「千景くんを、返してくれる?カイさん」
光希の言葉に、思わず目を見開いた。今、確かにカイの名前を呼んだように聞こえた。視線は逸らさず、静かに対峙を続ける。
「カイって名前なんでしょ」
「……誰のこと」
「知ってるよ。千景くん、たまに寝言で呼んでるし」
「……」
「千景くんのことが好きな幽霊なんだって?」
なんだ、と目を細める。この男も他の奴らと一緒だ。噂に踊らされて千景を迫害するに違いない。そうと決まればカイにだって考えがある。今までの同室生たちのように徹底的に追い込んでやるのだ。光希を睨みつけながら、千景に惚れていた歴代五人の同室生たちを思い出す。千景にはその気は少しもないのに、彼らは無理に距離を詰めようとして、その関係性は危うすぎた。だから必要な時にはカイが千景の意識を乗っ取り、小細工をしては同室でいられないようにしていたのだ。
「幽霊、ねえ」
馬鹿馬鹿しいけれど、そんな噂はかえってありがたい。千景に惚れているがために、千景に取り憑いてトラブルを巻き起こす幽霊。
「でも、それも嘘だよね」
「……は?」
「カイさんって、幽霊じゃないと思う」
思わず喉を鳴らしそうになったけれど、それすら知られてたまるかと必死に耐える。
「じゃあ、なんだと思う?」
「……なんだろう。例えるなら、千景くんを守ってる人?」
「なんでそう思うわけ」
「千景くんがカイって名前を呼ぶ時、すごく信頼を感じるから」
思わず鼻で笑ってしまった。それに対して光希は少しも反応せず、「それに」と続ける。
「もし幽霊なら、俺に取り憑いてくれたらいいと思いますよ」
「はあ?」
「そしたらずっと近くで、もしかしたら恋人として、千景くんを守れるのに」
「……恋人?」
「千景くんを、そろそろ返してくれませんか」
「……」
「きっと、腹ぺこです」
「……ふん」
本当は光希の言うことを聞くだなんて癪だ。でも、あれほど光希のことを考えていた千景を思うと、一緒に夕食くらい食べさせてやりたくなる。今までの同室生と異なり、千景が光希のことを好んでいることはカイにもよくわかっていた。だからわざと予兆もないままにカイは俯いて、自分はそっぽを向いて消えてやることにしたのだ。
*******
目を開いたら、そこは変わらず寮の前だった。カイに意識を譲った時からほとんど景色は変わっていない。でも変に緊迫した空気だ。何がどうなったのかわからなくて、千景は頭の中で必死にカイの名前を呼んだ。目の前にいる光希はじっと千景のことを見つめているけれど、話の前後関係がわからない以上は何も言えない。こんな中途半端な雰囲気で意識を明け渡されることは稀だった。早くカイに事情を聞かなければならない。それなのに、いつものカイの声が少しも聞こえてこない。
「千景くん?」
光希が首を傾げながら名前を呼んでくる。途端に頭に訪れる強烈な痛み。カイが意識を主導した後に訪れるこの痛みは、カイという存在の代償だった。でも今はそれすら無視して、カイの気配を必死で探る。もしかして、ついに千景はカイにすら見捨てられたのだろうか。千景が弱くて、すぐにカイを頼るから。いや、それはあり得ない。カイはカイである前に、千景なのだ。そう必死で思い込む中でも激しい頭痛に次第に手が震えてきて、それが体まで伝染する。
「み、光希」
耐えられない程の痛みに、カイの気配を感じられない不安も相まって、声まで震えてみっともない。息が上手く吸えなくて、だんだんと苦しくなってきた。
もう立っていることもできないかもしれないと思った、その時だった。ふと香ったのは、優しい石鹸の香り。それが光希のものだとわかった時には、体を掬い上げるように抱えられていた。
「千景くん、俺がいる」
「はあ、はあ」
「カイさんがいなくても、俺がいる」
すでに遠のきそうになっていた意識が、急に鮮明になった。今、なんと言ったのだろう。
「……カイ、さんって」
「あの人は、もう一人の千景くん、なんだね」
優しく背中を摩られながらそう言われて、驚愕で今度こそ息が止まるかと思った。
