いつも以上に早くにベッドから起き出した千景は、目覚まし時計の設定を解除しながらあくびを漏らした。そしてグッと背伸びをする。昨日の合同体育のおかげか、ひどい筋肉痛だ。渋い顔をしながらも布団から抜け出して、二段ベッドのハシゴをゆっくりと降りた。
『そんなに体が痛いのに、本当に朝から練習するの?』
 頭の中で聞こえるカイの声に、こくりと頷く。だって千景は決めたのだ。千景という人格が少しでもカイに近づいたら、きっとみんなが幸せだ。とりあえず寝癖を直そうと洗面台の鏡に向き合った。鏡の中で千景と重なって見えたのはカイの顔だ。かき分けられた髪に、意思の強そうな瞳。
『千景、無理していない?』
 無理はしていない。そのはずだ。だってまだ少しも頑張ってもいないのだ。
『千景が俺に近づこうだなんて百年早いんだけどな』
 さすがに失礼だなと思ったけれど、カイの顔は千景を心配しているように見える。
「大丈夫。努力しなくちゃ」 
 静かに言葉を返すと、カイの姿は消えていった。カイとは異なり、千景は今日もひどい寝癖だ。でもこんな早朝にドライヤーを使ったら光希が起きてしまう。ひとまず悩みつつも中学ジャージから適当な運動着に着替えて、最後にスポーツタオルを頭に被り、顎の下で結んで止めた。
『千景、正気?』
 正気も何も、完璧な寝癖隠しだ。最後にもう一度洗面台の鏡で自分の顔を見つめる。タオルを被った間抜けな姿が、心細そうな顔と相まって余計に間抜けだ。だからカイを真似て目に力を入れてみた。そしてふにゃふにゃな唇もしっかりと引き結ぶ。大丈夫、大丈夫。今日から頑張るのだ。
 まだベッドに眠っている光希にこっそりと手を振って、静かに部屋を後にした。向かう先は寮の裏手にある芝生の庭だ。
 昨日、光希は一緒に特訓をしようと提案してくれた。きっと彼のことだから本気だろう。でも昨晩寝る前に思ったのは、光希の手を少しでも煩わせたくないということだった。これは千景の弱さの問題である。
「まずは?何をするの」
 いつの間にか、光希と同じ運動着を着たカイが隣に立っている。頭にタオルを被っていないところがカイらしい。もしかしたら、心配して出てきてくれたのかもしれない。
「まずは、走り込み」
「その前に準備運動ね」
「あ、そうか」
 無音のラジオ体操の後、柔軟体操まできっちりやって、それからひたすらにダッシュだ。足が縺れないように、縺れても軌道修正できるように、繰り返しダッシュを重ねる。本当は二回目でヘトヘトになったけれど、苦しいからこそ意味があると信じて、何度も何度も走った。カイは途中からつまらなそうに芝生の上で胡座を組んで千景を見ていた。カイは良いよな、と思う。千景のように練習しなくても元が器用だから、ずっと速く綺麗に走れる。素敵な人に、まっすぐな恋心を抱いてもらえる。カイは千景でもあるから確かに誇りにも思うけれど、同時に羨ましくて仕方がない。そんな気持ちを抱えたまま、どれくらい走っただろう。意味があるのかもわからない走りこみに疲れて、カイの近くにゴロンと寝転んだ。
「ずっと意味わからないことしてるけど、大丈夫?」
「はあ、はあ」
「こういう時、事前に水とか用意するんじゃない?」
「ああ、確かに」
 考えつきもしなかった。汗が止まらなくて、疲労感にこのまま眠れそうだった。ゆっくりと目を瞑って呼吸を整える。遠くに聞こえるのは、鳥の囀りと、誰かの足音。妙に忙しないその歩みは、一瞬止まってからこちらに向かってくる気がする。
「千景くん!」
 庭に響いたその声に、思わず目を開けた。隣にカイの姿はなくて、その代わりスウェットを着た足が近づいてくる。頭を少し動かしてみると、声の主と目があった。
「はあ。もう、千景くんって信じられない」
「……光希」
「何やってんの?」
