五月の下旬に開催される体育祭は、学年を超えた合同チームで優勝を競うらしい。一年一組である光希は、二年一組、三年一組とチームを組み、全五組で争うのだ。一位になれば優勝特典があると学内は盛り上がっているけれど、光希にとって大切なのは二年一組が仲間であるということだった。今日も体育祭の練習として全一組での合同体育だ。二年の列を見ると、そこには。
「あ、神山千景」
光希の前に並ぶ春山がそう言った。思わず睨みつけるけれど、千景を見てるらしい彼は全く気がついていない。春山の隣に並ぶ安田も千景を見て、「本当だ」と言った。
「顔、すげえ可愛いよな」
「本当、変な噂さえなければな」
変な噂さえなければ、なんだというのだろう。頭にきてわざと大きく溜息をつくと、二人は慌てたように振り返った。
「あ、光希。神山千景と仲良いんだっけ?」
当たり前にそうだとわかるように頷いてみせる。
「でも、恋人が幽霊なんだろ」
「なんか、暴れるらしいじゃん」
広がりすぎて収集がつかなくなっている千景の噂は、一年生の間でもまるで共通認識だ。でも光希は千景の誤解を解きたいと思っている。それがカイという人格が必死で作り上げた千景のお守りだとしてもだ。
「暴れるわけないよ。少なくとも、俺は見たことない」
浮世離れはしているけれど、ちゃんとした人だ。一生懸命で不器用。でもそこが可愛い。
「まさか、お前もあの人に狂わされてるのか」
春山が揶揄うように言った。だから肩をすくめて、腹が立つその顔ではなくて千景に視線を向ける。
「誰だって狂うよ」
少し不安そうな立ち姿に、すっと鼻筋の通った綺麗な横顔。肌は透けるように白く、その線の細さは男子高校生の中で体育なんてさせたくないほどだ。
「なんか、俺も話してみたいな」
今度は感心したようにそう言った春山に、少し慌ててしまう。
「ダメに決まってる」
「なんで?」
「……なんでって」
そんなの、光希が嫌だからだ。でもそれは言わずに、あえて含みを持たせるように春山に向かって大きく頷いておいた。
「やっぱり、幽霊か?」
混乱している春山を見て少し後悔する。これではカイと一緒だ。千景を孤立させるのは光希の本意ではないのに、半端な人間を近づけさせたくない。千景を守るのは、すごく難しい。
教師の指示で適当に準備体操をして、担当種目ごとにバラバラと校庭に散らばっていく。光希はメインとしてドッヂボールと五十メートル走、借り物競走、そしてリレーにも選抜されている。今日はドッヂボールとリレーを練習するだけになりそうだけれど、当日は忙しくなるだろう。
校庭の隅に描かれたドッヂボールコートに向かってみると、集団から少し外れた場所にポツンと千景が立っていた。まさか、と心配になった。こんな野蛮な競技に選出されたというのだろうか。
「千景くん」
光希が声をかけながら近づくと、千景はパアッと花が綻ぶような笑顔を浮かべた。光希に会えたこと、話せたことが、すごく嬉しいのだとよくわかる。その笑顔を見て周りの生徒たちがざわついたことに気がついて、光希は慌てて千景を真上から見下ろすように壁として立ちはだかった。
「み、光希?」
「うん」
「なんか近いけど、どうしたの」
「千景くん、ドッヂボールに出るの?」
「うん」
「ドッヂボールって、ボールを当てたり、当てられたりする競技だよ」
千景にはあまり俊敏なイメージがない。心配でそう聞くと、千景は目を丸くして頷いた。
「それくらい、知ってるよ。大丈夫」
大丈夫なわけない。光希が守るとしても、せめてボールがぶつけられないようにできないだろうか。少し考えて、光希は思いついた。
「カイさんは?」
「え、カイ?」
「うん。カイさん、いない?」