*******
光希に連れられてなんとか自室まで向かうと、千景は床にしゃがみ込んだ。頭痛は落ち着いたものの、何が起こっているのか訳がわからない。千景なりに慎重になって隠していたカイの存在、それが見破られたことは一度もなかったはずなのだ。光希は部屋の奥にある簡易洗面台の下の小さな冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、蓋を開けて千景へと渡してくれた。それを受け取ろうとする手もブルブルと震えてしまう。
「千景くん」
千景の震える手を、光希が上から優しく包んだ。手の温もりに、少しだけ気分が落ち着く。光希は確かにそこにいてくれるのだ。そのまましばらくすると次第に震えがおさまり、ゆっくりとペットボトルを受け取ることができた。それを見て安心したのか、光希も千景の正面にしゃがみ込む。
「カイさん、いなくなっちゃった?」
「……カイは、いなくならないよ」
だって、千景自身なのだから。半ば自分に言い聞かせるようにそう言うと、光希は静かに「そっか」と言った。
「カイは、もう一人の俺だから」
「うん」
「昔、一番辛かった時から、ずっと一緒なんだ」
「うん」
「だから、カイがいなくなったら、俺」
カイがいなくなるだなんて、想像すらしたことがなかった。カイはカイであるけれど、確かに千景の一部なのだ。そうやって十年以上を生きてきた。思い浮かべるのは、たまに幻想として見るカイの姿だ。カイが恋しくて今になって不安で涙が込み上げてくるけれど、高校二年にもなって後輩の前で泣くわけにはいかない。ギュッと口を引き結んで、なんとか感情を堰き止めた。
「じゃあ、俺と待っていようか」
「……え?」
「カイさん、かっこよかったから、俺もまた会いたいよ」
ふわりと浮かべられた笑顔に呆気にとられてから、千景は「うん」と頷いた。光希が一緒に待っていてくれると言うのなら心強いかもしれない。
『カイ、カイ?どこに行ったの』
もしかして、カイは正体を見破られると存在が消える魔法だったりするだろうか。そんなファンタジーは信じていないのに、途端に不安になってくる。
『お願いだから、もう出てきてよ。俺はもっと強くなるし、陰口にも、喧嘩にも、自分で立ち向かうから』
だから、どうか。
「うるさいね。ずっといるって、わからない?」
突然に声が聞こえたのは、二段ベッドの上段からだ。慌てて立ち上がって覗いてみる。そこには確かにカイがいて、布団の上であぐらをかいて座っていた。
「カイ!呼んだらちゃんと返事してくれないと」
千景の隣に立った光希が、「そこにいるの?」と尋ねてくる。光希に対して頷いて、もう一度ベッドの上段をみると、そこにはもうカイの姿はなかった。
『カイ?』
『はーい?』
頭の中で返事が返ってくることに心底安堵する。
「千景くん、もう大丈夫?」
「うん」
「よかった。また話しましょうねって、言っておいて」
頭の中で、「だってさ」と千景が言うと、カイは「その子と話すの、疲れるからやだ」と言った。我慢しようと思ったのに、思わず笑ってしまう。笑うと心がジワリと温かくなった。そのまま光希を見上げる。彼は思いがけず、目を丸くして千景のことを見つめていた。
「千景くん」
千景の名前を呼んだと思ったら、光希もふわりと笑顔を浮かべた。その顔があまりにも綺麗で見惚れてしまう。そして、そっと頬に触れた光希の右手。千景の心臓がトクリと高鳴った。
「いいな、千景くんがこんなに笑うんだ。……羨ましい」
「……え?」
「カイさんって、すごくいいね」
一瞬よくわからなかった。でもその言葉を反芻してみて、すぐに胸がツキリと痛んだ。それって、もしかして。
「……光希は、カイが好き?」
「え?うん」
優しい微笑みと共にそう言われて、さらに胸が痛む。本当はそんな痛みは無視したいのに、後を引くこの独特な感じはどうしても放って置けない。もしかして、これは。
『笑顔を見て胸が痛むって、これってなんだと思う?』
『何それ、恋?』