 そう言って差し出された手をゆっくりと掴むと、ぐいっと引っ張られる。そうやって芝生に座る姿勢になった千景の正面に、光希がスッとしゃがみ込んだ。
「もしかして、練習してたの?」
 この場合、素直に頷くべきか悩んでしまう。なんとなく誤魔化そうと宙を眺めて首を傾げてみると、光希が大きく息を吐いた。
「朝起きたら部屋にいないし、なかなか帰ってこないし、どうしたのかと思うでしょ」
 年上の男が不思議な時間に部屋からいなくなっただけだというのに、わざわざ探しにきてくれた。それが無性に嬉しくて、思わずチラリと光希の目を覗き込んだ。
「……光希、心配してくれたの?」
「当たり前でしょ。俺はいつだって、千景くんが心配」
 光希はそう言うと、少しだけ笑いながら千景の顎下へと手を伸ばした。千景がドギマギしながらその手を受け入れると、タオルの結び目を外し、そのまま優しくこめかみと額を拭ってくれる。
「言ったでしょ。千景くんは、俺と、特訓するの」
 そうは言ってもなあ、という顔をしたのかもしれない。千景が黙っていると、突然両頬を摘まれる。そんな些細な接触に心臓が跳ねた。
「わかった?」
 そんなに優しく問われたら頷くしかなくて、千景は光希の顔を見上げながら微かに頭を動かした。

*******

 今日もカイ以外とは誰とも話さずに終わった学校生活。でも千景の心はふわふわと弾んでいた。急いでスクールバッグに教科書を詰めながら、千景は入り口の方を見やる。ここ最近、放課後になると迎えにきてくれる光希の姿はまだ見えない。
『千景、そんなにあの子が好き?』
 頭の中で響いたその声に、慌ててブンブンと首を横に振った。好きに決まっているけれど、一応カイには内緒にしなくてはいけないことだ。
『光希はすごく良い子だけどさ。俺は練習が好きなの』
『俺になるための練習?』
『うん。早くカイに近づきたい』
『無理無理。俺と千景は百億光年離れてる』
 その言葉に思わず唇を尖らせた。カイの言葉は正しすぎて、時に辛辣だ。
「千景くん」
 教室の後ろの入り口から聞こえてきた光希の声に、慌てて振り向いた。自然と笑顔を浮かべると、光希もにこりと笑って手をあげる。急いで席を立って、光希の元へと近づく。周りからの視線は気にならなかった。
「光希、いつもありがとう」
「いいえ。それより、カイさんとおしゃべりしてたの?」
「え?」
「唇尖らせて、また何か言いくるめられてた?」
「……カイは賢いから」
 千景がそう言うと、光希は眉尻を下げて優しく笑った。
 二人で一緒に寮まで帰り、運動着に着替えると、寮の裏手にある芝生まで向かった。整備されているのに使い道がまるでないこの庭は、最近では千景と光希の練習場所となっている。
「よし、千景くん。今日もたくさん走るよ」
「うん」
「でも辛くなったら、カイさんに助けられる前に俺に言うんだよ」
「……うん」
 光希を見上げて頷くと、肩をポンポンと叩かれる。叩かれたところがじんわりと甘く痺れた。
(ダメダメ。光希はカイを煩わせたくないだけ。俺は少しでもカイみたいにならないと)
 それが光希のためだ。光希の理想であるカイに少しでも近づいたら、光希もきっと喜ぶ。それが光希の恋を応援することになるのかはわからないけれど、その複雑な恋心を少しでも救いたい。それが今の千景にできることだと思うのだ。
 それからはルーティン通り必死で走った。最近では少しずつ光希のスピードに追いつけるようになってきた気がする。ドッヂボールの練習もして、ボールの受け止め方も理解できてきた。
「千景くんは避けるのが上手だからね」
「そうかな」
「キャッチもできるようになってきたし、千景くんはちゃんとできるよ」
 光希にそう言われる度に、やはり光希のために頑張ろうと強く思うのだ。