カイがどんな時に現れるのかはいまだにわからない。普段あまり出現頻度は高くない気がするけれど、きっと千景のピンチに出て来るはずだ。ドッヂボールは十分に危険だから出てきてくれないだろうか。千景は一瞬目を見開いてから唇を引き結び、小さく「待ってね」と言って目を瞑った。
「……ダメだ。己の力で頑張れって」
「己って」
カイだって千景のくせに、なんて人でなしだろう。そうとなれば、何があろうと絶対に光希が千景を守るしかない。元々そのつもりではいたけれど、そう改めて決意した。
「……光希、ごめんね」
「うん?」
「カイに、会いたかったのに」
チラリと上目遣いに見つめられて、その破壊力に心臓が止まるかと思った。千景の目はいつも星を閉じ込めたようにキラキラしている。
それにしても、千景は何を言っているのだろう。今日もまるで頓珍漢で、全く伝わらない光希の好意。思わず笑みがこぼれる。
「千景くん」
「……うん」
「俺と、頑張ろうね」
少し迷ったけれど、右手を伸ばしてその髪に触れた。艶やかで、柔らかくて、優しい手触りが千景らしい。年上に対して失礼かと思ってすぐに手を引っ込めたけれど、目の前の千景がギュッと目を閉じて楽しそうに笑ったから、光希の心はじんわりと幸せに溢れたのだった。
*****
千景は体育祭を前に憂鬱な日々を過ごしていた。体を動かすことは全く得意ではない上に、当日は保護者や近隣住民、他校の生徒まで見にくる大イベントなのだ。千景には何の楽しみも得もないと思っていた。
そんな千景が出場する種目、それはドッヂボールである。クラスで出場競技を決める際に、余った競技に余っていた千景が当てはめられてしまったのだ。本来溜息の絶えない毎日だったけれど、この合同体育で同じチームに光希がいると知ったらちょっとやる気も出るというものだ。
『カイ、光希もドッヂボールだよ!』
『へぇ。千景、ボール顔に当てないようにね』
光希もカイに会いたがっていたからチャンスだったのに、カイはあまりドッヂボールをする光希に興味がないみたいだ。これでは千景の役割をまっとうできない。そう思って落ち込んだけれど、試合が始まったらボールから逃げることに必死でそれどころではなくなっていた。
試合終盤になると味方もどんどん減ってきて、千景にもピンチが何度も訪れた。そんなピンチは、光希が全部救ってくれたのだ。かっこいい光希を見るたびに心が高鳴って、うっかり見惚れるほどだった。それでもせめてチームの足枷にはならないように動き回り、やっと練習試合が終わる頃には、担った仕事量に見合わず全身が悲鳴を上げていた。
『千景、お疲れ様。次はリレーだよ』
カイの言葉に大きく息をついた。実は、千景は足なんて全く早くもないのに選抜リレーの選手に選ばれてしまったのだ。本当に足が速いクラスメイト以外は誰も選ばれたくなかったために選抜されたに決まっている。
選抜メンバー以外は校庭にぐるりと描かれたレーンの内側に座って優雅におしゃべりをしている。今日は敵が誰もいないバトンの受け渡し練習みたいなものだけれど、きっと千景の番になったら新幹線が耕運機ぐらいのスピードになるはずだ。それはもしかしたら耕運機に失礼だろうか。耕運機ははあのスピードに意味があるはずであり、千景が遅いのは全く無意味なのだから。
「千景くん」
耕運機について考えていた思考を、光希の声が現実世界に呼び戻した。ふと見上げると、光希はドッヂボールの前と同じくらいの至近距離で千景を見下ろしている。もしかして、また光希の活躍具合を心配しているのだろうか。今日はまだしも、本番になったら本気でカイを召喚すべきくもしれない。
「千景くん」
「光希」
「疲れてない?」
心底心配そうに尋ねられて、それだけで心がじんわりと温かくなった。先ほどのドッヂボールで千景の役に立たなさ加減を目の当たりにしたのに、疲れていないのか心配してくれるその優しさが嬉しい。だから精一杯元気なふりをして、顔の横で拳を作った。
