決戦の朝から、指折り数えて四日が過ぎた。
 砦の石壁にまとわりついていた煤は半分ほど剝がれ、雪はまだ硬いのに、日向では薄い膜のように光って融け始めていた。焚火の香りと薬草の匂いが風の筋に交じり、ときどき遠くの谷からは融雪水の細い音が届く。戦の音は少しずつ薄くなり、代わりに生活の音が戻りつつある――鎧の鋲を留め直す小槌、子どもの笑い声、馬の鼻息、湯気の立つ桶に浮かぶ布の白。
 その朝、門楼の見張りが号笛を吹いた。王都の紋章旗を掲げた騎馬が、雪面に細長い影を引きながら近づいてくる。

 使者は若い官吏で、慎重に言葉の角を丸める癖があった。
 「王命を伝える。王太子セドリック、失脚。王位継承の再審、行うべし。宰相派、兵糧横流しおよび反逆の罪により……処断」
 最後の二音が、冷たい空気に短く跳ねて消えた。
 広場の端から歓声が湧く。誰かが帽子を放り投げ、誰かは槍の石突で石畳を鳴らした。笑い声は雪に弾かれて高く、涙は湯気のように見えて、触れる前に空に消える。
 私はその渦の少し外側に立って、目を閉じた。
 「ようやく……私の無実が、国に認められた」
 声に混じったのは、安堵だけではなかった。長いものを抱えて歩いてきた肩が、今さらゆっくり痛みの形を思い出している。
 マリルが後ろから抱きしめ、頬に軟らかく当たる髪が香る。
 「お嬢様……やっと」
 「ええ、やっとね」
 ひとつ息を吸うと、薬草の匂いが胸に広がった。

 それから二日後、正式な布告が届いた。厚手の羊皮紙、鮮やかな封蝋、王家の型。
 ――エリシア・レイバック、すべての罪を免じ、家名と爵位を回復する。
 読み上げる官吏の声は、よく練られた旋律のように滑らかだった。
 「おめでとうございます、奥方殿!」
 「白薔薇様、これで……!」
 兵たちが口々に祝辞を述べる。飾り気のない言葉は温かい。
 一方で、王都からは矢継ぎ早に書簡が積み上がった。かつて私から顔を背けた家々の印章が、今度は競い合うように赤い花を咲かせる。
 ――心よりお慶び申し上げます。
 ――先般の非礼、誠に……。
 ――王都へお戻りの折には是非に。
 彼らの言葉は、春先の薄氷みたいに美しく、軽く、指先でたやすく割れてしまう。
 「彼らの言葉に、意味はないわ」
 私は羊皮紙の束を一つずつ重ねながら、静かに言った。
 「私が欲しかったのは、“真実を認める目”だけ」
 マリルが目を赤くしながら頷く。
 「でも、それがいちばん難しい目でした」
 「ええ。だからこそ、きっと価値があるの」

 そして王宮から、もうひとつ提案が来た。
 ――王都に戻り、王妃候補として再び宮廷に仕えよ。
 失脚した王太子の代わりに新しい王位候補が立ち、その花嫁として迎えたいのだという。
 「奥方殿が……王妃に?」
 若い兵たちがどよめく。笑いを含んだ羨望と、どこか寂しげな音がまじる。
 私は首を振った。
 「私はもう、誰かの飾りにはならないわ。――私の居場所は、ここ。北境です」
 石の広場が、風に撫でられる前の麦畑みたいにざわりと揺れた。
 ロウランが少しだけ目を細める。灰青の瞳の奥で、何かが静かにほどけていく。
 「……そう言うと思っていた」
 彼の口元がわずかに緩むのを見て、私の胸は痛みと温かさの両方で満たされた。

 夜、火の気のある広場に兵と民が集まった。黒い空に星がいくつも針で開けた穴みたいに瞬いている。
 ロウランは一歩前に出て、周囲を見渡した。
 「これまでの婚姻は――契約だった。彼女を守る盾であり、証としての婚だ」
 私は頷いた。
 「はい。私も、そう理解していました」
 言葉を置いたその次の拍に、彼は片膝をついた。剣を地に置き、手袋を外す。灰青の瞳がまっすぐに私を見上げる。
 ざわめきが雪に吸われ、広場の空気が一段低く澄んだ。焚火のはぜる音だけが、小さく規則を刻む。
 「だからこそ――改めて誓いたい」
 彼は低く、静かに続けた。
 「今度は契約ではなく、俺自身の心として」

