夏休みになると、千景は毎日のように涼介の家のパン屋にアルバイトへやってきた。涼介から見て、千景の働きは想像以上だった。最初は一生懸命だからとアルバイトへと勧誘したものの、きっとドジなこともたくさんするのだろうと思っていたのだ。当然のようにドジはドジだったけれど、それを凌駕するほどの頑張りで、千景は出勤するごとに成長を重ねていった。千景がいる日はいつも以上に忙しくなって、イートインスペースは常に混雑し、特に千景が淹れるドリップコーヒーはパンよりも高いのにどんどん注文が入った。
「千景先輩、大丈夫ですか」
 少し暑いバックヤードでホットコーヒーを淹れている千景に話しかけると、千景は火照った顔を綻ばせて大きく頷いた。
「大丈夫、今日も楽しいよ」
「本当?」
「うん。それに、今日は仕事の後におじさんがメロンパン一緒に作らせてくれるって言うから」
「……そんなことより、ちゃんと水飲んでよ」
「うん。これ終わったら水分補給」
 えへへ、と笑った顔に、胸がキュッとなる。ゆっくりと息を吐き出してから笑顔を返すと、千景はさらに楽しそうに笑って「アチチッ」なんて言いながら慎重にマグカップをお盆にのせて店の方へと出ていった。その後ろ姿を見つめながら考える。最近の涼介はなんだかおかしい。千景を見ると冷静ではいられないのだ。元々気になる人ではあったけれど、最近の千景はまた異なる魅力で溢れている。汗をかいて働く姿がキラキラと輝いて、常連に向ける笑顔は大輪の花のように見えた。そこまで考えてから、思わず額に手をやる。今日も酷暑だ。涼介の頭は相当やられているに違いない。
 店頭にパンを並べながらも、気がつけば千景を目で追ってしまう。するとちょうどパンを選んでいた常連のお婆さんと目があって、「あんた、あの子のこと見過ぎだよ」と注意された。
「転ばないか心配でね」
 千景は何もないところで躓いたりするタイプだ。それは本心だからそう言ったけれど、まだ何か言いたそうなお婆さんの視線から逃げるように屈めていた腰を上げた。視界の端の千景はイートインスペースを片付けている。その動きはいつもよりも少し緩慢に見えて、涼介は慌てて千景に近づいた。
「千景先輩」
「……うん?」
 ゆっくりとした瞬きは、一目で具合が悪いのだとわかった。
「裏で休憩しよう」
「いやいや、大丈夫」
「じゃあ、ちょっとだけ水飲みに行こう」 
 ほとんど強引に肩を抱いて、そのままバックヤードへと下がる。椅子に座らせて冷たい水をコップに注いで渡すと、千景はそれにゆっくりと口をつけた。
「はあ、生き返るね」
「ちゃんと水分補給してたの」
「ごめん、仕事に夢中になってたら忘れてた」
「もう、困った人だね」
 困った人だから、放って置けない。これは人助けのつもりだ。
「千景先輩。今日はもう帰ったら?」
「帰らないよ。今日は光希の誕生日だからね」
「……だから、メロンパン作るんだっけ」
「そう」
 俯き加減に優しく微笑んだその様子に、胸が痛む。千景にとっての一番は、いつだって新川光希である。それは涼介が千景に近づいたその時から変わらない事実なのに、胸を痛めるなんて馬鹿みたいだ。そうわかっているから「ふーん」とだけ言った。少し曲がっている帽子を直してやって、相変わらず火照ったその頬に優しく触れる。そしてキョロリと大きな目に見上げられた瞬間に、柔らかいそこをむにっと摘んでやった。
「動機が不純なので、解雇」
「え!?」
「もう表の仕事は俺一人で大丈夫だから、今からメロンパン作ってくれって親父に頼みに行こう」
「いや、でも」
「いいの。また明日ちゃんと働いてくれたら許すよ」
「俺、解雇じゃないの?」
「今日は解雇。クビ」
 腕を掴んで椅子から立たせると、そのままゆっくりと工房の方へと向かう。これでいいのだ。誕生日に半日以上恋人に放っておかれている光希もいい気味だ。だから許してあげる。
 それからは、現実を忘れるように必死で働いた。必死で働かないと店が回らないからというのもあるけれど、いつもよりも愛想よく接客をして、パンを無理矢理たくさん買ってもらって、千景が工房の方から私服に着替えて戻ってきた時にはほとんど完売に近い状態になった。
