夜明け前は、いつもいちばん暗い――そう教えたのは、礼法の師ではなく、北の風だった。
 黒い霧が雪原の起伏をなめ、遠いところから低い唸りが寄せてくる。霧は音を鈍らせるのに、恐怖だけはむしろ輪郭を濃くする。狼のような、熊のような、名づけを拒む四肢。翼の群れが空の半分を塞ぎ、雪面に落ちる影だけがかろうじて形を与える。霜を噛んだ空気は肺の内側まで刺さり、吐いた息が白く、すぐに落ちた。
 その奥、霧のいちばん濃いところから、ひとつの影が山の線を上書きする。古獣《ヴォルカヌス》。角のような枝のような突起をいくつも備え、皮膚は黒曜のように光を吸い、無数の孔が呼吸するたび赤く点いたり消えたりする。踏み込むごとに地は沈み、砦の石壁が内側からぎしりと鳴った。
 「……来たな」
 ロウランの声は低く、短く、外壁の石に吸われて鋭さだけが残った。

 私は砦の上、鐘楼の足元に立つ。夜に熱を与えつづけた焚火の匂いが、霧の湿り気にかき消される。視線を、恐れのほうではなく、人のほうに向ける。
 「恐れるな!」
 声は思っていたよりまっすぐに出た。
 「私たちには知恵と勇気がある。ここを越えさせなければ、民の明日は守れない!」
 兵たちの喉が鳴り、鬨の声が雪に弾かれて返ってくる。怖いのは私も同じだ。だからこそ、理由を与える。理由があれば、人は動ける。怒鳴るのではなく、方向を差し出す。

 鐘の縄を握り、私は合図を待つ。
 風が変わった。南西からの冷たい息が、砦の西壁で渦を巻き、そのまま谷へ落ちていく。矢印が頭の中で一本に揃う。
 一打。
 鐘が鳴る。金属の響きが霧の膜をたわませ、各の持ち場に走っていた兵らの首が一斉に動く。
 火矢が空を走った。油を薄く塗った羽根が雪の鏡に細い線を引き、乾いた矮松の群れに刺さった火は、風に押されて一方向にだけ広がる。煙は獣の目を奪い、肺を焼き、群れの波頭を乱す。
 塩の線が、白い結界を描く。岩塩を粉にしたものを雪に混ぜ、扇状に撒いた帯。黒い霧の底から飛び込んだ獣が、足を取られ、喉の奥で鳴いた。塩は嘘をつかない。伝承は、理屈に変えれば武器になる。
 「副長殿の作戦が効いてるぞ!」
 南の胸壁から、若い兵の声。ケインだ。昨夜、怒鳴らないでくれと言われた代わりに、理由を渡すと約束した若者。
 「――いいわ、そのまま! 左翼、半月の弧を保って! 間隔、腕ひとつ分詰める!」
 私は叫び、鐘の二打目を入れた。音は戦場を縫う糸だ。糸が途切れれば、布は裂ける。

 ヴォルカヌスが、霧を吸い込むようにして前に出た。
 その一歩で、雪原が崩れ、砦の壁石がまた震える。
 ロウランが前へ。灰青の瞳は炎を宿し、刃は冬の川面に置かれた氷の縁のように冷たく光る。
 「俺が前を開く! 続け!」
 氷刃――兵たちがそう呼ぶ所以を、私は何度も戦場の端から見てきた。だが今朝は、その動きに“意地”ではないものが混じっている。意地より深いところにある、守るための怒り。
 彼は波の先端を斬り、折り、また次の尖りを待たずに一歩進んだ。刃は断つだけでない。押し、逸らし、倒れゆくものの重みを利用して次を崩す。背後に続く兵は「氷刃将軍に続け!」と喉を裂く。声は、刃ほど真っすぐには飛ばない。だから私は、声を刃の背に乗せる。

 空が暗い。翼を持つ魔獣が、鐘楼の周りに集まり始めていた。
 「鐘が……止まる!」
 伝令の叫びと同時に、私は梯子を駆け上がる。足裏に雪と霜が瞬時に貼りつき、手のひらの皮膚が縄の繊維に擦れて痛む。
 「奥方様、危険です!」
 マリルが背を支える。彼女の息は速いのに、手の確かさは昔から変わらない。
 「鐘が途絶えれば、戦も崩れるのよ!」
 私が言うと同時に、翼の影が鐘楼の欄干を掴んだ。爪が石を削り、石粉が白い霧になって目に入る。
 兵士がひとり、盾を差し出して私の前に立った。
 「奥方殿を守れ!」
 叫んだのは誰か。声は塩のように、誰の口から出ても同じ味をしている。
 私は鐘縄を引いた。
 一打。二打。三打。
 翼の影が頭上で旋回し、爪が盾に火花を散らす。鐘の音は、恐怖の音を貫いて届く。体の震えは止まらないが、手の動きは止めない。
 マリルが私の腰に縄を回し、鐘楼の柱に結びつけた。
 「落ちても、戻ってきてください」
 「落ちないわ」
 ほんの少し笑って、私はもう一度鐘を鳴らした。