 その場にいた全員の胸が、同じように強く打つのがわかった。
 ロウランは言葉を探すのではなく、すでに持っている言葉を取り出す人だ。刃物を抜くみたいに、余計な飾りをつけない。
 「エリシア」
 私の名が、彼の声で形を持つ。
 「お前の強さも、弱さも、すべてを共に背負いたい。妻殿ではなく――俺の妻として、隣に立ってくれ」
 思い出す。
 王都の広場で辱めを受けた夜の冷たさ。
 北境で初めて鐘を鳴らした日に、掌に刻まれた縄の繊維の痛み。
 彼の名を初めて呼んだ決戦の朝、雪の上に倒れ込む巨獣の影と、彼の灰青の瞳。
 戦争の音、沈黙の重さ、塩の手触り、風の匂い――それらがゆっくりと流れ合って、私の胸の真ん中に一つの形をつくる。
 「……はい」
 声は驚くほど静かに出た。
 「私はもう、逃げません。――ロウラン、あなたと共に生きたい」
 その瞬間、広場の空気の温度が上がった。誰かがすすり泣き、誰かが笑い、誰かが帽子を振り回す。音は混じり合い、夜の硬さを柔らかくした。

 ロウランは立ち上がると、懐から細い布を取り出した。布に包まれていたのは、指輪――というには粗い、しかし確かな重みを持つ輪だった。
 「これは……?」
 「鐘の舌の破片を鍛ち直した。あの朝、戦場を繋いだ音の欠片だ。鍛冶をやる老人兵がいてな。塩の粒をひとつ、鋼の肌に埋めた」
 指にはめてみると、金でも銀でもない鈍い光が、焚火の赤を吸って小さく返す。触れたところに冷たさがあり、その下に遅れて温かさが来る。
 「重いわ」
 「守る重さだ」
 彼は、私の左手に指輪を押し込むようにつけ、次に自分の手袋の縫い目をほどいた。革紐を二つに裂き、簡素な結び目をふたつ作る。
 「俺のほうも、同じだけ重い」
 彼の指に通されたのは、鐘の破片から削ったもうひとつの輪。ふたつの円は、金属の親子のように同じ質感で、お互いの光をほんの少しだけ分け合った。

 「将軍と白薔薇に栄光を!」
 「お二人に祝福を!」
 鬨の声が、北の空に立ち上がる。星がたくさん瞬いて、いくつかが音もなく流れた。
 ロウランが私の手を取る。
 触れられると、手のひらの古い傷が、もう別の意味を持つ。
 公衆の前で、彼はまっすぐに、しかしゆっくりと私の額に口づけを落とした。
 額は、嘘が乗りにくい。額への口づけは、背骨に届く。
 「……妻」
 彼がそう言い、私は笑う。
 「ええ。夫」
 雪明かりが薄く私たちを照らし、焚火の赤が夜の端を温める。
 その夜、誰かが持ち出した楽器の音が久しぶりに砦の中庭に流れ、兵たちはぎこちない足取りで踊り、子どもたちは転んでは笑い、マリルは涙を拭きながらも誰より忙しく湯とパンを配った。ハーゼンは初めて見るくらい大きな声で歌い、ケインは照れ臭そうに私とロウランに敬礼して、すぐに仲間に背中を叩かれていた。
 「……ねえ、奥方様」
 マリルが小声で囁く。
「もう“奥方様”で合っていますよね?」
 「ええ、たぶん。――でも、マリルにとって私はずっと“お嬢様”でしょう?」
 「もちろん」
 ふたりで笑っていると、私の方へ小さな握り拳が突き出された。
 「白薔薇さま!」
 子どもだ。戦の間、厨房で芋を洗う手伝いをしてくれた小さな少女。
 「なに?」
 「白いおはな、見つけたよ」
 少女が指差す先、雪の縁から顔を出したのは、白薔薇の小さな蕾だった。灰のなかの白。冬のなかの春。
 「……ほんとうに、咲くのね」
 「ええ。咲くわ」
 私の声は、自分で思っていたより柔らかかった。

 祝宴の片隅で、私はひとつの手紙を開いた。父からだった。短い。
 ――エリシアへ。
 ――私は国王の前でお前を守れなかった。家名のためだと自分に言い聞かせた。今、それがどれほど卑小な言い訳だったかを、ようやく知る。
 ――赦されると思って書いているわけではない。ただ、父として恥を記したくなった。
 ――北の風は強いと聞く。身体を労れ。
 書き慣れた筆跡が、最後の一行だけ少し乱れていた。
 私は紙の端に指を当て、目を閉じ、しばらく風の音を聞いた。赦しは誰かに与えるものではなく、いつか勝手に訪れる水位のようなものだと、どこかで知っていた。今夜はただ、紙を丁寧に折り、懐にしまう。
 いっぽうで、王都の噂は、遠い焚火の煙みたいに届く。
 リリアナは、誰にも招かれない小さな茶会を開き、昔の友人の名を何度も口にして笑ってみせるが、その笑いが誰の耳にも届かないことに、ようやく気づき始めたらしい。
 セドリックは邸で軟禁され、鏡の前で自分の肩章を何度も付け替えては、似合わなくなった色のことを考えているという。
 彼らの名は、夏の終わりの蜂のように、ふと耳を掠めても刺さない。やがて、遠い地平の霞の中へ溶けていく。

