勝利は、思っていたより軽かった。
王都の広場を満たした歓声は、雪景色に投げられた紙吹雪みたいにふわりと舞い、陽に透けて、あっけなく消えた。
「白薔薇」「氷刃」という新しい呼び名が、見知らぬ口から私たちの肩へと乗ってくる。温かいはずの重みが、なぜか滑っていく。勝利は火に似ていて、人を温める一方で、油断にすぐ火をつける。だから、火のそばを離れる前に、必ず灰を見ておく必要がある。
灰は、早馬の蹄にまとわりついていた。
広場が歓呼の波を繰り返している最中、伝令の口からこぼれた言葉は、乾いた灰を噛む音がした。
――北境砦に“古き魔群”出現。周辺集落、炎上。
王都の冬の空気が一段階冷たくなり、広場の奥で誰かが息を呑む音がはっきり聞こえた。
「……砦が」
私の声は自分のものなのに、少し外から聞こえた。マリルが両手で口を押さえ、その指先から血の気が引いていく。
ロウランは顔だけで空を見、短く言う。
「帰る。全軍で」
王の側近が三日後の軍法会議を告げ、書記が日付を読み上げる声が遠くなる。三日という数字は、刃の幅と同じくらいはっきりしている。けれど、今は刃のほうを前に向けるしかない。
馬具を締め直す金具の音、積み荷に布をかける音、命令が短く途切れず続く音。王都の音は薄く、北境の音は厚い。
城門を抜けると、風がすぐに頬の形を取り戻させた。人の熱で緩んでいた皮膚が、北へ向かうたびに引き締まっていく。
「エリシア」
並んで走りながら、ロウランが目をやらずに呼ぶ。
「はい」
「戻ったら、ここで言えなかったことを言う」
私は頷いた。
「私も」
言えなかった言葉は鞘の内側の布に似ている。刃を守る柔らかさは、戦の最中には触れないほうがいい。触れなくても、確かにある。
北へ。
街道の雪は薄く、その上に灰がかかっている。灰は風向きを教える。南西から吹いた風が灰を長く伸ばし、木立ちの影に小さな黒い指を何本も作っていた。
最初の村は、煙の形だけが残っていた。
焼け落ちた梁が縦横に組み合わされ、倒れた壁の内側で鍋がひとつ、底を上にして黒く転がっている。家畜の繋ぎ杭はじりじりとまだ赤く、雪の上で丸く溶けた穴を広げていた。
「奥方殿!」
血に濡れた布を肩にかけた女が、私の腕を掴む。
「黒い霧といっしょに、やつらが来たんだ。犬みたいな、でも目が紅くて……家畜も人も、区別しなかった」
紅い目、という言葉が、喉の奥の薄い膜を凍らせる。
私は彼女の手を両手で包み、息を落ち着かせた。
「ここから北西へ逃げて。谷を二つ越えた先に監視小屋があります。水はそこで。塩を少し、舐めて。……凍傷が来る前に」
塩は、人を戻す。
彼女が頷く前に、遠吠えが背中に追いついてきた。
二つ目の村には、倒れた兵士がいた。矢筒は空、刃は欠け、靴の紐に焼け落ちた糸が絡みつく。
ロウランが身を屈め、眉間に皺を刻む。
「ただの獣ではない。“古き魔群”だ」
ハーゼンが膝をつき、地面の爪痕に指をあてる。
「群れを統率してる。踏み跡がひとつ、他より深い」
統率――それは理屈の側の言葉だ。理屈の側に出てきた怪物は、伝承からこちら側へ半分足を踏み入れている。
私は焼けていない薪の山を見つけ、片端を割って断面に鼻を近づけた。湿り気の中に、変な匂い。
「……海臭い」
ハーゼンが顔を上げる。
「海?」
「霧が海の塩気を運んでいる。黒い霧の正体は、湿り気を含んだ気流。なら、風を読める」
風は嘘をつかない。風向き、雲脚、雪の粒の粗さ。北境では、それで明日の難易度がわかる。
砦が見えたとき、喉の奥で細い音が鳴った。
石灰岩の壁は黒い煤でまだらに汚れ、外壁に沿って油壺の残骸がいくつも割れている。塔の上には濡れ布が干され、その下で弓兵が腕を振っている。矢羽根は少ない。
「将軍!」