「わあ、望月くん。ほとんど売り切れだ」
「当たり前でしょ。それより、メロンパンできた?」
「うん!おじさんとおばさんと、望月くんのおかげで」
「ふーん」
 手に持った大きな紙袋の中身がメロンパンだろう。一体何個作ったのだろうと思っていると、千景はその紙袋に手を突っ込んでビニール袋に入ったメロンパンを取り出した。そしてそのまま涼介に差し出してくる。
「望月くんにも、作った」
 伏せられた目が一向に合わない。もしかして、照れているのだろうか。意外に思いながらも受け取ると、少し歪なメロンパンはまだ温かかった。
「望月くん、ありがとう」
「うん」
「望月くんのおかげで、俺」
 何やらモゴモゴと言いかけた千景の様子を見ていると、勢いよく店の扉がカランコロンと音を立てた。反射で「いらっしゃい」と声をかけつつ、「いらっしゃいませ」と言った千景と扉の方を振り返る。
「あ、光希」
 現れたのは光希だ。入店しながら肩で息をした光希は、じっと涼介の手元を見つめている。
「そのメロンパン」
「う、うん。これは望月くんに」
「なんで?俺には」
「あるよ!いっぱい作ったから」
「そうじゃなくて、俺に一番に渡すもんでしょ」
「でも、これはお礼だから」
 これはかなり面倒な展開だ。涼介は小さく溜息をついて、わざとメロンパンを鼻に近づけた。
「いい匂い。でも勤務中だから、後で食べるよ」
「そうなの?」
 少し残念そうな千景に、どこまで鈍感なのかと呆れながら頷く。
「だからさっさと帰って、仲直りして食べな。そうしないと俺が先に食べることになるけど」
 チラリと光希を見ると、彼は珍しくこれでもかと顔を顰めて千景の手を取った。
「千景くん、帰るよ!」
「う、うん。望月くん、また明日」
 光希に手をひかれながらそう言った千景に手を振る。カランコロンと扉が閉じて、店内は一気に静かになった。まるで嵐だ。なんだか巻き込まれていることに腹が立つのは、働き詰めで空腹だからだろうか。思わずメロンパンを見つめる。今食べたらきっとふかふかで、甘くて、出来立て特有の美味しさがあるのだろう。一瞬本気で食べてやろうかと思ったけれど、それはあまり涼介らしくない気がしてやめた。その代わりもう一度鼻にメロンパンを近づける。甘くて、あんまりメロンらしくない。でもこれが涼介にとっての恋の香りだと思った。

*******

 腕をグイグイと引っ張られるままに、千景は必死でついていくしかできない。
「光希」
 名前を呼んでも無反応な彼が一体何に腹を立てているのか。わかるような気もするけれど、千景の頭は疑問でいっぱいだった。
『カイ、どう思う?俺が悪いのかな?』
 カイにもいつも通り無視されているうちに、あっという間に寮に辿り着いて自室まで向かう。部屋に入ると光希はすぐにエアコンのスイッチを入れて、それから部屋の中央にどかりと座り込んだ。
「俺、今日誕生日なんだよ」
「う、うん。おめでとう」 
 朝もきちんと言ったはずだ。そんなに祝われたかったのだろうか。荷物を床に置いて拍手をしても、光希の機嫌は少しもよくならない。
「光希?メロンパン、食べよう」
「……」
「頑張って作ったんだ」
「俺だけのためじゃないじゃん。望月涼介にもあげてた」
「そ、そんなこと、ないよ」
「そもそも俺、好きなのはメロンパンじゃないよ」
「……え?」
「千景くんって、何もわかってない」
 ふいっとそっぽを向いた光希にオロオロとするしかできない。光希がこんなに怒ったことは今までなかった気がする。いつだって千景に寄り添って、どんなことも許してくれたのだ。それなのに急激に拒絶された気がして、千景の心は一気に沈み込んだ。でも、と唇を噛む。こんなのあまりにも悲しくて悔しい。
『このままじゃダメだよね。カイ、見ててね』
 千景は頭の中でカイにそう言うと、震えそうになる息をしっかりと整えて、それから腹の底から声を出すイメージをする。
「俺、頑張ったんだ。疲れてへとへとでも、メロンパンを作らせてもらうために毎日働いた」
「……」
