王都の冬は、決して優しくはない。外の街路は凍てつき、吐く息すら氷の粒になりそうなほどの冷気が流れているのに、宮廷の大広間は別世界のように暖かく、シャンデリアの光が溶けた蜜のように床を覆っていた。
 その光の下で、令嬢たちは真珠の髪飾りを揺らし、青年貴族たちは磨き抜かれた靴の音を鳴らして踊る。流れる旋律は軽やかだが、交わされる視線の奥には計算と打算が渦巻いていた。

 エリシア・レイバックは、その渦の中心に立っていた。
 深紅のドレスに、白薔薇を模したブローチ。華やかな装いは、彼女が公爵家の娘であり、王太子セドリックの婚約者であることを示す。
 視線を向ければ、人々は一瞬にして口を閉じ、微笑を作る。憧憬と畏怖、そのどちらも含んだ眼差し。――ほんの数時間前までは、それが彼女の当たり前の日常だった。

「エリシア、今宵も美しいな」
 背後から声がかかる。振り返ると、セドリックが立っていた。濃紺の軍服に身を包み、誰もが息を呑むような整った顔立ち。エリシアの婚約者、次期国王と目される男。
 その声を聞いた瞬間、胸がわずかに弾む。彼に選ばれた自分は誇りであり、未来は揺るぎないものだと信じていた。

 けれど、その夜は違っていた。
 セドリックの眼差しは氷のように冷え、微笑みは影のように浅かった。
「皆の前で、話がある」
 その言葉に、大広間の空気がひりついた。演奏が途切れ、舞踏の輪が止まる。貴族たちの視線が一斉に二人に注がれる。

 エリシアは胸騒ぎを覚えながらも、微笑を崩さなかった。婚約者としての矜持が彼女を支えていた。
「……なんでしょうか、殿下」
 そう問い返したとき、彼の口元がわずかに歪んだ。

「エリシア・レイバック。お前との婚約を、ここで破棄する」

 ――大広間に衝撃が走った。
 令嬢たちがざわめき、若い騎士たちが驚愕に目を見張る。
 エリシアの耳に、そのざわめきがまるで海鳴りのように押し寄せてきた。理解が追いつかず、膝が崩れそうになる。

「……な、にを……おっしゃって……」
 掠れる声で問い返す。だが返ってきたのは、さらに冷酷な言葉だった。

「お前は王妃にふさわしくない。毒を盛ったのだろう? 義妹リリアナを害そうとした罪人に、未来の王妃の座は与えられぬ」

 その瞬間、周囲から小さな笑い声が漏れた。
 視線を向けると、純白のドレスを纏った義妹リリアナが、まるで勝者のように口元を綻ばせていた。
「お姉さま……どうしてこんなことを」
 泣き真似のような声。その目は喜びに濡れている。

「嘘よ……そんなこと、していない……!」
 必死に声を絞り出す。だが、令嬢たちは嘲笑を隠そうともしない。
「まぁ、ついに化けの皮が剥がれたわ」
「傲慢な令嬢の末路ね」

 エリシアは唇を噛み、血の味を覚える。反論しようとした瞬間、父の声が響いた。
「……国王陛下のご意向だ。北境への流刑を……受け入れる」

 目の前が真っ暗になる。父までもが、彼女を見捨てた。

 セドリックが彼女の手を取り、淡々と言い放つ。
「これ以上、無様を晒すな。お前はもう終わりだ」

 絹の手袋を外される。その一動作で、エリシアの立場は一瞬にして地に落ちた。
 嘲笑と侮蔑、冷たい視線が彼女を突き刺す。かつて友と呼んだ令嬢たちは背を向け、使用人すら距離を取った。

 その中でただ一人。幼馴染の侍女マリルが駆け寄り、泣きながら囁く。
「お嬢様を……信じます。ずっと……」

 砕けそうな心を、たったその言葉だけがつなぎとめた。



 石畳に打ち出された靴音が遠ざかり、宮廷の大広間から洩れる音楽も、もう彼女には届かなかった。
 夜会を追放されたエリシアは、外気の冷たさに肩を震わせた。煌びやかな灯火に照らされていた世界から一転して、吐く息が白く溶ける暗がりへ。
 背後の扉が閉じられる音は、二度と戻れぬ世界への鎖のように響いた。

 白い石畳の上で立ち尽くしながら、エリシアは自分の手を見下ろした。
 セドリックに外された手袋。その手は赤く、爪の根本にはわずかに血が滲んでいた。
 あれほど磨き上げられてきた手。王妃になるべき者として、常に人前に差し出すことを意識し、ひとつの傷も許されないと教え込まれた手。
 ――その手は、いまや何の意味も持たない。