頭の中で響いた声に、目を見開く。いや、まさか。そう思うのに、あまりにも腑に落ちてしまった。これは、きっと恋だ。しかもただの恋ではなく、千景の初恋。相手は同室になったばかりの爽やか美男子。でも困ったことに、光希は千景よりも。
「光希は、カイのことが、好き」
改めて呟くと、頭の中で『はあ?』と聞こえた気がした。一方で、目の前の光希は、戸惑いがちにもう一度頷く。やっぱり、そうなのだ。
初恋は実らないとは昔聞いたことがあった。千景はあまり色恋に興味がなかったから、正直なんとも思わなかったその言葉。それが今になって脅威に感じられる。
「光希」
頬にあてられている光希の手。胸をときめかせてバカみたいだと思いながら、その手を自らの左手で包んだ。少し骨ばった手は、大きくて温かい。でも、こんなのダメだ。千景がカイになる時、顔つきは変わっても造形までは変わらない。きっと光希はカイを想像して千景に触れたに違いないのだ。ツキツキと痛む胸は一旦無視をして、光希を見上げる。
「光希」
「うん?」
「カイのこと、受け入れてくれてありがとう」
「うん」
「これからもよろしくね」
「うん、よろしく」
「カイに言いたいこと、ある?」
「え?いや……。千景くんと一緒に、今日もいい夢を」
そう言ってふわりと微笑まれたら、千景は自分の心に嘘なんてつけなかった。
その夜、千景は眠れなかった。今日は千景の心に初恋が芽生えて、光希の恋も知って、カイの存在も認めてもらえた日。『カイ、おめでとう』と頭の中で言ってみたら、『なあに?早くおやすみ』と言われた。カイは何も知らないのだ。今日はカイにとっておめでたい日であり、千景にとっては失恋記念日だ。つまりは、これ以上光希に心をときめかせるわけにはいかない。千景は何度も何度も自分にそう言い聞かせた。
次の日の朝、千景は目覚まし時計が鳴るよりもずっと早くベッドから起き出して、簡易洗面台の鏡を見てガッカリしていた。昨日はまるで眠れなかったせいか、まったく寝癖がついていないのだ。昨夜考えついた限りでは、朝の寝癖直しタイムは光希をカイに会わせてあげられる一番のイベントである。
「あれ、千景くん」
遅れて起きてきた光希が、二段ベッドの下段から立ち上がるとゆっくりと千景に近づいてきた。光希のパジャマはただのグレーのスウェットで、髪の毛は寝起きらしく無造作なのにすごく様になっているのが羨ましい。頭の中でカイを呼び見せてあげようと思ったのに、カイは『光希のパジャマ?なんだっていいよ』と言って頭の奥に引っ込んでしまった。
「お、おはよう。光希」
「おはよう。なんか、顔色悪くない?よく眠れなかったの」
「あ、いや。それよりもさ、今日は全然寝癖ついてなかったんだ」
頭を指さして報告すると、光希は「それは、残念」と言って優しく微笑んだ。そうだよな、と思う。光希だってカイに会いたかったはずだ。千景のピンチにカイは現れるから、千景がピンチであればあるほど、光希には好都合になる。これは、とっても複雑な話だ。
「明日は、いっぱい寝癖つけるからね」
「うん。そうして」
「そしたら、きっとカイに会えるから」
「カイさんに?」
「カイは寝癖直すの得意なんだよ」
えへへ、と笑って報告をしたのに、光希は笑顔から一転して少し不貞腐れてしまった。一瞬後になって気がついた。見ようによっては他の男の寝癖を好きな人が直す姿なんて、絶対に見たくないだろう。なんてデリカシーのないことを言ったのかと、思わず額に手をあてる。
「千景くん」
「う、うん」
名前を呼ばれたことに慌てて光希に向き直ると、彼は複雑そうな顔で微笑んで見せた。これは多分、光希なりの優しさで許してくれようとしているのかもしれない。
「千景くんの寝癖はさ、俺に任せてよ」
「……光希に?」
「うん。俺、朝の千景くんのこと、すごく」
その瞬間、千景の目覚まし時計が盛大に鳴り響いた。思い切り飛び跳ねて、慌ててハシゴを登り、枕元へと突っ込む。目覚まし時計とは、どうしてこんなにうるさいのだろう。それでもなんとか止めることができて心底ホッとした。
「大丈夫?」