「大丈夫」
「本当?」
「光希こそ。あんなに活躍して、ここでも活躍するんだ」
「いや、どうかな。頑張るけど」
そう言って軽くウィンクをした姿に一瞬見惚れて、慌てて両頬をペチリと叩いた。
「千景くんは七番目、その次が俺、それからアンカーの順みたいだよ」
光希と一緒にバトンの渡し方をなんとなく練習して、本番さながらトップバッターからバトンを繋いで走っていく。みんな選抜されているだけあって、そのスピードは目を見張るものがあった。順番が近づくごとに、速くなっていく心拍に顔まで強張る。スタートラインに立って、前の走者からバトンを受け取って、それからは必死で走った。たったの半周なのに千景にとっては長すぎて、まるで恐怖から逃げる時の夢みたいだ。現実世界のはずなのに、進んでいる気がしない。それでもなんとか最後の直線に入ると、手を振る光希が見えた。練習だろうと本番だろうと、チームにも光希にも、絶対に迷惑をかけたくない。
「千景くん」
光希の声が聞こえて、少しだけ安心した。それがいけなかったのだろうか。もうすぐ光希に手が届くというところで足が縺れる。それでもバトンは落としてはいけないとなんとか腕を伸ばした。光希に届いてくれと思いながら、地面に転がる前にギュッと目を瞑る。強い衝撃だった。でも強く痛んだのは膝だけで、上半身は柔らかい温もりに包まれている。パッと目を開けたのと同時に、地面にそっと下ろされた。
「ごめんね」
何が起こったのかわからないなりにも、バトンはしっかりと光希に渡ったらしい。それを理解したところで、練習の邪魔にならないように這いつくばってレーンの中に入った。
『千景、大丈夫?』
『うん。光希が支えてくれたから』
ひどく恥ずかしくて、迷惑をかけることしかできない自分が情けない。レーンの中で練習を見ていた生徒たちの視線を感じる。きっと、笑えないほどの痴態に困惑しているに違いない。痛む両膝からは盛大に血が出ていた。
「神山千景先輩、大丈夫ですか?」
思いがけず気遣うようにかかったその声に、ふと顔を上げた。
「あ、君は」
そこにいたのは、確か光希のクラスを訪れた時に話しかけてくれた幽霊研究家志望の一年生だ。メガネと小柄な体格、そして大きな声のおかげですぐにわかった。
「僕、小林です。新川くんと同じクラスです」
「小林くん」
「保健室、行きましょう」
「いや、いいんだ」
もうすぐ授業が終わるから、それからでも良いだろう。まずは光希に謝りたかった。
「千景くん!」
光希の声と、駆け寄ってくる足音。振り返ると、無事にバトンをアンカーに渡し終えたらしい光希が近づいてくるところだった。
「光希」
光希は千景の正面に回り込んでしゃがむと、膝の具合を見て、それから千景の顔を覗きこんだ。
「保健室行かないの?」
「なんか渋ってるんだよ」
小林が光希にそう言うと、光希は珍しく眉間に皺を寄せて、改めて千景の目を見つめてきた。
「どうして?」
「いや、まずは光希に、謝りたくて」
「俺に?必要ないよ。それより、すぐに手当しないと」
「……うん」
光希にしては厳しい口調だった。心配してくれてるのだろうけれど、やっぱり不器用すぎる千景に怒っているのかもしれない。
「光希も、小林くんも、ありがとう。行ってくる」
そう言いながら立ちあがろうとすると、まるで信じられないとでも言うように「はあ?」と光希が言った。
「一緒に行くに決まってるでしょ」
「まだ授業中だから」
「どうだっていいよ」
光希がくるりと千景に背を向ける。
「ほら、背中に乗って」
「いや、大丈夫。歩ける」
「どこを打ったかもわからないから、早く」
「でも本当に」
「千景くん!」