 マリルが背後でそっと外套を掛けてくれる。
「お嬢様……寒いでしょう」
 その声にエリシアはようやく息を吸い込むことができた。
「ありがとう、マリル。でも……私、もう“お嬢様”ではないのよ」
 唇の端に苦笑が浮かぶ。マリルは首を振り、涙に濡れた声で答える。
「それでも……私にとってはずっと、ただ一人の主です」

 言葉が胸を打ち、凍りついた心の奥に微かな灯火が灯る。だがすぐに、現実が重く覆いかぶさってきた。

 父に見限られ、王太子に捨てられ、義妹に陥れられた。
 これまでの努力はすべて無駄だったのか。
 朝から晩まで礼儀作法に追われ、足の皮が破れるほど舞踏を練習し、書物を読み漁り、王妃教育に耐えてきた日々。
 “王妃になるため”だけに費やした十数年が、一夜にして崩れ去った。

 エリシアは石畳に視線を落とす。冷たい水が溝を流れ、氷の膜が張っていた。
 ――私は、何をしてきたのだろう。
 胸の奥から虚しさが込み上げ、喉を焼く。怒りも混じっていた。
 義妹のリリアナは、努力よりも可憐さを武器に笑い、涙で男たちを惹きつける。父はその姿を「清らか」と褒め、セドリックも彼女を庇った。
 どれだけ真面目に生きようと、打算と演技の方が優位に立つ――その事実が、心をえぐる。

 けれど、屈するわけにはいかなかった。
 エリシアは強く息を吐き、心の奥で呟く。
(私は折れない。必ず真実で抗う。たとえこの身を誰も信じなくても)

 その決意がわずかに彼女を支えた。

 やがて、鉄の鎧の擦れる音が響いた。
 月光の下、数騎の兵が現れる。国王直属の護送隊。
 彼らは氷のような視線をエリシアに向けると、淡々と告げた。
「エリシア・レイバック殿。王命により、北境へ護送する」

 北境――それは流刑と同義だった。
 雪と氷に閉ざされ、魔獣が跋扈する最果て。罪人や追放者が送り込まれる場所。
 エリシアは小さく息を呑む。だが泣き叫ぶことはしなかった。
 悔しさと恐怖を喉に押し込み、背筋を伸ばす。
「……わかりました」

 兵の一人が嘲笑混じりに囁く。
「思ったより気丈だな。てっきり泣き崩れるかと」
 別の兵が笑い、「その分、道中で泣かせがいがあるかもな」と言った。
 侮蔑の視線が肌に突き刺さる。だがエリシアは一歩も退かない。

 マリルがすがるように声を上げた。
「どうか……どうかお嬢様を粗末に扱わないでください!」
 その必死の叫びに、兵たちは一瞬たじろぐ。だがすぐに鼻で笑い、「口の減らない侍女だ」と吐き捨てた。

 エリシアはそっとマリルの肩に手を置く。
「大丈夫。私は折れないわ」
 その言葉が、自分自身を奮い立たせるための祈りでもあった。

 そして、隊列の先頭にひときわ異質な存在が立っていた。
 冷たい灰青の瞳を持つ若き将軍。銀の刺繍が施された黒い外套。
 “氷刃の将軍”――ロウラン・ファルクナー。

 彼の名は、北境で数々の戦果を挙げた伝説と共に広まっている。冷徹無比、情を排し、ただ軍律と剣のみで敵を圧する男。
 兵たちすら息を呑み、背筋を伸ばす。

 ロウランは無言のままエリシアに視線を向けた。
 その眼差しは冷ややかだった。だが、他の者たちのような侮蔑ではなかった。
 彼は彼女の震えを見ていなかった。
 見ていたのは――折れずに立つ、その姿勢だった。

 その瞬間、エリシアの胸にかすかな光が差し込む。
 絶望の闇を切り裂く、小さな灯火のように。

 護送の準備が進む中、彼女は心の奥で強く誓った。
(私はまだ終わらない。この目で、必ず真実を暴く。ここからが、私の旅の始まり)

 こうして、薔薇の令嬢は地に堕ち、氷刃の将軍に導かれる旅路へと踏み出したのだった。




 王都の石畳を、馬車の車輪がきしみを上げて進んでいく。
 冬の冷気が窓から忍び込み、火の気のない車内を容赦なく冷やした。手枷を嵌められたエリシアは外套の裾を握りしめ、唇を噛みながら前を向く。マリルは彼女の隣に座り、固く祈るように目を閉じていた。