「光希が好きだと思い込んだのは俺が悪いけど、一口一緒に食べてくれない?そしたら、俺は」
 最後は声が震えてしまって、一旦気持ちを整えようと思った。一口しか食べてもらえなかったら、本当はすごく嫌だ。
『頑張れ、千景』
 唐突に聞こえてきたカイの声はきっと幻聴だろう。でもその声に勇気をもらって、千景はメロンパンのたくさん入った紙袋を持ち上げると光希に近づいた。そしてそのまま隣にしゃがみ込んで、「光希」と名前を呼びながらポリ袋に入ったメロンパンを一つ差し出してみる。光希の手は胡座をかいた膝の上でぎゅっと握られているだけで、少しも動かない。千景は何をわかっていないのだろう。光希は何をわかってほしいのだろうか。必死で考える。考えて考えて、一周回って面倒になって、千景は覚悟を決めた。ゆっくりと光希に近づいて、ぎゅっと目を瞑り、滑らかな頬に優しく唇をくっつける。いつもだったら千景は恥ずかしくて受け入れるばかりの触れ合いだ。心臓が飛び出そうなくらいにドキドキして、唇を離すのと同時に怖くなった。いきなり積極的になったら気持ち悪く思われないだろうか。でも後の祭りだ。ゆっくり目を開くと、瞬きすら忘れたように固まる光希の横顔。これはもしかして、やってしまっただろうか。
「み、光希?」
 恐る恐る声をかけると、一瞬遅れて光希がゆっくりと千景を振り返った。ぼんやりとした瞳と目があう。
「お、俺は、光希がすごく好き。大好き。だから光希が好きだと思ったメロンパンを作ったし、もっと好きなものがあるならまた作るよ。誰よりも、好きだから」
 必死でそう言うと、だんだんと光希の瞳に光が宿り始める。だから手に持ったメロンパンにも袋越しにキスをして、「はい」と手渡した。
「……千景くんって、本当に」
「う、うん」
「信じられない」
「うん」
「俺、怒ってたのに。メロンパンだって、そこまで好きじゃなかったはずなんだよ」
「うん、ごめん」
「でもさ。俺にとってメロンパンは、恋の味なんだ」
「恋の味?」
「好きな人に、もらったことがあるから」
 思いがけず現れた「好きな人」という言葉に、ぎゅうっと肝が冷えた。相手は一体誰だろうか。昔の話だったとしても、この話を聞くのは辛いかもしれない。
「ひどい寝癖だったな」
 光希に対して、ひどい寝癖でメロンパンをあげた人がいたらしい。胸が苦しくて、「そうなんだ」と言うのも苦労してしまう。
『千景って、本当に鈍いね』
 再び聞こえてきたカイの声。今回は確かに聞こえた気がして、『カイ』と頭の中で呟くと『だから、ずっと一緒にいるってば』と返ってきた。
『ちゃんと聞いたら?それって誰のことって』
 そんなの、聞きたくない。でも、聞かないと話が前に進まない気もして、言葉を紡ごうと必死になった。
「そ、それって」
「そうだよ」
 光希は千景から確かにメロンパンを受け取ると、左手で優しく千景の頬に触れた。
「千景くんのこと」
 すぐに唇を塞がれて、そこからは何が何だかわからなくなった。ほにゃほにゃになってからやっと解放してもらうより前に、カイは『マジでいきなりは勘弁してくれる』と言いながらまたどこかへと行ってしまった。
 千景はまだ少しも慣れない長いキスにへとへとになって、光希の肩に凭れながら嬉しそうにメロンパンを頬張る光希の顔を見上げる。
「世界一美味しい」
「……そうでしょ」
「千景くん、ちょっとは嫉妬した?」
「え?」
「入学式の日にメロンパンくれたこと、本当は忘れてたでしょ」
「……忘れてない」
「嘘。忘れて、嫉妬したくせに」
「してないよ」
「してよ。俺はずっと、そんな気持ちも抱えながら千景くんのそばにいるんだから」
「そうなの?……それは、苦しくてかわいそうだな」
 かわいそうだから、千景が救ってあげたい。光希が少しも嫉妬なんてしなくて良いように、千景は何ができるだろうか。千景は少しだけ考えて、もう一度光希の頬に唇をくっつけた。それから耳元で覚悟を決める。
「俺は俺として、光希が好きだよ」
 言葉はしっかりと光希に届いたはずだ。すかさず唇を奪われて、そのまま息つく間も無くキスに溺れる。気絶しそうなほどの甘さは、確かに恋の味かもしれないと思った。