 翌日、私はロウランとともに、戦没者の仮の墓標を巡った。
 雪の上に並ぶ木札は、風に叩かれて角が丸くなっている。名前のある札、ない札。
 ひとつひとつに、塩をひとつまみ。
 塩は嘘をつかない。
 「ありがとう」
 言葉が白く出て、すぐに消える。消えても、言わなかったことにはならない。
 ロウランは黙って佇み、やがて私の肩に外套をかけ直した。
 「王都へ戻る日取りは?」
 「三日後。軍法会議は公開だ。……勝ちに行く法だ」
 「私たちの仕事は、真実を広場に届ける時間を稼ぐこと」
 「剣と、鐘と、紙でな」
 ふたりで微笑む。
 「戻ってきたら」
 「ええ。戻ってきたら」
 言葉の続きを、風が持っていく。言えなかった言葉は、刃の背だ。刃の背がなければ、刀は鞘に収まらない。

 王都との往復は、もう旅ではない。役目だ。
 公開された軍法会議では、塩の粒と帳簿の記号が、貴族の言葉よりも重かった。ロウランが剣の代わりに紙を掲げ、私は鐘の代わりに声を打った。
 ――北境の倉に残された海塩。
――王都の台帳改竄。
――黒薔薇紋章の腕章。
――贈収賄の金流。
 判事の槌が石の台を打ち、王太子の権限は正式に停止、宰相派の罪状は読み上げられた。人々のざわめきが、冬の風ではなく春の風の音に近づいていく。
 会議の最中、私はふと、壇上の窓から差す光の角度に目を止めた。王都の光は真っすぐで、北境の光は斜めに入る。どちらが正しいということではない。ただ、私の心が置かれるべき角度は、もう知っている。

 砦に帰ると、雪の輪郭は明らかに薄くなっていた。石壁の蔭から芽吹いた草が柔らかく空気を押し上げ、白薔薇の蕾はまだ固いが、確かに少し膨らんでいる。
 「ここが、私の居場所」
 私は独り言のように呟き、蕾に指を近づけた。冷たさの向こうで、柔らかな湿り気が指先に移る。
 ロウランが隣に立ち、静かに手を重ねた。彼の手は大きく、硬く、しかし熱かった。
 「これからは二人で、この地を守ろう」
 「ええ」
 「剣が必要なときは剣で。紙が必要なときは紙で。塩が必要なときは塩で」
 「そして、言葉が必要なときは、言葉で」
 ふたりで短く笑う。
 笑いは長くつづかない。けれど、雪どけの音みたいに、確かに春を連れてくる。

 私はロウランに頼み、古い倉の一角を借りた。そこに机を置き、北境の風と地形と人の動きの記録を書き始める。
 風は嘘をつかない。
 塩は嘘をつかない。
 数字は、ときどき嘘をつきたがるけれど、嘘をついた数字は、風と塩にすぐ見破られる。
 マリルは机の横に小さな湯沸かしを置き、薄い茶を淹れてくれた。
 「お嬢様の薄茶、私は好きです」
 「誰も褒めないから?」
 「私が褒めます」
 「なら、もう充分」
 湯気の上に、春の匂いがかすかに乗る。鉄と樹脂と革の匂いに混じって、土と草の匂いが増えていくのがわかる。

 夕暮れどき、砦の門を、旅の商人たちが再び通り始めた。背の高い男が背負子を降ろし、手拭いで額を拭きながら笑う。
 「北の白薔薇様と氷刃将軍の居る砦だって? そりゃあ商いも安心だ」
 「呼び名はほどほどに」
 「へいへい。でもね、お客を呼ぶには花が要る」
 男はそう言って、布の包みから白い粉をひとつまみ取り出した。
 「塩かしら」
「砂糖でさ。南の港町で採れた。春の菓子にゃ欠かせない」
 私は笑った。
 「なら、春は甘いのね」
 「ええとも。冬をくぐった舌には、なおさら」
 商人の足取りは軽く、背負子の紐は食い込んでいるのに、肩は高く上がっていた。人は、希望を背負うと姿勢がよくなる。