 地鳴りが、鐘の音を下から持ち上げた。ヴォルカヌスが、砦の真正面に近づいている。
 ロウランが一度だけ振り返る。視線が一瞬だけ私と絡み、そのまま前に戻っていく。
 「ここを越させはしない!」
 声は短く、宣言の形に整っていた。
 巨獣の爪が地をえぐり、砦の前で雪が噴き上がる。
 私は鐘を鳴らしながら、塩線の薄いところを探した。塩は均一に撒いたつもりでも、風が作る谷間に偏る。
 「南西側、塩の帯をもう一重! 麻袋、目の細かいほうで!」
 楼下から応答が上がる。ケインが袋を抱え、走る影が雪に深い足跡を置いた。
 「火矢、斜め上! 翼の根元を狙って!」
 私の指示に合わせ、矢羽根の列が一瞬だけ同じ角度を持つ。
 空で火が分かれ、再び集まり、ヴォルカヌスの右の翼にまとわりついた。
 巨獣が喉の奥で音を作る。雪が震える。その隙間に、ロウランが跳んだ。

 刹那、時間の表面が薄く伸びた。
 灰青の瞳が、風より速く、火より冷たく、巨獣の首筋に向かう。
 私は鐘の縄を握ったまま、声を喉に集める。
 「――今!」
 鐘が、全軍の耳の中心に落ちる。
 火が走り、塩が光り、矢が雨になって翼の付け根へ降った。
 ロウランの刃が喉に届き、刃の背で硬い鱗を滑らせて、隙間を見つけて押し込む。
 ヴォルカヌスの咆哮が雪原を裏返し、空の翼たちが一瞬だけ乱れた。
 ロウランが歯を食いしばり、肩と腕のすべてで刃に重みを足す。
 「エリシア、合図を!」
 聞こえたか、心で聞いたのか。わからない。わからなくていい。
 私は鐘を、全身で鳴らした。
 金属の響きが、火と風と塩と刃をいっぺんに束ねる。
 炎が喉の穴に吸い込まれ、氷の刃が肉を割り、塩の粉が血の中で暴れ、巨獣の音がひとつ欠ける。
 轟音。
 巨体が崩れ落ち、雪煙が天を覆い、世界の色が一秒だけ白と黒に分かれた。

 静寂。
 音という音が、冷え切った布のように地面に落ちる。
 次に戻ってきたのは、人の息の音だった。
 「……勝ったぞ!」
 誰かの声が氷を割り、同時に幾つもの喉が声を見つける。
 「氷刃将軍と白薔薇副長に!」
 歓声が、砦の石を温める。頬にいくつも手が触れ、鎧の肩に拳が当たり、笑いと泣き声が混ざり、雪の白さが初めて柔らかくなった。

 私は梯子を駆け下りる。脚が少し震えているが、地面はしっかりと私の重みを受け止める。
 雪煙の向こうに、血に濡れた灰の外套。
 「ロウラン!」
 初めて、名前を呼んだ。
 呼び慣れない二音が舌先で少し転び、すぐに戻る。
 彼の灰青の瞳がわずかに揺れ、刃の冷たさから人の温度へ戻ってくる。
 「……エリシア」
 同じように、名が呼ばれる。
 それだけのことで、胸の奥に積もっていた雪がひと握り融けた。
 彼の肩に手を置く。血と油と塩の匂い。人の戦いはいつもこの三つでできている。
 「生きてる」
 「お前が、鳴らした」
 言葉は短く、足りない。足りないから、目が補う。目は、嘘をつかない。

 マリルが駆け寄り、私の手のひらを掴んだ。皮膚が擦れて切れている。いつの間にか、鐘縄の繊維が肉に食い込み、赤が塩で白く縁取られていた。
 「痛いでしょう」
 「後で」
 笑ってみせると、彼女は泣き笑いのまま頷き、包帯をほどいて手早く巻いた。
 ケインが息を切らして走ってくる。顔に煤、目はまだ少年の丸さを残している。
 「副長殿、鐘……すごかったです」
 「あなたが塩を運んだから」
 「俺、怖かったけど、理由があったから動けました」
 私は頷いた。
 理由は、恐怖の向きを変える。向きさえ決まれば、足は前に出る。

 瓦解しかけていた霧は、朝の冷えに押されて薄くなり、東の雲の切れ目から初日の光が覗く。
 雪の上に、血の筋がいくつも走り、火の跡が黒く固まり、折れた矢が畑のように突き出ている。
 勝利はいつも、静かな惨状の上に立つ。
 私はそこから目を逸らさない。逸らすのは簡単だ。けれど、簡単な方へ顔を向ける癖は、やがて心もそちらへ落とす。