ハーゼンが血に濡れた鎧で駆け寄り、息を吐く。
「すでに二度の総攻撃を凌ぎましたが、次は持ちません!」
ロウランは頷き、言葉を削って命令を飛ばす。
私は倉庫へ走った。
台帳を開く。紙の手触りは、手の震えをまっすぐ拾う。
矢は半日分。油は三分の一。包帯は、予備が底をついている。岩塩の袋は三。粉にできるか。
「ミルは?」
兵站官が眉をひそめる。
「古いのがひとつ。砥粉用だが、動く」
「使う。塩を粉にして麻袋に詰める。目の細かい布で二重に。撒いたときに風に乗るように」
兵站官は一瞬だけ躊躇い、私ではなくロウランを見る癖で視線を動かした。
ロウランが短く言う。
「従え」
その二文字で、倉庫の空気の質が変わった。
作戦の地図は、砦の食堂の長卓に広げた。
北の谷、南西の谷、河岸段丘、湿地。
私は炭を手に取り、風の矢印を引く。
「風向きが変わってる。南西から下りて、砦の西側で逆巻きになっている。ここ、低い鞍部。“唄う橋”の先。ここへ誘導できる」
唄う橋――古い木橋。風で鳴る。第2章で通った場所の名が、舌の上でまた音を持つ。
「“魔群は純なる塩を忌む”」
焚火のそばで老人兵が口にした伝承を思い出す。
「伝承を理屈に変える。塩を撒くのは線状に。谷の入り口で扇形に二重三重。湿り雪に混ぜると固まって足を取る。火は風下へ走る。油は節約、乾いた矮松に集中。鐘は三つの合図。ひとつ目は誘導開始、二つ目は塩線突破、三つ目は橋へ誘う合図」
兵がざわめく。新しいやり方は、疑いと興奮を同時に連れてくる。
「奴ら、塩で止まるんですかね」
若い兵が、顔をこわばらせて言う。
私は頷いた。
「止まらないなら、鈍る。鈍れば、矢が届く。矢が届けば、私たちの勝ち目が増える」
ロウランが剣を卓に置き、刃の背で地図の線をなぞった。
「彼女の命令は俺の命令だ。――従え」
その一言は、砦全体の骨の並びを揃えた。
広場での宣言は、突然で、しかし必然だった。
ロウランは剣を掲げ、兵たちの顔を順に見る。
「聞け! 今よりエリシア・レイバックを副長として認める! 彼女の指示に従い、俺と共に戦え!」
副長、という言葉は、背中の皮膚の裏側に熱を走らせた。
「副長殿に従う!」
「北の白薔薇に!」
鬨の声は冬の空を一段押し上げ、黒い雲の縁がわずかに薄くなる。
私は胸を震わせながらも、意識的に呼吸をゆっくりにした。
「私は罪人ではない。皆と共に、砦を守る者です!」
声は、風の厚みを割らず、しかし確かに届いた。
準備は、戦の一部だ。
古いミルが石粉を吐き、塩の粒が細かくなる。粉の軽さは風の指示に従いやすい。
若い兵たちが麻袋に塩を詰め、縄で口を二重に結ぶ。干場の灰をひと握り混ぜれば、湿り雪でも固まりやすい。
矢羽根に油を薄く塗り、防水しながら重さを揃える。火をもらった矢は走るが、走りすぎるのはよくない。
私は傷病小屋へ走り、マリルと共に湯の量と布の数を確認する。
「湯を絶やさないで。汚れた布は二度と使わない。灰で手を洗って」
マリルの目は疲れているのに、手はよく動いた。
「奥方様、あの……さっき若い兵が、母上に向けて手紙を書いていました。万が一の手紙です」
私は頷く。
「万が一の手紙は、強い。書いた人が生きて戻ることを、私は何度も見た」
マリルが少しだけ笑い、「なら私も、奥方様に書いておきます」と言った。
「やめて」
思わず言ってしまって、二人で笑った。
夕暮れ、砦の外壁に上ると、遠吠えが風に乗って届いた。
黒い霧は、目に見える濃さで近づいてくる。霧は風の形を可視化し、人の恐れの形も溶かして混ぜた。
ロウランが横に立つ。
「明日が決戦だ」
「ええ。……でも私はもう逃げません」
私の言葉は薄いが、重みはあった。
「知っている」
彼は短く頷き、石の上に置いた手袋の縁をつまんだ。私たちの昔の合図。