今までで一番の強い口調に、体がびくりと跳ねた。
「お願いだから。千景くんを、大切にさせて」
まるで懇願するようなその言葉には抗えなかった。
大人しく背負ってもらって、保健室へと向かう。体育教師には小林が話を通しておいてくれると言っていた。光希には良い友達がいる。それは光希が良い子だからだろう。光希の温かい背中にどこまでくっついて良いのかわからなくて、体を強張らせて緊張しながらも千景はそんなことを考えた。
「千景くん」
「……うん」
「ごめん」
「え?」
どうして光希が謝るのだろう。今日の体育で悪かったのは千景だけだ。
「俺が悪いんだよ?不器用で鈍くてドジで、間抜けだから」
言葉にするとなんて愚鈍なのだろう。自分の言葉に勝手に落ち込んでいると、前を向いたままの光希がそれを咎めるように「千景くん」と言った。
「千景くんは一生懸命にやっただけでしょ。間抜けなんかじゃないよ」
「でも転んだよ」
「俺にとっては、転んじゃうところも可愛い」
「えっと、それは」
それは流石に嘘だ。優しい嘘すぎて、返す言葉に困る。そのせいで訪れた沈黙にも困って、千景は少し悩んでから光希の肩を掴んでいた手を首元に回してみる。体は強張ったままだけれど、そうやって精一杯光希にくっついた。
「……千景くん?」
「光希」
「うん?」
「光希が優しくしてくれて、俺を大切にしてくれて、すごく嬉しい」
「うん」
光希は確かに千景を大切にしてくれる。その温もりをこうして一番近くで感じていたいほど、千景は光希のことが大好きだ。でも、光希が千景のことを見つめる意味を履き違えてはいけない。
「カイもね、すごく優しいんだよ」
「うん」
「カイは俺だけど、俺よりずっと器用で、冷静なんだ」
「そっか」
「俺じゃなくてさ、カイだったら、よかったよね」
いつも表にいるのがカイだったら、千景はきっとこんなに生きづらくないだろう。そして光希も喜ぶ。沈黙で同意するかのように、光希はそこから保健室まで何も言わなかった。
出窓から入った保健室には誰もいなかった。廊下にある水道で傷口を洗って、それから光希に促されるままに保健室の丸椅子に腰掛けた。光希は正面の椅子に座って、ガーゼで傷口を優しく拭いてくれる。それから大きな絆創膏を探し出して、両膝にペタリと貼ってくれた。
「あのさ」
絆創膏のゴミを捨てながら、光希が突然に口を開いた。
「なれるんじゃないの?」
「……え?」
「千景くんは、カイさんに」
「えっと、どうかな」
すぐに思ったのは、全くもってなれる気がしないということだ。
「だって、カイさんって千景くんなんでしょ」
「うん」
「それは揺るがないのに、どうして千景くんはカイさんを許しているの?」
「……ん?」
光希が何を言いたいのかよくわからない。思わず首を傾げると、光希は千景を優しく見つめてこう言った。
「カイさんは千景くん。だから、ちょっとずつ近づいてみよう」
「……えっと」
「足が痛くて可哀想だけど、明日から俺とリレーの特訓。もしできそうなら、ドッヂボールも頑張ってみよう」
膝の上で両手を掬い取られて、きゅっと握られる。大きな手だ。年下なのにしっかりしていて、その手の温もりさえ優しい。千景を見つめるその表情はもっともっと優しくて、胸がキュンと音を立てた。でもすぐに目を瞑って視界を遮る。千景は本当に馬鹿だ。何をときめいているのだろう。
「うん。頑張る」
そうは言ったけれど、これは何よりも光希のためにだ。もちろん、千景が強くなればチームのためにもなるのだろうし、光希は千景を思って言ってくれているということもわかっている。でも千景がカイのようになったら、なかなかカイに会えない光希だって多少は嬉しいはずだ。そして、叶わない恋でも、光希が一緒に頑張ってくれるというのなら千景だって嬉しい。千景が頑張ったらみんな嬉しくなるのだ。決意のままに、ゆっくりと瞼を開ける。色々な気持ちを隠して笑ってみせると、目の前の大好きな光希も優しく笑ってくれた。