 砦の門の外で、最後のうめき声が消え、兵たちがひとり、ひとりと腰を下ろし、互いの肩を叩く。
 ロウランは血に濡れた刃を雪で拭い、鞘に収める。
 その動作が終わる寸前、蹄の音が近づいてきた。
 早馬。
 雪を蹴る音の速さが、ただの使い走りではないことを教える。
 伝令が外套ごと転がり落ちるようにして馬から降り、帽子を脱ぐ。頬に貼りついた霜が溶けて、言葉が出るまでに一拍の間が空いた。
 「王都より急報――王太子、失脚。王位継承の再審、始まる。宰相派、主要人員の拘束、決定」
 短い文が、戦の終わりに別の戦いの始まりを押し込んでくる。
 ロウランは剣の鍔に手をかけたまま一度だけ目を閉じ、それから私を見た。
 灰青の瞳は、さっきまでの刃の光を残しながらも、人の光をはっきりと宿している。
 「戦は終わった。だが……俺とお前の道は、これから始まる」
 「ええ」
 私は頷いた。
 言葉は薄いが、意味は濃い。
 北の風が砦の塔を回り、鐘楼の舌がかすかに触れて音を探す。
 朝日が雪原に傾いた影を短くし、血と炎の跡を正直に照らす。
 私は掌の包帯に力を入れ、痛みの形を確かめた。
 痛みは、生きている印だ。
 そして、痛みは時間を教える。
 ――三日後。軍法会議。
 ――今日。北境の片づけ。
 ――この瞬間。私たちの始まり。

 兵たちが倒れた仲間に白い布をかけていく。雪よりも白い布。誰かの名前を低く呼び、返事がないことを確かめるための呼びかけ。返事がないのは、敗北ではない。帰らない勝利もある。
 マリルが私の肩に外套をかけ直してくれる。布が背中の震えを隠し、同時に、震えが布に移って私の代わりに揺れる。
 「奥方様」
 「なあに」
 「お二人とも、帰ってきてください」
 「帰るわ」
 「約束です」
 私は頷いた。
 約束という言葉は、塩のように舌に残る。約束を口にした人は、しばらく何を食べてもその味がわかる。

 ロウランが、残骸の向こうに立ち尽くしているケインに声をかけた。
 「よく持った」
 「将軍……俺、途中で、怖くて足がすくみそうになって。でも鐘が鳴って、理由を思い出して、動けました」
 「それでいい」
 ロウランの言い方は、褒めるでもなく叱るでもなく、ただ事実を正しく並べる。
 戦のあとになってはじめて届く言葉がある。今日の彼のその一言は、ケインの背の一箇所にぴたりと届いたように見えた。
 私はそれを見て、呼吸を整えた。
 呼吸は、鐘の音より静かで、塩の粒より小さい。けれど、ひとつひとつの吸って吐くを信じれば、次の一歩はそれほど難しくない。

 古獣の死骸は、雪の上で徐々に硬さを失い、黒曜の皮膚の色が変わっていく。近づけば、熱がまだ残っている。
 「解体は?」
 ハーゼンが短く答える。
 「外縁を削って埋める。痕跡は谷へ。匂いで別の群れを呼ばないように」
 私は頷き、塩の袋をひとつ渡した。
 「これも。表面に多めに」
 塩は、終わりにも効く。
 ロウランが顔を上げ、遠くの山脈の線を見た。
 「唄う橋の方は?」
 「今朝の風なら、うまく鳴ったはずです」
 私が答えると、彼は小さく笑った。
 戦場での笑いは短いが、意味は長い。

 私は鐘楼を見上げた。
 縄がまだ揺れている。
 手のひらの包帯を押さえ、指先を曲げ伸ばしてみる。
 「エリシア」
 ロウランが私の名を呼ぶ。
 彼の声が、今度は戦の声ではなく、生活の声の方へ少し傾いていた。
 「王都へ戻るまでに、やることが山ほどある」
 「わかってる」
 どちらからともなく、笑う。
 笑いは、刃の背だ。
 刃と背が揃えば、刀は鞘に収まる。
 鞘に収めた刃を、また取り出す日が来ることも、私たちは知っている。
 それでも今は、一度、鞘に収める。

 雪が、音もなく降り始めた。
 粉のように細かく、塩のように白い。
 私は掌を上に向け、ひと粒、ふた粒、受け取る。
 塩と雪の見分けは、舌でつけられる。
 でも私は舌を出さない。
 今夜は、舌に約束の味を残しておきたいから。
 明日の朝も同じ味がするなら、私たちはまた、戦える。
 そしていつか、違う味に変わる日が来たなら、そのとき私は、剣ではない言葉を選ぶだろう。
 そう思うだけで、雪の音が少しやわらいだ。

 北境の風が砦を抜ける。
 風は嘘をつかない。
 塩は嘘をつかない。
 鐘の音も、刃の光も、嘘をつかない。
 嘘をつかないものに囲まれて、私は、もう一度だけ深く息をした。
 呼吸の重さは、心の重さと大抵同じくらいだ。
 今日の私の呼吸は、持てる。
 だから――行ける。
 雪が、朝日の方角へ、細い光を織り込みながら降り続ける。
 その中で、私たちは動き始めた。
 北の終わりから、王都の始まりへ。
 勝利の跡と、これからの道を、同じ靴で踏みしめながら。