「共に立とう」
その言い回しは、誓いであって、命令ではない。
私は頷く。
風が一瞬だけ弱くなり、その隙間で、彼の呼吸が聞こえた。
「……王都の広場で、お前が“証拠を信じて”と言ったとき、俺は、剣を持つ者にできることを思い出した」
「剣で、何を?」
「時間を稼ぐ。真実が広場に届くまでの」
私は笑った。
「じゃあ今度は、私が剣になる番です」
「副長殿」
ロウランの口元が、わずかに緩む。
下ではマリルが焚火の影で両手を組み、唇を動かしていた。祈りの言葉は音にならない。音にならない言葉のほうが、遠くへ届くときがある。
夜は、戦の前夜らしく、よく鳴いた。
矢を削る音、石を運ぶ音、塩を撒く麻袋が擦れる音。
私は見張り台を一つずつ回り、塩線の位置を再確認して、鐘の紐を手で引いてみる。三つの合図、間隔。
若い兵が呼び止めた。
「副長殿」
顔に煤がつき、目は大きい。
「何?」
「俺、ケインっていいます。……明日、もし、俺が怖くて動けなくなったら、怒鳴ってください」
「怒鳴らないわ」
私は首を振る。
「理由を言う。人は理由で動ける。怒鳴られても、動けないことがある」
ケインは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「副長殿、優しいですね」
「優しくないわ。勝ちたいだけ」
勝ちたい、という言葉は、戦の前夜にふさわしい。言い訳のない単語は、疲れた人の背にうまく乗る。
夜が明ける前に、黒い霧が砦を覆った。
霧は、音を鈍らせる。鈍らせた音は、逆に不気味に大きくなる。
地面が揺れた。石が外壁の内側で小さく跳ね、雪がさらさらと落ちる。
「来るぞ」
誰かが言った瞬間、低い轟音が腹から上へ突き抜けた。
見張りの兵が矢を番え、私が鐘の紐を握る。
霧の岸が裂け、影が姿を取る。
狼に似たもの、熊に似たもの。形容詞は、すぐに意味を失う。目が紅く、皮膚は煤に濡れ、動きは、統率された波のように揃っている。
「恐れるな! 作戦通りに動けば必ず勝てる!」
声は、冷えた空気に少し刺さった。
合図の一打。鐘が鳴る。
南西の谷へ向けて、塩線の前へ誘導の矢が飛ぶ。火矢はまだだ。
魔群の先頭が塩線に触れた。
動きが、ほんのわずか、鈍る。
雪が固まって足を取る。波の前縁が乱れる。
矢。矢。矢。
「二打目!」
鐘が鳴り、火矢が放たれた。
乾いた矮松へ火が走り、煙が風に乗る。煙は、敵の目と肺を奪う。風は私たちの味方だ。
「左翼、間隔を狭めて! 半月の弧を保って!」
叫ぶと、兵たちが体で図形を作る。
ロウランは塩線の手前で刃を振るい、波の尖りをひとつずつ折る。折れた先は、後ろの塩に触れ、また鈍る。
「橋へ!」
三打目の前に、地面が再び揺れた。
霧の向こう、影が沈んで、持ち上がる。
山の一部が動く錯覚。
錯覚ではない。
巨大な影が霧を割り、姿を現した。
角かと思えば枝であり、枝かと思えば角であり、瞼のない孔がいくつも光をつけたり消したりする。
「……決戦級か」
ロウランの声が、無理に抑えた低さで喉から漏れる。
兵の喉が鳴る。
私の手の中の地図が、汗で少し湿った。
「恐れは、形がある」
私は自分に言い聞かせ、鐘の紐を握り直した。
「形があるものは、切れる」
「副長殿!」
ケインの声。
私はうなずく。
「橋へ誘う。塩線、二重に」
風が一瞬変わり、口の中に塩の味が戻ってきた。
「――行くわよ!」
合図。鐘の最後の一打。
雪と炎の間で、音が重なり、世界が薄く光る。
北境炎上。
最終決戦が、始まろうとしていた。
私は塩の小瓶を胸元で強く握り、ロウランの影の中に半歩入り、声を張る。
「恐れるな!」
同じ言葉をもう一度。
今度は、風の方が先にうなずいた。