「あ、神山千景」
光希の前に並ぶ春山がそう言った。思わず睨みつけるけれど、千景を見てるらしい彼は全く気がついていない。春山の隣に並ぶ安田も千景を見て、「本当だ」と言った。
「顔、すげえ可愛いよな」
「本当、変な噂さえなければな」
変な噂さえなければ、なんだというのだろう。頭にきてわざと大きく溜息をつくと、二人は慌てたように振り返った。
「あ、光希。神山千景と仲良いんだっけ?」
当たり前にそうだとわかるように頷いてみせる。
「でも、恋人が幽霊なんだろ」
「なんか、暴れるらしいじゃん」
広がりすぎて収集がつかなくなっている千景の噂は、一年生の間でもまるで共通認識だ。でも光希は千景の誤解を解きたいと思っている。それがカイという人格が必死で作り上げた千景のお守りだとしてもだ。
「暴れるわけないよ。少なくとも、俺は見たことない」
浮世離れはしているけれど、ちゃんとした人だ。一生懸命で不器用。でもそこが可愛い。
「まさか、お前もあの人に狂わされてるのか」
春山が揶揄うように言った。だから肩をすくめて、腹が立つその顔ではなくて千景に視線を向ける。
「誰だって狂うよ」
少し不安そうな立ち姿に、すっと鼻筋の通った綺麗な横顔。肌は透けるように白く、その線の細さは男子高校生の中で体育なんてさせたくないほどだ。
「なんか、俺も話してみたいな」
今度は感心したようにそう言った春山に、少し慌ててしまう。
「ダメに決まってる」
「なんで?」
「……なんでって」
そんなの、光希が嫌だからだ。でもそれは言わずに、あえて含みを持たせるように春山に向かって大きく頷いておいた。
「やっぱり、幽霊か?」
混乱している春山を見て少し後悔する。これではカイと一緒だ。千景を孤立させるのは光希の本意ではないのに、半端な人間を近づけさせたくない。千景を守るのは、すごく難しい。
教師の指示で適当に準備体操をして、担当種目ごとにバラバラと校庭に散らばっていく。光希はメインとしてドッヂボールと五十メートル走、借り物競走、そしてリレーにも選抜されている。今日はドッヂボールとリレーを練習するだけになりそうだけれど、当日は忙しくなるだろう。
校庭の隅に描かれたドッヂボールコートに向かってみると、集団から少し外れた場所にポツンと千景が立っていた。まさか、と心配になった。こんな野蛮な競技に選出されたというのだろうか。
「千景くん」
光希が声をかけながら近づくと、千景はパアッと花が綻ぶような笑顔を浮かべた。光希に会えたこと、話せたことが、すごく嬉しいのだとよくわかる。その笑顔を見て周りの生徒たちがざわついたことに気がついて、光希は慌てて千景を真上から見下ろすように壁として立ちはだかった。
「み、光希?」
「うん」
「なんか近いけど、どうしたの」
「千景くん、ドッヂボールに出るの?」
「うん」
「ドッヂボールって、ボールを当てたり、当てられたりする競技だよ」
千景にはあまり俊敏なイメージがない。心配でそう聞くと、千景は目を丸くして頷いた。
「それくらい、知ってるよ。大丈夫」
大丈夫なわけない。光希が守るとしても、せめてボールがぶつけられないようにできないだろうか。少し考えて、光希は思いついた。
「カイさんは?」
「え、カイ?」
「うん。カイさん、いない?」
カイがどんな時に現れるのかはいまだにわからない。普段あまり出現頻度は高くない気がするけれど、きっと千景のピンチに出て来るはずだ。ドッヂボールは十分に危険だから出てきてくれないだろうか。千景は一瞬目を見開いてから唇を引き結び、小さく「待ってね」と言って目を瞑った。