 そうして毎日欠かさず訓練を重ね、あっという間にやってきた体育祭当日。よく晴れた空に、今年も押し寄せた観客は大盛り上がりだ。
「去年よりも女子高校生が多くないか」
 整列しながらも、周りのクラスメイトたちは観客の様子に興味津々らしい。
「ほら、一年にすげえイケメンが二人もいるだろ。新川光希と、あと」
「ああ、望月涼介」
「あの二人目当てで、うちの姉ちゃんも来るって言ってた」
「良いよな、イケメンは」
 光希は納得だけれど、もう一人は知らない名前だ。チラリと一年の列を伺い見てみる。まっすぐに前を見据えた光希を見つけて、少しだけ心臓が跳ねた。慌てて視線を逸らしたけれど、ちょっと見ただけでもかっこいいのだから本当にずるい。
 それからダラダラと準備運動をして、各担当競技へと散らばっていく。
『千景、いよいよドッヂボールだね』
『うん。緊張してきた』
『たくさん練習したんだから、なんとかなるんじゃないの』
 カイは昔からここぞという時になるとなると優しくなる。一緒にいるよと言ってくれるようで、それだけで千景は不安感を拭えるのだ。でも、今日の千景はきちんと一人で頑張ると決めている。
『俺、頑張るから。カイは見ていてね』
『……頼もしいね』
 ドッヂボールコートまでやってくると、光希が千景を見つけて近づいてきた。
「千景くん。頑張ろう」
「うん。今日までお世話になりました」 
 頭の中で『本番はこれからなんだよ』とカイが言った気がしたけれど、まずは光希にお礼が言いたかったのだ。光希はきょとんと目を瞬かせてから、ふっと吹き出すように笑った。
「今日まで本当によく頑張ったよ」
「うん」
「でも」
 光希がそっと千景の耳に唇を寄せてくる。その近さに、千景の心臓は素直すぎるほどに高鳴った。
「俺にも、守らせてね」
 最後に耳の辺りの髪をさらりと撫でられる。千景がはっと我に返った時には光希の後ろ姿が目の前にあった。
(やっぱり、かっこいい)
 千景相手にもそんなことが言えるのだから、これがカイ相手になったらどうなるのだろう。きっと本領発揮して、まっすぐに恋に落とすに違いない。そう思うだけで、胸がズキリと痛んだ。
(勝手に傷ついて馬鹿みたい)
 ちょっといじけた気持ちになりながら、試合のためにコート内に入る。こんな気持ちを抱えていたら、せっかくの練習が水の泡になりかねない。千景は意識を集中させて、大きく息を吐き出した。
 ホイッスルが鳴って、試合が始まる。最初の対戦相手は二組だ。元同室生であるゴールドネックレス男もいて、体格だけでみるとなかなか強そうだ。それでも千景は必死でボールを避け続けた。あんなに練習したとはいえ、序盤はボールを受け止める余裕はなくて、コート内を走り回る。その間に何度も光希に助けられて、心の中は不甲斐なさでいっぱいになった。
(このまま終わるのは情けない)
 次第に頭の中をそれだけが支配していく。そろそろ試合が終わってしまうだろう。だから一回くらいはボールを受け止めようと千景は心に決めた。ちょうどゴールドネックレス男が千景めがけて大きくボールを振りかぶる。
『千景、逃げろ』
 カイの声も聞こえてくるけれど、千景はカイも認める頑固者なのだ。すごく怖いけれど、絶対にあのボールを受け止めたい。ボールから目を逸らさず、真正面に構える。
『千景!』
『大丈夫、練習したんだから。カイは見ていて』
 ボールが勢いよく千景めがけて飛んでくる。このままでは顔に当たると確信があって、千景はなんとか顔の前に手を構えた。強烈な衝撃と共に、左手に激痛が走る。それでも絶対にボールを落としてたまるかと必死になった。何がどうなったかわからないままに、暴れるボールを抱え込む。
『千景!?』
