保健室を訪れたのは両膝を怪我したあの日以来だった。あの日と異なるのは、千景を連れて歩いてくれたのが光希ではないことと、室内に養護教諭がいたことだろうか。養護教諭は千景の腫れた指を見ると慌てて近医に連絡をして、受診の手筈を整えてくれた。
 そして今、千景は学校近くにある整形外科の待合に座っていた。レントゲンを撮るにも時間がかかるらしい。思ったよりも大事になってしまったことが居た堪れないものの、体育祭で神経を張り詰めていたためか、学校から離れられたことにはほっとしていた。
「千景先輩」
 名前を呼ばれると共に目の前に差し出されたのはペットボトルの緑茶だった。ふと見上げると、養護教諭を上手いこと説得して病院まで付き添ってくれた涼介が千景を見下ろしている。
「ありがとう」
「あ、待って」
 ペットボトルを受け取ろうとすると、涼介はキャップを緩めてから改めて差し出してくれた。
「……本当、ありがとう」
 何から何まで申し訳ない気持ちだ。千景は緑茶を一口飲んで、それからほうっと息を吐き出した。
「千景先輩、俺さ」
「うん?」
「先輩のこと、ずっと気になってたんだよね」
 涼介はそう言いながら、千景が座る長椅子に並ぶように腰掛けた。
「気になってたって?」
「だって面白いじゃん。とびきり可愛い顔に、頑固な性格」
 可愛いと聞いて、また気分が落ち込む。千景はカイみたいに格好良くなりたいのだ。どうしてもカイに近づきたい。最近ではそのことばかり考えている。
「あれ、なんか不満?」
 涼介が首を傾げる。その仕草は、気持ちの良い夜の風のようだと思った。
「……俺は今、格好良くなる練習中なの」
「千景先輩が格好良くなるの?それは無理じゃないの」
「……きっとなれるって言われてるから」
「それは、新川光希に?」
「……うん」
「一生格好良くなれなさそうな可愛いところが、千景先輩の良さなんだけどな」
 涼介はそう言うと、「あいつ全然わかってないね」と肩を竦めた。
「新川光希は千景先輩に惚れてるんだと思ってた」
「だから、そんなわけないだろ」
「じゃあ、先輩はどうなの?」
「俺だって……」
 涼介に本当のことを言ってやる義理はないのだ。千景が誰を好きであろうと、涼介には関係ない。それなのにぐっと言葉に詰まった。
「ほら。可愛い頑固者だから嘘つけない。格好良い男なら、こんな質問はさらっと流すもんだよ」
 悔しいけれど、その通りだと思った。カイだったら、のらりくらりと心のうちは明かさないだろう。カイだったら怪我なんてせずに豪速球を受け止めて、ドッヂボールでは大活躍するはずだ。カイだったら光希の揶揄いにも赤面なんてせずに受け流すし、リレーでは抜かされることなくバトンをつなぐことができたに決まっている。結局、千景は少しもカイのようにはなれなかったということだ。相変わらず、なんて鈍臭いのだろう。心が深く深く沈み込んだ。心なしか目の前が滲んでくる。唇を噛み締めて、右腕で目元を隠した。
「え、千景先輩?」
 隣で涼介が戸惑う気配がする。今日知り合った後輩に気を遣わせるのは悪くて、無理矢理ゴシゴシと目元を擦った。
「そんなに格好良くなりたいの?」
「うん。……でも、頑張っても頑張っても、無理なんだ」
「うん」
「俺は、理想になれない」
 光希にとっての理想、つまりカイのようには、どうしてもなれないのかもしれない。カイは千景であり、千景はカイなのに、そこには圧倒的な差がある。最初は光希の恋を成就させようとしていた。それが、気がつけば千景自身がカイに近づく努力を始めて、正直に言えば欲もあったのかもしれない。光希の理想に近づいたら千景にもチャンスがあるのではないかと、ほんの少しでも思わなかったと言ったら嘘になってしまうだろう。そんな自分自身にも気がついてしまって、それがひどく醜く思えて、どうしようもなく苦しい。でも後輩の前で泣いたら、それが一番バカみたいだ。
 滲んできた涙をもう一度拭おうとすると、その手を涼介に遮られた。
「本当、困った人だね」
 目をまっすぐに覗き込まれる。その綺麗な顔を前にしても、千景は乱れそうになる呼吸を抑えることに必死だ。
「俺さ、千景先輩みたいな困った人、放っておけないんだよね」
 放っておけないということは、やはり涼介にとっても千景は頼りないということだ。ドジで間抜けで、友達がいなくて、ひたすらに鈍臭いと思われているのかもしれない。でもきっと、涼介に悪意はない。そんな彼になんて答えたら正解なのか考えているうちに、頭の中でカイが納得するように『ふーん』と言った。
『なんだ、案外良いやつじゃん』
 カイが他人を褒めることは珍しい。
『俺、その子気に入ったよ』
「……えっ!」
 思わず声を上げた千景に、隣の涼介は驚いたように目を丸くした。「どうした?」だなんて尋ねてくるけれど、千景はそれどころではないのだ。今、気に入ったと言っただろうか。カイから他人へ好意を示す言葉は初めて聞いた気がする。