「……ダメだ。己の力で頑張れって」
「己って」
カイだって千景のくせに、なんて人でなしだろう。そうとなれば、何があろうと絶対に光希が千景を守るしかない。元々そのつもりではいたけれど、そう改めて決意した。
「……光希、ごめんね」
「うん?」
「カイに、会いたかったのに」
チラリと上目遣いに見つめられて、その破壊力に心臓が止まるかと思った。千景の目はいつも星を閉じ込めたようにキラキラしている。
それにしても、千景は何を言っているのだろう。今日もまるで頓珍漢で、全く伝わらない光希の好意。思わず笑みがこぼれる。
「千景くん」
「……うん」
「俺と、頑張ろうね」
少し迷ったけれど、右手を伸ばしてその髪に触れた。艶やかで、柔らかくて、優しい手触りが千景らしい。年上に対して失礼かと思ってすぐに手を引っ込めたけれど、目の前の千景がギュッと目を閉じて楽しそうに笑ったから、光希の心はじんわりと幸せに溢れたのだった。
*****
千景は体育祭を前に憂鬱な日々を過ごしていた。体を動かすことは全く得意ではない上に、当日は保護者や近隣住民、他校の生徒まで見にくる大イベントなのだ。千景には何の楽しみも得もないと思っていた。
そんな千景が出場する種目、それはドッヂボールである。クラスで出場競技を決める際に、余った競技に余っていた千景が当てはめられてしまったのだ。本来溜息の絶えない毎日だったけれど、この合同体育で同じチームに光希がいると知ったらちょっとやる気も出るというものだ。
『カイ、光希もドッヂボールだよ!』
『へぇ。千景、ボール顔に当てないようにね』
光希もカイに会いたがっていたからチャンスだったのに、カイはあまりドッヂボールをする光希に興味がないみたいだ。これでは千景の役割をまっとうできない。そう思って落ち込んだけれど、試合が始まったらボールから逃げることに必死でそれどころではなくなっていた。
試合終盤になると味方もどんどん減ってきて、千景にもピンチが何度も訪れた。そんなピンチは、光希が全部救ってくれたのだ。かっこいい光希を見るたびに心が高鳴って、うっかり見惚れるほどだった。それでもせめてチームの足枷にはならないように動き回り、やっと練習試合が終わる頃には、担った仕事量に見合わず全身が悲鳴を上げていた。
『千景、お疲れ様。次はリレーだよ』
カイの言葉に大きく息をついた。実は、千景は足なんて全く早くもないのに選抜リレーの選手に選ばれてしまったのだ。本当に足が速いクラスメイト以外は誰も選ばれたくなかったために選抜されたに決まっている。
選抜メンバー以外は校庭にぐるりと描かれたレーンの内側に座って優雅におしゃべりをしている。今日は敵が誰もいないバトンの受け渡し練習みたいなものだけれど、きっと千景の番になったら新幹線が耕運機ぐらいのスピードになるはずだ。それはもしかしたら耕運機に失礼だろうか。耕運機ははあのスピードに意味があるはずであり、千景が遅いのは全く無意味なのだから。
「千景くん」
耕運機について考えていた思考を、光希の声が現実世界に呼び戻した。ふと見上げると、光希はドッヂボールの前と同じくらいの至近距離で千景を見下ろしている。もしかして、また光希の活躍具合を心配しているのだろうか。今日はまだしも、本番になったら本気でカイを召喚すべきくもしれない。
「千景くん」
「光希」
「疲れてない?」
心底心配そうに尋ねられて、それだけで心がじんわりと温かくなった。先ほどのドッヂボールで千景の役に立たなさ加減を目の当たりにしたのに、疲れていないのか心配してくれるその優しさが嬉しい。だから精一杯元気なふりをして、顔の横で拳を作った。
「大丈夫」
「本当?」
「光希こそ。あんなに活躍して、ここでも活躍するんだ」