 頭の中で響くカイの焦ったような声に、最初に感じたのは喜びだった。カイではなくて、確かに千景自身がボールを受け止めたのだ。これは千景にとって快挙だった。でも一瞬遅れて、左手の中指は呻き声をあげそうになるくらい強く痛み始める。
「千景くん!」
 右方向から聞こえてきた光希の声に、なんとかボールを差し出した。
「せっかくなんだから千景くんが投げな」
 指が痛すぎて本当は息もできないけれど、ここで断ったら変に思われるだろう。だから千景は一生懸命にボールを外野へと飛ばした。なんとか外野のチームメイトまで届いたのを見届けると、次の瞬間にはホイッスルが鳴って、随分と呆気なく試合の終わりを告げた。
「結果、……二組の勝利!」
 審判の言葉に盛大に喜ぶ相手チームをぼんやり見つめる。
(……負けちゃった)
 運動でこんなに悔しいと思うのは初めてだった。千景が逃げ回るだけでなく、もっと活躍していたら勝てたかもしれない。練習に付き合ってくれた光希にも、チームメイトにも、心から申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
 挨拶の後、励まし合うチームメイトを直視できず、思わず俯く。たかが体育祭かもしれないけれど、千景にとっては大切な試合だったのだ。結局カイのようには上手く立ち回ることができず、試合に敗北した千景はただのいつも通りの千景である。
『千景』
 気遣わしげなカイの声に、今はあまり明るく返事ができそうにない。
「千景くん!」
 光希の声にふと顔をあげる。その瞬間に、掬われるように正面から抱きしめられた。石鹸の匂いがふわりと香って、運動後の熱い体温が体を包んだ。
「み、つき?」
 呆気にとられているうちに、がばりと体を離した光希が千景を見つめて、嬉しそうに笑った。
「すごいよ!練習たくさんしたもんね」
「え?」
「あの球、怖かったでしょ?それなのにちゃんと受け止めてた」
 光希はこんなにダメな千景のことをそうやって評価してくれるのか。情けない気持ちを隠して、光希に向けてやっと笑顔を返した。
「いつもみたいに笑ってよ。千景くんは練習をたくさんして、本番までこんなに頑張ったんだから」
 そう言ってもう一度抱きしめられているうちに、だんだんと心が落ち着いてくる。そうか、千景は千景なりに頑張ったのだ。それは認めてあげるべきかもしれない。
『そうだよ。千景は頑張った。俺が代わってもよかったのに、ちゃんと立ち向かったよ』
 カイの言葉を聞いているうちに、周囲にチームメイトたちが寄ってくる。
「一回戦で負けたのに、どうしてそんなに抱き合えるんだよ」
 おそらく光希の友達なのだろう。面白そうにそう言われたら千景も面白くて、思わず彼を見上げて笑ってしまった。彼は目を丸くして驚いたような顔をしたから少し馴れ馴れしかったかと反省しつつも、心は少しだけ明るくなる。
『でも本当に困った子だね。指、大丈夫なの?』
 カイの声にこっそり頷いた。まだかなり痛いけれど、放っておけばすぐに治るだろう。
『アスリートに怪我はつきものだから』
 千景がそう返すと、カイは一瞬間をおいて思い切り吹き出した。
『あはは!千景って本当、どうかしてるね』
 そう言ってから頭の奥に消えたカイに心の中で感謝を伝える。幼い頃、カイが現れてからは危険な場面はいつでもカイが救ってくれていたのだ。ひどい頭痛と引き換えにしてでも、助けてもらわなければいけない機会が何度もあった。でも、今日で少しはカイに近づけたと思ってもよいだろうか。
 それからは五十メートル走に出場した光希を応援して、光希と昼休憩を過ごして、午後は見知った顔を応援することで過ごした。主に光希のクラスメイトの小林や、ドッヂボールで少しだけ打ち解けた春山など、応援できる相手は後輩ばかりだ。当然自分のクラスメイトも応援したかったけれど、千景が応援して嫌な気持ちになるのでは悪くて、基本的には校庭の隅の木の下で気配を消して過ごし続けた。