 夜、寝台の上で私はしばらく眠れなかった。
 ロウランの寝息は静かで、規則正しく、時折、昔の戦の夢の気配がかすかに滲む。私は屏風を回り込む代わりに、彼の額に手をかざす。熱はない。
 「もう大丈夫」
 囁く声は、あの日と同じで、別の言葉に変わっている。
 「いっしょにいるから」
 彼が半ば眠ったまま私の名を呼ぶ。
 「……エリシア」
 「なあに」
 「明日は、村の橋を見に行こう」
 「ええ、唄う橋」
 橋は風で鳴る。風は季節の一歩手前を、こっそり教えてくれる。
 「それから」
 彼は言いかけて、眠りのほうへ落ちた。
 私は指輪を親指でなぞる。鐘の舌の破片は冷たく、冷たさの奥で遅れて温かい。
 眠りはついに私にも降りてきて、雪の上に柔らかい毛布をかけるみたいに、静かに背に乗った。

 朝。
 砦の外へ出ると、雪どけ水が浅い溝をつくって流れていた。小石がその流れの底でころんと転がり、ときどき陽に透ける。
 唄う橋は、相変わらず風で歌った。冬の歌より半音高い。
 ロウランは橋板の継ぎ目を点検し、私は手摺りの苔の色を確かめる。
 「この橋、あなたに似てる」
 「俺に?」
 「強くて、古くて、風で鳴るところが」
 「古いは余計だ」
 ふたりで笑う。
 笑い声に驚いた鳥が一羽、雪の陰から飛び立ち、空の青を横切った。
 その青は、王都の青とは違って、少しだけ硬い。だからこそ、割れにくい。

 白薔薇の蕾は、その日の昼過ぎに、とうとうひらいた。
 花弁は薄く、指先で触れると破れてしまいそうで、しかし実際には驚くほど強い。風がひとつ吹けば、すぐにまた形を整える。
 私はしゃがんで花を見た。
 「ここが、私の居場所」
 ゆっくりと口にすると、言葉が土に染み込むのがわかる。
 ロウランが隣に膝をつき、土の匂いを吸った。
 「俺の居場所でもある」
 「ええ」
 「ありがとう」
 「なにに?」
 「北を選んでくれて」
 私は首を振った。
 「北に選ばれたのよ、私たちが」
 言って、ほんとうにそうだと思う。居場所は、選ぶだけではなく、選ばれる。

 「誓いを、もう一度」
 私が言うと、ロウランは笑いを喉におさめ、真面目な顔つきに戻った。
 「剣にかけて」
 「鐘にかけて」
 「塩にかけて」
 「風にかけて」
 ふたり同時に言って、互いに驚いて笑った。
 誓いは、派手な言葉よりも、生活に馴染む言葉のほうが、長持ちする。

 その春、砦の市場に小さな屋台が増えた。蜂蜜の瓶、谷で採れた苔、誰かが焼いた甘い菓子。兵の子が描いた「氷刃と白薔薇」の拙い絵が並び、旅人がそれを土産に買っていく。
 私は時折、机から離れて屋台を回り、小さな欠品と小さな不満と小さな笑顔を同じ重さで拾った。
 「副長殿、これ、どう値をつければ」
 「春は甘い。冬より少しだけ高く」
 そんな会話を交わすたび、冬の裏側にあったものが、少しずつ表になる。
 夜、焚火のそばでケインが新しい歌を覚え、ハーゼンが相変わらず下手な踊りで皆を笑わせ、マリルは少し濃い目の薄茶を淹れ――私はロウランの肩に頭を載せる。
 「この肩、固い」
 「鍛えてある」
「でも、最近はやわらかい寝息をたくさん聞く」
 「お前が、ここにいるからな」
 言葉は短いのに、胸の奥に長く残る。

 風が、砦を抜ける。
 風は嘘をつかない。
 塩は嘘をつかない。
 鐘の音も、嘘をつかない。
 嘘をつかないものたちに囲まれて、私はもう一度、深く息をした。
 呼吸の重さは、心の重さと大抵同じくらい。
 今日の私は、持てる。
 だから――行ける。

 雪どけの街路に、光が斑に落ちる。
 花の色はまだ少ないが、人の顔の色が増えた。
 私は白薔薇の咲く門をくぐり、石畳を踏みしめ、ロウランの掌の温度を確かめる。
 「帰ろう」
 「帰ろう」
 同じ言葉を同じ重さで口にし、同じ靴音で歩き出す。
 背中には、鐘の舌から鍛ち直した指輪が触れ、前には、風で鳴る橋がある。
 そのあいだを、ふたりで埋めていくのだ。
 春の匂いは、まだ薄い。だからこそ、濃くなる余地がある。
 ――雪どけの街路に、二人の未来が開けていく。