「いや、どうかな。頑張るけど」
そう言って軽くウィンクをした姿に一瞬見惚れて、慌てて両頬をペチリと叩いた。
「千景くんは七番目、その次が俺、それからアンカーの順みたいだよ」
光希と一緒にバトンの渡し方をなんとなく練習して、本番さながらトップバッターからバトンを繋いで走っていく。みんな選抜されているだけあって、そのスピードは目を見張るものがあった。順番が近づくごとに、速くなっていく心拍に顔まで強張る。スタートラインに立って、前の走者からバトンを受け取って、それからは必死で走った。たったの半周なのに千景にとっては長すぎて、まるで恐怖から逃げる時の夢みたいだ。現実世界のはずなのに、進んでいる気がしない。それでもなんとか最後の直線に入ると、手を振る光希が見えた。練習だろうと本番だろうと、チームにも光希にも、絶対に迷惑をかけたくない。
「千景くん」
光希の声が聞こえて、少しだけ安心した。それがいけなかったのだろうか。もうすぐ光希に手が届くというところで足が縺れる。それでもバトンは落としてはいけないとなんとか腕を伸ばした。光希に届いてくれと思いながら、地面に転がる前にギュッと目を瞑る。強い衝撃だった。でも強く痛んだのは膝だけで、上半身は柔らかい温もりに包まれている。パッと目を開けたのと同時に、地面にそっと下ろされた。
「ごめんね」
何が起こったのかわからないなりにも、バトンはしっかりと光希に渡ったらしい。それを理解したところで、練習の邪魔にならないように這いつくばってレーンの中に入った。
『千景、大丈夫?』
『うん。光希が支えてくれたから』
ひどく恥ずかしくて、迷惑をかけることしかできない自分が情けない。レーンの中で練習を見ていた生徒たちの視線を感じる。きっと、笑えないほどの痴態に困惑しているに違いない。痛む両膝からは盛大に血が出ていた。
「神山千景先輩、大丈夫ですか?」
思いがけず気遣うようにかかったその声に、ふと顔を上げた。
「あ、君は」
そこにいたのは、確か光希のクラスを訪れた時に話しかけてくれた幽霊研究家志望の一年生だ。メガネと小柄な体格、そして大きな声のおかげですぐにわかった。
「僕、小林です。新川くんと同じクラスです」
「小林くん」
「保健室、行きましょう」
「いや、いいんだ」
もうすぐ授業が終わるから、それからでも良いだろう。まずは光希に謝りたかった。
「千景くん!」
光希の声と、駆け寄ってくる足音。振り返ると、無事にバトンをアンカーに渡し終えたらしい光希が近づいてくるところだった。
「光希」
光希は千景の正面に回り込んでしゃがむと、膝の具合を見て、それから千景の顔を覗きこんだ。
「保健室行かないの?」
「なんか渋ってるんだよ」
小林が光希にそう言うと、光希は珍しく眉間に皺を寄せて、改めて千景の目を見つめてきた。
「どうして?」
「いや、まずは光希に、謝りたくて」
「俺に?必要ないよ。それより、すぐに手当しないと」
「……うん」
光希にしては厳しい口調だった。心配してくれてるのだろうけれど、やっぱり不器用すぎる千景に怒っているのかもしれない。
「光希も、小林くんも、ありがとう。行ってくる」
そう言いながら立ちあがろうとすると、まるで信じられないとでも言うように「はあ?」と光希が言った。
「一緒に行くに決まってるでしょ」
「まだ授業中だから」
「どうだっていいよ」
光希がくるりと千景に背を向ける。
「ほら、背中に乗って」
「いや、大丈夫。歩ける」
「どこを打ったかもわからないから、早く」
「でも本当に」
「千景くん!」
今までで一番の強い口調に、体がびくりと跳ねた。
「お願いだから。千景くんを、大切にさせて」
まるで懇願するようなその言葉には抗えなかった。