「午後の借り物競争、応援するよ」
「うん。絶対にね」
 昼休憩中に光希と約束をしたけれど、借り物競走が行われるコースの周りは主に近隣高校の女子生徒で溢れていて、近付いてもいいものか考えてしまう。
「あ、やっと見つけた」
 突然近くから聞こえてきた声に、膝を抱えてきゅっと身を竦めた。千景に話しかけてくるのは、光希か、その仲間たちくらいだ。その誰でもない声に、精一杯気配を消してみる。
「千景先輩」
 今、千景の名前を呼んだだろうか。体をびくつかせて目だけでチラリと見上げてみると、そこにはスラリとした体躯の綺麗な男が立っていた。体操服から、紛れもなくこの学校の生徒だとわかる。こんな綺麗な子が光希以外にもいたことが驚きだった。
「千景先輩、聞こえてます?」
「……はい」
「俺、望月涼介。名前くらいは聞いたことありませんか?」
「……あぁ」
 確か今日の開会式でのことだ。クラスメイトから聞いた名前がそんな感じだった気がする。だから適当に頷いてみると、涼介は口角を上げて千景の左隣にしゃがみ込んだ。あまりの近さに体を硬直させてしまう。ふわりと香るのは、花のような匂い。初対面だから何も知らないけれど、彼らしい香りだなと思った。 
「千景先輩。新川光希とどんな関係?」
「……え?」
「付き合ってるの?」
「ま、まさか!」
「本当?」
「あんなに素敵な子が、俺を好きになるわけない。それに」
「それに?」
 続きを言いかけて、咄嗟に口を噤んだ。光希に好きな人がいるだなんて、それは千景が勝手に他人に話していいことではない。
「千景先輩?」
「な、なんでもない」
「……ふーん」
 校庭の砂を眺めるしかない千景を、涼介は横からじっと見つめてくる。その視線に耐えられなくて、思わずチラリと目を向けてみる。視線があった瞬間、どうしてか花が綻ぶような笑顔を向けられた。その意味がわからなくて首を傾げると、涼介はさらに体を近づけてくる。
「じゃあ、本当に幽霊と付き合ってるの?」 
「……だったら、どうなの」
 千景自身もよく知らない噂だ。でも、涼介はそんな噂を信じているらしい。なんだか少しだけ悲しくて、かさぶたができている膝小僧を見つめる。
「まあ、どうでもいいんだけどね」
 その声は本当にどうでもよさそうで、思わず顔をあげると、綺麗な微笑みに視線を奪われた。見惚れているうちにぐっと顔を近づけられる。中性的で、本当に綺麗な顔だ。少しカイに似ているかもしれない。
「ねえ。幽霊よりも、俺にしない?」
「……え?」
 言葉の意味を考えながら戸惑っている間に、膝を抱えていた左手を取られる。ドッヂボールで傷めた中指がズキリと痛んだ。
「……あれ、この指」
 涼介が何かを言いかけたと同時に、すぐに近づいてくる足音とたくさんの視線に気を取られた。
「千景くん!」
「……光希」
 なぜだか怖い顔をしている光希が、涼介には目もくれずに近づいてくる。隣からは大きな舌打ちが聞こえてきた。
「千景くん!借り物競走、応援してくれるって言ってなかったっけ?」
「う、うん」
「それなら、来て!」
 涼介に触れられていた左手の手首を、光希にしては珍しく強引に掴まれる。そのまま引っ張り上げられて、ズボンの砂を払う間も無く手を引かれるままに走り出した。
「千景先輩、ちゃんと保健室行ってね」 
 後ろから涼介の声が聞こえてくる。振り返ると「またね」と手を振られたために、千景も空いている右手でひらりと手を振り返した。