下から光希の声が聞こえてくる。
「う、うん」
光希はきっと、カイにやらせるくらいなら千景の寝癖直しくらい自分がやろうという思考回路だろう。そんな恋、かわいそうだ。でも千景は千景であって、カイは千景の一部だ。カイは特別な時しか千景の体を操らない。それが千景とカイの暗黙のルールだった。理由はお互い明言したことないけれど、カイが千景の意識を主導すればするほど、意識を戻された時に千景の頭は割れるように痛くなる。でも、光希のためなら少しくらい。いや、カイのためにもなるだろうか。とにかく光希はすごくいい男だから、カイだって結ばれたら嬉しいに決まっている。
「千景くん、そろそろ降りておいでよ」
「……うん」
二段ベッドのハシゴをそろりそろりと降りながら考える。光希はカイが好きで、カイはきっと光希のことは嫌いではない。そして千景はその二人にとって。
「うわっ」
考え事をしていたせいか、残り数段のところで足を滑らせた。手も上手くハシゴをつかめずに落下する。大したことのない高さとはいえ、きっと尻餅をついたら痛いだろうなと思った。でも次の瞬間、千景の体は後ろから抱きしめられていた。ふんわりと香る石鹸の匂い。
「大丈夫?」
耳元で聞こえた光希の声に、胸がトクトクと高鳴って、体がじんわりと痺れた。
「はあ、びっくりした」
思い違いでなければきゅっと力を入れて抱きしめられて、それから体を解放される。慌てて振り返って光希の顔を見上げた。光希はまるでカイのように髪をかきあげて、「あんまり驚かせないでね」と眉尻を下げた。
「あ、ありがとう」
頭をかきながらそう言っている自分が情けない。今の一連も、もっと高いところから落ちたらカイが現れて着地していただろう。光希の手を煩わせず、そして光希とカイを引き合わせてあげられた。軽く握った拳で頭を叩く。本当に、何をやっても不器用なのだ。
すでに光希は朝の準備を進めている。それをしばらく眺めていたら、視線に気がついた光希が「ん?」と眉を上げて仕草だけで尋ねてきた。それに対しては首を横に振りながら、自分に言い聞かせる。大丈夫、大丈夫。まだまだ始まったばかりなのだ。光希と千景が同室生である以上、チャンスはたくさんあるはずだ。千景は拳を握って天井へと突き上げた。気合いは十分。あとは計画性と、運とタイミング。そのポーズのまま大きく頷くと、歯を磨いていた光希が「どうしたの?」と可笑しそうに笑った。
光希の言葉に、思わず目を見開いた。今、確かにカイの名前を呼んだように聞こえた。視線は逸らさず、静かに対峙を続ける。
「カイって名前なんでしょ」
「……誰のこと」
「知ってるよ。千景くん、たまに寝言で呼んでるし」
「……」
「千景くんのことが好きな幽霊なんだって?」
なんだ、と目を細める。この男も他の奴らと一緒だ。噂に踊らされて千景を迫害するに違いない。そうと決まればカイにだって考えがある。今までの同室生たちのように徹底的に追い込んでやるのだ。光希を睨みつけながら、千景に惚れていた歴代五人の同室生たちを思い出す。千景にはその気は少しもないのに、彼らは無理に距離を詰めようとして、その関係性は危うすぎた。だから必要な時にはカイが千景の意識を乗っ取り、小細工をしては同室でいられないようにしていたのだ。
「幽霊、ねえ」
馬鹿馬鹿しいけれど、そんな噂はかえってありがたい。千景に惚れているがために、千景に取り憑いてトラブルを巻き起こす幽霊。
「でも、それも嘘だよね」
「……は?」
「カイさんって、幽霊じゃないと思う」
思わず喉を鳴らしそうになったけれど、それすら知られてたまるかと必死に耐える。
「じゃあ、なんだと思う?」
「……なんだろう。例えるなら、千景くんを守ってる人?」
「なんでそう思うわけ」
「千景くんがカイって名前を呼ぶ時、すごく信頼を感じるから」
思わず鼻で笑ってしまった。それに対して光希は少しも反応せず、「それに」と続ける。
「もし幽霊なら、俺に取り憑いてくれたらいいと思いますよ」
「はあ?」
「そしたらずっと近くで、もしかしたら恋人として、千景くんを守れるのに」