大人しく背負ってもらって、保健室へと向かう。体育教師には小林が話を通しておいてくれると言っていた。光希には良い友達がいる。それは光希が良い子だからだろう。光希の温かい背中にどこまでくっついて良いのかわからなくて、体を強張らせて緊張しながらも千景はそんなことを考えた。
「千景くん」
「……うん」
「ごめん」
「え?」
どうして光希が謝るのだろう。今日の体育で悪かったのは千景だけだ。
「俺が悪いんだよ?不器用で鈍くてドジで、間抜けだから」
言葉にするとなんて愚鈍なのだろう。自分の言葉に勝手に落ち込んでいると、前を向いたままの光希がそれを咎めるように「千景くん」と言った。
「千景くんは一生懸命にやっただけでしょ。間抜けなんかじゃないよ」
「でも転んだよ」
「俺にとっては、転んじゃうところも可愛い」
「えっと、それは」
それは流石に嘘だ。優しい嘘すぎて、返す言葉に困る。そのせいで訪れた沈黙にも困って、千景は少し悩んでから光希の肩を掴んでいた手を首元に回してみる。体は強張ったままだけれど、そうやって精一杯光希にくっついた。
「……千景くん?」
「光希」
「うん?」
「光希が優しくしてくれて、俺を大切にしてくれて、すごく嬉しい」
「うん」
光希は確かに千景を大切にしてくれる。その温もりをこうして一番近くで感じていたいほど、千景は光希のことが大好きだ。でも、光希が千景のことを見つめる意味を履き違えてはいけない。
「カイもね、すごく優しいんだよ」
「うん」
「カイは俺だけど、俺よりずっと器用で、冷静なんだ」
「そっか」
「俺じゃなくてさ、カイだったら、よかったよね」
いつも表にいるのがカイだったら、千景はきっとこんなに生きづらくないだろう。そして光希も喜ぶ。沈黙で同意するかのように、光希はそこから保健室まで何も言わなかった。
出窓から入った保健室には誰もいなかった。廊下にある水道で傷口を洗って、それから光希に促されるままに保健室の丸椅子に腰掛けた。光希は正面の椅子に座って、ガーゼで傷口を優しく拭いてくれる。それから大きな絆創膏を探し出して、両膝にペタリと貼ってくれた。
「あのさ」
絆創膏のゴミを捨てながら、光希が突然に口を開いた。
「なれるんじゃないの?」
「……え?」
「千景くんは、カイさんに」
「えっと、どうかな」
すぐに思ったのは、全くもってなれる気がしないということだ。
「だって、カイさんって千景くんなんでしょ」
「うん」
「それは揺るがないのに、どうして千景くんはカイさんを許しているの?」
「……ん?」
光希が何を言いたいのかよくわからない。思わず首を傾げると、光希は千景を優しく見つめてこう言った。
「カイさんは千景くん。だから、ちょっとずつ近づいてみよう」
「……えっと」
「足が痛くて可哀想だけど、明日から俺とリレーの特訓。もしできそうなら、ドッヂボールも頑張ってみよう」
膝の上で両手を掬い取られて、きゅっと握られる。大きな手だ。年下なのにしっかりしていて、その手の温もりさえ優しい。千景を見つめるその表情はもっともっと優しくて、胸がキュンと音を立てた。でもすぐに目を瞑って視界を遮る。千景は本当に馬鹿だ。何をときめいているのだろう。
「うん。頑張る」
そうは言ったけれど、これは何よりも光希のためにだ。もちろん、千景が強くなればチームのためにもなるのだろうし、光希は千景を思って言ってくれているということもわかっている。でも千景がカイのようになったら、なかなかカイに会えない光希だって多少は嬉しいはずだ。そして、叶わない恋でも、光希が一緒に頑張ってくれるというのなら千景だって嬉しい。千景が頑張ったらみんな嬉しくなるのだ。決意のままに、ゆっくりと瞼を開ける。色々な気持ちを隠して笑ってみせると、目の前の大好きな光希も優しく笑ってくれた。



