようやく息を吐いた。吐いた息の白が火に溶ける。

 マリルが寝床を整え、私の肩にさらに毛布を重ねてくれた。彼女が離れていくと、焚き火の向こうで兵たちが笑い声を立てる。遠い笑い声は、敵意よりも普通の音だった。
 外套の匂いに、ふと気がつく。鉄と樹脂と冷たい革。血と汗の酸味の奥に、動物の体温みたいな残り香。
 今朝までの世界では、私は装飾品のような存在だった。手を触れるたびに、誰かが拭い、磨き、置き直した。落ちないように。傷つかないように。
 いま、私の言葉と判断が、命と隊を動かした。私の手は、馬の脚に触れ、釘の角度を数え、火の色合いを測った。
「……役に立てましたか」
 自分でも、どうしてそんなことを問うのかわからなかった。承認が欲しいわけではないのに、言葉は出た。
「さっきの半月陣は良かった」
 ロウランはそれだけを言った。足りない。けれど、足りないものがある方が、私は安心する。
 氷のような心の表面に、ひびがひとつ入った。ひびの縁は痛む。けれど、その痛みには血の温度があった。私は慌てて顔を背け、滲んだ涙を親指で押さえた。泣き顔を見せたくない自尊心は、まだ残っていた。残っていてよかった。

 夜半。封印紋がいきなり冷たく疼いた。皮膚の下の、細い骨だけを摘まみ上げられたみたいに、深く、嫌な痛みが走る。歯を食いしばる。吐息が歯の隙間から洩れて、白がこぼれ落ちた。
 ロウランが気づき、外套の上から私の腰に手を当てる。熱を留めるような、ただそれだけの圧。
「朝一番で符医に見せる」
「……ありがとうございます」
 痛みが去るのを待つ。封印紋は、王都の“再拘束”命令が出たときに反応する――そんな仕様を、私は知らないはずなのに、身体が先に知っている。身体は、否応なしに、言葉より早く世界と契約させられる。
 火が小さくなっていく。空はさらに低くなる。眠りは浅く、雪に埋められる直前の音のように、簡単に崩れた。

 見張りの兵が北西を指さしたのは、まだ夜明け前、交代の刻だった。
「……煙だ」
 遠く、黒い狼煙が細く天へ。風に引き延ばされながら、針のようにまっすぐ上がる。
 隊の空気が、弦を強く張りすぎたときのように、ぴんと張りつめる。
 ロウランは地図を広げ、狼煙の位置に指を置いて、口早に三つの可能性を挙げた。
「砦外縁の監視小屋からの救援要請。密輸人の合図。……“古い習俗狼煙”――魔群の移動の知らせ」
 私は風向と、先ほどの双顎狼の退却の方向を頭の中で合わせた。
「三つ目が高いと思います。風は北西。狼の退却は南東。煙は風上に逆らって立ち上がってます。意図的に、誰かが――」
 言い終わる前に、ロウランが頷いた。
「明朝、斥候だけを出す。隊はこのまま移動。古軍道の“唄う橋”を渡る」
 唄う橋。強風で鳴る古い木橋。地図の上でしか知らなかった名前が、目の前の空気に乗る。地名が声帯を通るとき、地形が喉を通っていく感じがする。私はその感覚を忘れないよう、胸の中に折り目をつけた。

 空が薄く白んできた。氷原の縁で、世界がゆっくりと色を取り戻す。交代の兵があくびをしたそのとき、闇から一本の矢が飛んだ。
 矢は輜重車ではなく、私の手元を正確に狙っていた。紙が裂ける音が、焚き火のはぜる音と重なって、やけに大きく聞こえる。メモ帳の束の半分が空へ解け、数枚が炎に落ちた。火は躊躇なく、ペンの跡を舐め、黒に変えた。
 ロウランが即座に身を翻し、矢を叩き落とした。副官が追撃をかけたが、足跡は風に紛れて消えた。
「“観ている”者がいる」
 ロウランの声は低かった。怒りよりも、確認の色が強い。
 私は震える指で、残った頁を抱えた。焼け残った縁は、雨に濡れた花びらのように波打っている。
「……必ず記す」
 自分に言い聞かせるように、声に出した。記録は、私だけの剣だ。剣を奪われることは、ここで死ぬことよりも怖い。
 東の空が白む。氷原の向こうに、北境砦の尖塔の影がうっすらと立ち上がる。尖塔は、夜の背骨のように細く、まっすぐだった。
 私たちはそこへ向かう。
 私の記す言葉も、そこへ向かう。
 そして――世界のひずみもまた、そこへと集まりはじめていた。