「……恋人?」
「千景くんを、そろそろ返してくれませんか」
「……」
「きっと、腹ぺこです」
「……ふん」
本当は光希の言うことを聞くだなんて癪だ。でも、あれほど光希のことを考えていた千景を思うと、一緒に夕食くらい食べさせてやりたくなる。今までの同室生と異なり、千景が光希のことを好んでいることはカイにもよくわかっていた。だからわざと予兆もないままにカイは俯いて、自分はそっぽを向いて消えてやることにしたのだ。
*******
目を開いたら、そこは変わらず寮の前だった。カイに意識を譲った時からほとんど景色は変わっていない。でも変に緊迫した空気だ。何がどうなったのかわからなくて、千景は頭の中で必死にカイの名前を呼んだ。目の前にいる光希はじっと千景のことを見つめているけれど、話の前後関係がわからない以上は何も言えない。こんな中途半端な雰囲気で意識を明け渡されることは稀だった。早くカイに事情を聞かなければならない。それなのに、いつものカイの声が少しも聞こえてこない。
「千景くん?」
光希が首を傾げながら名前を呼んでくる。途端に頭に訪れる強烈な痛み。カイが意識を主導した後に訪れるこの痛みは、カイという存在の代償だった。でも今はそれすら無視して、カイの気配を必死で探る。もしかして、ついに千景はカイにすら見捨てられたのだろうか。千景が弱くて、すぐにカイを頼るから。いや、それはあり得ない。カイはカイである前に、千景なのだ。そう必死で思い込む中でも激しい頭痛に次第に手が震えてきて、それが体まで伝染する。
「み、光希」
耐えられない程の痛みに、カイの気配を感じられない不安も相まって、声まで震えてみっともない。息が上手く吸えなくて、だんだんと苦しくなってきた。
もう立っていることもできないかもしれないと思った、その時だった。ふと香ったのは、優しい石鹸の香り。それが光希のものだとわかった時には、体を掬い上げるように抱えられていた。
「千景くん、俺がいる」
「はあ、はあ」
「カイさんがいなくても、俺がいる」
すでに遠のきそうになっていた意識が、急に鮮明になった。今、なんと言ったのだろう。
「……カイ、さんって」
「あの人は、もう一人の千景くん、なんだね」
優しく背中を摩られながらそう言われて、驚愕で今度こそ息が止まるかと思った。
*******
光希に連れられてなんとか自室まで向かうと、千景は床にしゃがみ込んだ。頭痛は落ち着いたものの、何が起こっているのか訳がわからない。千景なりに慎重になって隠していたカイの存在、それが見破られたことは一度もなかったはずなのだ。光希は部屋の奥にある簡易洗面台の下の小さな冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、蓋を開けて千景へと渡してくれた。それを受け取ろうとする手もブルブルと震えてしまう。
「千景くん」
千景の震える手を、光希が上から優しく包んだ。手の温もりに、少しだけ気分が落ち着く。光希は確かにそこにいてくれるのだ。そのまましばらくすると次第に震えがおさまり、ゆっくりとペットボトルを受け取ることができた。それを見て安心したのか、光希も千景の正面にしゃがみ込む。
「カイさん、いなくなっちゃった?」
「……カイは、いなくならないよ」
だって、千景自身なのだから。半ば自分に言い聞かせるようにそう言うと、光希は静かに「そっか」と言った。
「カイは、もう一人の俺だから」
「うん」
「昔、一番辛かった時から、ずっと一緒なんだ」
「うん」
「だから、カイがいなくなったら、俺」
カイがいなくなるだなんて、想像すらしたことがなかった。カイはカイであるけれど、確かに千景の一部なのだ。そうやって十年以上を生きてきた。思い浮かべるのは、たまに幻想として見るカイの姿だ。カイが恋しくて今になって不安で涙が込み上げてくるけれど、高校二年にもなって後輩の前で泣くわけにはいかない。ギュッと口を引き結んで、なんとか感情を堰き止めた。