『カイ、望月くんのこと気に入ったの?』
『うん。顔も綺麗だし、良い子だね』
『いやいや、待ってよ。光希のことは?』
『え、光希?まあ、いけ好かない野郎だよね』
 カイの言葉に目の前が真っ暗になった。カイには光希の魅力が少しも伝わっていないということだ。カイが光希へ好意を抱かなかったのは千景のせいに決まっている。千景が上手く立ち回れていなかったのだ。カイは千景なわけだから、きっと何もしなくても光希のことが好きだろうという自信がどこかにあった。それが仇になってしまったということか。千景はどうしたら良いのだろう。これでは光希に顔向けができない。
 絶望に打ちひしがれているうちに、レントゲン撮影と診察を終えて、涼介と並びながらトボトボと学校へと向かう。
「骨、折れてなくてよかったじゃん」
「……うん」
「でも無理は禁物だよ。捻挫してるんだから」
「……うん」
「千景先輩?」
「……うん」
 この際、指のことなんてどうだっていい。とにかく考えなければいけないのは、光希のカイに対する恋心についてだ。カイが涼介に恋をしていると決まったわけではないけれど、光希には少しも靡く気配がないということがわかってしまった。
「はあ」
 思わず漏れ出た溜息は地面に落ちて千景の足元に停滞している気がする。
『千景?』
 頭の中で聞こえるカイの声は、心なしか気遣わしげだ。
『うん?』
『さっきから、何考えてるの?』
『……何も、考えてないよ』
『そう?でもすごく落ち込んでる。何かあったら俺に相談』
 カイが現れてから、千景の悩みや戸惑いは全てカイと共有してきた。カイだけは、ずっと味方でいてくれたのだ。でも今回はそういう訳にはいかない。
『……相談したくない時だって、あるよ』
 気がつけばそう頭の中でつぶやいていた。それに対して、カイが息を呑んだような気配。でも止まれなかった。
『カイは俺なはずなのに。カイがいる以上、俺は』 
『千景?』
『カイはいつも余裕で、格好良くて、ずるいよ』
『……ずるい?』
『俺はいつだってすごく苦しくて、自分がダサくて醜く思えて、ずっとずっと辛い』
 隣から「千景先輩?」と声をかけられてはっとした。気がつけば涼介に顔を覗き込まれていて、そのまっすぐな瞳には心配の色が浮かんでいる。
『なるほどね』
 頭の中で響いたカイの声は、少し硬いのに優しく聞こえてきた。
『可愛い千景。バイバイ』
 一瞬にしてカイの気配がなくなった。頭の中を必死で探る。カイはどこへ行ったのだろう。本来であれば盛大に慌てるはずなのに、心は随分と凪いでいた。
 少しして到着した夕方の校庭はすっかり静かになっていた。校舎の時計を見るととっくに下校時刻を回っており、千景を心配している様子の涼介と別れて一人教室へと向かう。自分の足音だけが響く薄暗い廊下を歩いて、二年一組の後ろの入り口から教室へと入った。その瞬間、飛び上がったのは教室内に人影があったからだ。窓を背に逆光になったシルエットに再び心臓が跳ねた。
「千景くんっ」
「……光希」
 駆け寄ってくる光希はひどく焦ったような表情をしている。そのままの勢いで千景の両肩を掴むとキョロキョロと体を見下ろして、最終的に包帯を巻いた左手の中指に視線を止めて顔を顰めた。
「怪我して病院に行ったって聞いて、心臓が止まるかと思った」
「ただの捻挫だよ」
「いつ怪我したの?もしかして、朝のドッヂボール?」
「……多分」
「多分って」
 光希は呆れたようにそう繰り返して、千景の左手をそっと右手に取った。
「痛かったね」
「大丈夫だよ」
 やっぱり、光希はこんな千景にも優しい。大好きな気持ちに嘘はつけなくて、余計に心がキュウっと痛くなった。でも、千景はどうしたら良いのだろう。千景は光希が好きで、光希はカイが好き。そしてカイは光希よりも涼介の方が好き。頭の中がゴチャゴチャで、もう千景一人ではどうすることもできないと思った。
「光希、お願いがあるんだ」
「なあに?」
「カイに、好きだって伝えてくれない?」
「え?」
 戸惑う光希を無視してぎゅっと目を瞑る。
『カイ、出てきてよ』
 こうして自分の気持ちと決別してケジメをつけないと、千景は先に進めないのだ。我ながら自分勝手だと思う。でも、これ以上は千景の心がもたない。
「千景くん」
「待ってね。今、カイを呼んでるから」
「いや、千景くん」
「うん。もう少し」
「千景くん!」
 右肩を強く掴まれて、はっと目を開けた。目の前には光希の真剣な顔がある。
「光希、もう少し待ってて」
「待たないよ。意味わからない」
「わかってるよ、勝手なこと言ってるって。でも、もう俺」
「千景くんは」
 千景の言葉を遮るように声を荒げた光希を見上げる。まっすぐに見つめられると少しも動けなくなった。