 人の間を縫ってなんとかコース内に入ると、そこからは大歓声に囲まれるままにゴールを目指した。毎日の特訓はなんだったのかと思うほどに、光希のスピードについていけない。一緒に練習した日々は、きっと光希なりに手を抜いて千景に合わせてくれていたのだ。そのことに気がついて、光希の優しさが嬉しいやら、手加減されたことが悔しいやら、複雑な気持ちになった。なんとか二番でゴールテープを切っても気持ちは晴れない。指だけでなく、強く掴まれた左手首が痛かった。
 手は離されることなく台の上に立たされて、近くでは体育祭実行委員がマイクを片手に競技を進行をしている。順位はゴールをした順番で決まるわけではなく、与えられたお題に対する回答を観客が審査して、それがポイントとして加算されるらしい。
「一位でゴールした三年四組、丸山くんのお題は?」
「変なものです」
 丸山と呼ばれた生徒の隣には光希のクラスメイトである小林が立っていて、「え、変なもの?僕が?」だなんて混乱している。
「彼は写真部の後輩ですが、幽霊研究家を目指している愛すべき変態なので」
 会場が笑いに包まれる。千景は勝手に羨ましくなった。小林は可愛くて優しくて、確かに愛すべき男の子だ。
(なんか、急にドキドキしてきた)
 光希が与えられたお題は一体何だろうか。千景は小林のように役に立てるのか。それが不安で仕方がない。
 マイクが光希に向けられる。どうか、お題が「幽霊と付き合っていそうな人」であってくれ。そうしたら誰がなんと言おうと千景が一位だ。
「二位でゴールした一年一組、新川くんのお題はなんでしたか」
 光希の名前が呼ばれただけで、女の子たちの黄色い悲鳴が聞こえてくる。頭の中で『カイ、どうしよう』と尋ねてみる。隣の光希が咳払いをして、ゆっくりと口を開いた。
「……世界で一番、可愛い人です」
 会場から色々な悲鳴やら歓声やらが聞こえてきて、思わず光希の横顔を振り向いた。光希はまっすぐに前を向いている。
「それは、えっと、素晴らしい。ですが、そんなお題ありましたか?」 
 体育祭実行委員がワタワタと慌てている。
「……あー、すみません。本当は少し違います」
 光希はそう言うと、千景をチラリと振り返って手首を掴む手に力を込めた。
「お題は、可愛いもの、だったんですけど。その言葉だけでは、この人には不釣り合いだなと思って」
 謎の歓声が上がって、会場は大盛り上がりだ。千景は顔が熱くなった気がして、思わず俯いた。光希は体育祭を盛り上げるためにわざと仕掛けたに違いないのに、間に受けて照れるなんてどうかしている。
「千景くん」
 名前を呼ばれると同時にきゅっと腕を引かれる。トンと軽くぶつかった体に身をすくませていると、光希が顔を近づけてきた。
「顔、赤いよ」
 信じられないくらい恥ずかしくて、思わず光希の腕に顔を隠した。でも羞恥心と同じくらい、心が乱れて泣きそうだったのだ。光希は千景をからかっているに違いない。どんなお題であれ、千景を思い出して選んでくれたことが嬉しいのに、無性に切なかった。
 結果的に、借り物競走は光希が総合優勝した。
「ありがとう。千景くんのおかげ」
 そう言って離された左手首は、中指よりもずっと重たく疼いた気がした。
 感情は少しも落ち着かないままに、次はいよいよ体育祭のフィナーレである選抜リレーだ。
『なんか、もしかして色々と大変だった?』
 突然カイの声が聞こえてきて、レーンの内側で準備運動をしながらも不貞腐れてしまう。
『大変だったよ。綺麗なイケメンに絡まれるし、光希には揶揄われるし』
『まあ、ちょっとは俺の魅力に近づいてるってことじゃないの。よくわかんないけど』
 そうなのだろうか。思わず首を傾げて、「そうだといいけど」と呟いた。
「神山千景先輩!頑張ってくださーい」
「頑張れー!転ばないように!」 
 小林や春山が観客席から応援してくれる。千景はそれに応えるように大きく頷いた。