 外では護送兵の笑い声が聞こえる。
「罪人令嬢が北境行きとはな。王都では噂の種になるぞ」
「夜会でのざまあ見ろ、俺も一度は見たかった」
 彼らの声は矢のように胸を突いた。それでもエリシアは表情を崩さず、静かに座り続ける。心の奥で何度も繰り返す――折れない、負けない、と。

 やがて馬車が揺れを止めた。扉が開き、冷たい夜気が雪崩れ込む。
「降りろ」
 短い命令。声の主はロウランだった。低く、鋭く、余計な感情を含まない声音。

 エリシアは一瞬ためらったが、すぐに立ち上がる。石畳に足をつけた瞬間、足先から寒さが這い上がり、震えが背を走った。それでも背筋を伸ばす。見下ろす兵たちに隙を見せたくなかった。

 ロウランの瞳が一度だけ彼女を射抜いた。灰青の光。冷たさの奥に、測りがたい何かが潜んでいる。その視線は一瞬で逸らされたが、不思議と胸に残った。

 北境へ向かう道は長く、厳しい。雪に閉ざされた峠を越えねばならず、魔獣の棲む森を抜けなければならない。兵たちでさえ気を緩めれば命を落とす道のり。
 だがその夜はまだ、王都の郊外に過ぎなかった。

 焚き火の炎がぱちぱちと音を立てる。野営地の片隅、罪人扱いのエリシアとマリルには粗末な毛布が一枚与えられただけだった。
 息は白く、指先はかじかむ。眠れるはずもなく、彼女は焚き火の向こうで地図を広げる兵たちの姿を見つめていた。

(あの峠は冬期に閉ざされる。補給路は二つに限られるはず……)
 思考が自然に働く。公爵家の娘として学んだ知識。王都の人々は忘れてしまっただろうが、彼女は幼い頃から家の政務に触れ、補給や地理に精通していた。

 けれど口を出せば、きっと笑われる。
「無能な飾り姫」――今や彼女に貼られた烙印。
 エリシアは唇を結び、黙って炎を見つめた。

 そのとき、背後から声が落ちた。
「眠れぬか」
 振り返ると、ロウランが立っていた。月明かりに銀糸のような髪が揺れる。焚き火より冷たく、夜気より静かな男。

 エリシアは思わず立ち上がり、礼を取ろうとした。だが手枷が邪魔をして、不格好な動作になる。頬に熱が集まった。
「……はい。少し、考えごとをしておりました」
「考えごと?」
 彼の声は低く、感情を読み取らせない。

「北境の道程についてです。雪の峠を越えるのは難しいでしょう。補給が滞れば、護送隊も危うくなります」
 言葉が口をついて出た。抑えられなかった。
 兵たちに嘲笑われるのが怖かったのに、彼の前では不思議と怯えが薄れる。

 ロウランはしばらく無言で彼女を見ていた。
 やがて、短く答える。
「……辺境に来れば、わかる」

 それだけだった。
 だが否定はされなかった。
 その事実が、エリシアの胸に小さな温もりを残した。

 夜が更け、冷え込みが厳しくなる。マリルは眠りに落ち、エリシアも毛布に包まれながら瞼を閉じた。
 ふと、肩に重みを感じる。薄く目を開けると、厚手の外套がかけられていた。
 顔を上げると、焚き火の向こうでロウランが背を向けて立っている。気配を悟られぬよう、ただ黙って見張りを続けていた。

 胸がじんわりと熱くなる。
 ――あぁ、この人は、私を「罪人」ではなく「人」として見ている。

 涙が滲み、頬を濡らす。
 彼女は初めて、心から泣いた。誰の前でも涙を見せまいと耐え続けてきたのに。
 その涙は、絶望ではなく、ほんの一欠片の希望の形をしていた。

 翌朝、空は鉛色に曇り、遠くで黒い狼煙が上がっていた。
 兵たちがざわつく。「まさか、辺境で戦が……?」
 ロウランは狼煙をじっと見つめ、低く呟いた。
「……火種は、すでに燻っている」

 エリシアは息を飲む。
 北境で彼女を待ち受けるのは、ただの流刑ではない。国を揺るがす陰謀の奔流だった。

 それでも彼女は視線を逸らさなかった。
 ――私の物語は、まだ終わっていない。ここから始まるのだ。