「千景くんは、俺に惚れてるんじゃないの?」
 思わず大きく目を見開いた。
「……えっ」
 千景の気持ちがばれていたなんて、思ってもみなかった。恥ずかしさで心が縮こまって、今までの苦しみ全部が馬鹿みたいに思える。慌てて首を横に振ろうとしたのにできなかった。動いてしまったら、不甲斐なさに込み上げた涙がすぐに溢れそうだったのだ。
「千景くん、違う?」
「……ち、違うよ」
「俺はね、カイさんが好き」
 心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。知っていたことなのに、それ以上は聞きたくなくて顔を背ける。目をぎゅっと瞑ると涙がボロリと溢れた。
「でもね。それは千景くんのことが好きだから」
 ふわりと石鹸の香りに体全体が包まれた。頬を流れた涙は、光希の肩に吸い込まれていく。それが申し訳なくて体を離そうとすると、背中に回った腕が一層しっかりと千景を抱きしめた。
「一生懸命な千景くんが好き。可愛い。無理にカイさんみたいにならなくていいよ」
「だ、だって」
「カイさんみたいになれたら、千景くんが生きやすくなると思ったのは本当。でも、やっぱり千景くんはそのままでいい。俺に守らせてくれたらいいよ」
 光希はカイのことが好き。でもそれは千景のことが好きだから。思わぬ展開に目を瞬かせると、涙がはらりと頬を伝った。
『カイ?もしかして、カイは全部知ってたの』
 尋ねても返事は返ってこない。でもなんとなく、カイは千景の盛大な勘違いをそのままに楽しんでいたのかもしれない。それなのに、千景は勝手に張り切って、嫉妬して、苦しんでいたのだ。
「ねえ、千景くん」
「……うん?」
「好きだよ。千景くんも俺に、惚れてるんでしょ」
 ゆっくりと頷くのが精一杯だった。ぎゅっと肩に顔を埋めると、体に回る腕に力が入って、それから髪を優しく撫でられる。胸いっぱいに幸福感が溢れる。
『カイ』
 いつかのように気配すら感じられない。もしかしたらカイは自分勝手な千景に怒って、しばらく千景の前に現れてくれないかもしれない。
「カイさん、何か言ってる?」
「……ううん」
 ゆるく首を横に振ると、光希は優しい声で小さく「そっか」と言った。


 *******


 かちゃりと扉が閉まる音に、光希は目を開けた。暗い部屋の中は静かで、二段ベッドの上段からはいつもの気配が感じられない気がする。光希はゆっくりと起き出すと、そのまま部屋を後にした。
 キョロリと非常灯が光る廊下を見回すと、廊下の突き当たりの角を誰かが曲がったように見えた。あの先はただのコミュニティスペースで、簡易的なベンチがあるだけだ。疑問に思いながらも静かに廊下を進んで角を曲がると、その先のベンチには千景が座り込んで窓の外の満月を眺めていた。
「千景くん」
 驚かせないようにそうっと声をかけると、彼がふわりと振り返った。分けられた前髪に鋭い眼光は、もしかしたら千景ではないのかもしれない。
「カイさん?」
 声をかけて近づくと睨みつけられる。
「お前のせいで、千景が立派になっちゃっただろ」
「え?」
「千景はあのままで十分可愛くて完璧だったのに、まさか俺みたいになりたくなるだなんてね」
 そう言って小さく息をついた彼は、一変して優しい目をして左手の中指に巻かれた包帯を眺めている。
「カイさんは、千景くんに恋してるの?」
 光希がそう尋ねると、彼は勢いよく光希を振り返って「はあ?」と言った。
「恋だなんて生ぬるいよ。あの子は俺だけの大事な子なの」
「いや、もう俺だけの大事な人ですよ」
「あのね」
「カイさんが守ってきた宝石みたいな千景くんは、きっともうカイさんがいなくてもやっていけますよ」
「……うるさい」
 そう言って静かに目を瞑った姿は、カイが出現した後の千景と重なって見えた。
「カイさんも、千景くんを守るたびに代償を払ってるんでしょ」
「……」
「今だって頭が痛いくせに」
 目を丸くして光希を振り返った彼は、一瞬すると表情を緩めて満月の方を向いてしまった。
「本当、いけ好かないね。俺は望月涼介の方が好き」
「望月?なんで」
「だってあの子、ちょっとだけ俺に似てるから」
 そう言うと、カイはベンチにゆっくりと横になった。
「じゃあね。俺は休むから」
「え、ここで?」
「もちろん、お前が部屋まで運ぶんだよ」
 くわりとあくびをして、ゆっくりと瞼を閉じていく様子を眺める。しばらくの間、もしかしたらこの先ずっと、カイには会えないのかもしれない。
「最後に、千景くんに会わなくていいの」
「気が向いたら言っておいてよ。千景が嫌でも、俺はずっと一緒にいるって」
 そうして完全に瞼を閉じると、力が抜けたように顔が傾いた。前髪がさらりと流れて、いつもの千景に戻る。カイからの言葉は、明日の朝一番に千景へ伝えようと思った。