「あれ、千景先輩も選抜されてるの?」
 聞き覚えのある声に振り返ると、涼介が千景を見下ろしていた。「俺にしない?」だなんてキザなセリフで千景を揶揄ってきた印象が強く、自然と身を引いてしまう。そんな千景の様子に気が付かないのか、涼介は器用に千景の左手を掬い取った。
「こんなに腫れてるけど、保健室には行かないタイプなの?」
「……」
「バトン、握れるの?」
「あ……、確かに」
 どんどん腫れていく指には気がついていたけれど、保健室に行ったら鈍臭い自分を認めるようで嫌だったのだ。でも言われてみれば、バトンを握って走るには少し不便かもしれない。あまり構わないようにしていた指をゆっくりと曲げ伸ばしをしてみる。中指はあまりにも痛くて曲がらず、人差し指も少し鈍痛が走った。
「今から行ってきたら?」
「いい、行かない」
「普通はリレーよりも怪我の手当が優先じゃない?」
「大丈夫」
「頑固だな」
 涼介はそれ以上何も言わずに、千景の背中をポンポンと叩いてチームメイトの方へと向かっていった。あれは涼介なりに心配してくれたのだろうか。それなら少し冷たくしてしまっただろうかと思っているうちに、ピストルが鳴ってリレーが始まる。
『千景、とりあえず余計なことは考えずに集中だよ』
 カイの言葉に頷く。あんなに練習したのだから、絶対に光希までバトンを繋ぐのだ。
 リレーはどんどん進んでいく。一組は今のところ三位だ。これからどうしたら巻き返せるだろう。千景にできることは、どうにか差を広げないように走るしかない。
 あっという間に千景の順番が回ってきて、スタートラインに立った。前の走者からバトンが渡されて、左手に持ち替える。しっかりと握ろうとすると指が痛くて、思わずバトンを落としそうになった。でも必死になって握り締め、それからは懸命に走った。どんどんと背後から近づいてくる足音が怖くてたまらない。瞬く間に抜かされてしまって、気がつけば四位に繰り下がった。
(落ち着け。光希まで、ちゃんと繋ぐんだ)
 それだけを考えて、手を振る光希が見えても気を抜かずに腕を振り抜き、精一杯腕を伸ばした。しっかりとバトンが渡ったことを確認するのと同時に、光希が千景にだけ見えるようにウィンクをした。
(わあ、かっこいい)
 そう思いながら光希を見送った瞬間、足が縺れる。最悪だと思ったかどうかのうちに意識が遠のいて、気がついたらレーンの内側にポツンと座っていた。
「先輩!大丈夫ですか?」
「すごい受け身ですね!」
 小林と春山の言葉に状況を整理して、ズキリと走った頭痛に、きっとカイが一瞬意識を主導したのだとわかった。
『カイ』
『まあ、まあ。それより、あの子すごいよ』
 結局助けられたことを不甲斐なく思ったのに、促されるままに光希を見ると、ぐんぐんと二人を抜かしたところだった。この勝負は一体どうなるのか。ハラハラとしながら見ていると、誰かの足が視界を遮った。ふと見上げると、そこには綺麗な顔がわかりやすく怒っている。
「望月くん……」
「千景先輩、保健室行きますよ」
 身体中についた砂を払われながら、腕を引かれて立ち上がる。
「先輩って、鈍臭いのかそうじゃないのかわからないね。もしかして、二人いる?」
 心臓がドキリと跳ねた。言葉に詰まっていると、涼介は「まあ、なんでもいいですけど」と言って、しっかりと右手を繋いできた。
「早く。新川光希に見つかったら大変だよ」
「え?」
「……あいつといると、苦しいでしょ」
 自分でも気が付かなかったことを正面から指摘されるというのは、ただただ驚きだ。目を丸くして言葉に詰まってしまう。
「千景先輩」
 優しく手を引かれる。千景を見つめる眼差しも殊更優しくて、怖いほど透き通っていて、確かに見抜かれていると思った。