「じゃあ、俺と待っていようか」
「……え?」
「カイさん、かっこよかったから、俺もまた会いたいよ」
ふわりと浮かべられた笑顔に呆気にとられてから、千景は「うん」と頷いた。光希が一緒に待っていてくれると言うのなら心強いかもしれない。
『カイ、カイ?どこに行ったの』
もしかして、カイは正体を見破られると存在が消える魔法だったりするだろうか。そんなファンタジーは信じていないのに、途端に不安になってくる。
『お願いだから、もう出てきてよ。俺はもっと強くなるし、陰口にも、喧嘩にも、自分で立ち向かうから』
だから、どうか。
「うるさいね。ずっといるって、わからない?」
突然に声が聞こえたのは、二段ベッドの上段からだ。慌てて立ち上がって覗いてみる。そこには確かにカイがいて、布団の上であぐらをかいて座っていた。
「カイ!呼んだらちゃんと返事してくれないと」
千景の隣に立った光希が、「そこにいるの?」と尋ねてくる。光希に対して頷いて、もう一度ベッドの上段をみると、そこにはもうカイの姿はなかった。
『カイ?』
『はーい?』
頭の中で返事が返ってくることに心底安堵する。
「千景くん、もう大丈夫?」
「うん」
「よかった。また話しましょうねって、言っておいて」
頭の中で、「だってさ」と千景が言うと、カイは「その子と話すの、疲れるからやだ」と言った。我慢しようと思ったのに、思わず笑ってしまう。笑うと心がジワリと温かくなった。そのまま光希を見上げる。彼は思いがけず、目を丸くして千景のことを見つめていた。
「千景くん」
千景の名前を呼んだと思ったら、光希もふわりと笑顔を浮かべた。その顔があまりにも綺麗で見惚れてしまう。そして、そっと頬に触れた光希の右手。千景の心臓がトクリと高鳴った。
「いいな、千景くんがこんなに笑うんだ。……羨ましい」
「……え?」
「カイさんって、すごくいいね」
一瞬よくわからなかった。でもその言葉を反芻してみて、すぐに胸がツキリと痛んだ。それって、もしかして。
「……光希は、カイが好き?」
「え?うん」
優しい微笑みと共にそう言われて、さらに胸が痛む。本当はそんな痛みは無視したいのに、後を引くこの独特な感じはどうしても放って置けない。もしかして、これは。
『笑顔を見て胸が痛むって、これってなんだと思う?』
『何それ、恋?』
頭の中で響いた声に、目を見開く。いや、まさか。そう思うのに、あまりにも腑に落ちてしまった。これは、きっと恋だ。しかもただの恋ではなく、千景の初恋。相手は同室になったばかりの爽やか美男子。でも困ったことに、光希は千景よりも。
「光希は、カイのことが、好き」
改めて呟くと、頭の中で『はあ?』と聞こえた気がした。一方で、目の前の光希は、戸惑いがちにもう一度頷く。やっぱり、そうなのだ。
初恋は実らないとは昔聞いたことがあった。千景はあまり色恋に興味がなかったから、正直なんとも思わなかったその言葉。それが今になって脅威に感じられる。
「光希」
頬にあてられている光希の手。胸をときめかせてバカみたいだと思いながら、その手を自らの左手で包んだ。少し骨ばった手は、大きくて温かい。でも、こんなのダメだ。千景がカイになる時、顔つきは変わっても造形までは変わらない。きっと光希はカイを想像して千景に触れたに違いないのだ。ツキツキと痛む胸は一旦無視をして、光希を見上げる。
「光希」
「うん?」
「カイのこと、受け入れてくれてありがとう」
「うん」
「これからもよろしくね」
「うん、よろしく」
「カイに言いたいこと、ある?」
「え?いや……。千景くんと一緒に、今日もいい夢を」
そう言ってふわりと微笑まれたら、千景は自分の心に嘘なんてつけなかった。
その夜、千景は眠れなかった。今日は千景の心に初恋が芽生えて、光希の恋も知って、カイの存在も認めてもらえた日。『カイ、おめでとう』と頭の中で言ってみたら、『なあに?早くおやすみ』と言われた。カイは何も知らないのだ。今日はカイにとっておめでたい日であり、千景にとっては失恋記念日だ。つまりは、これ以上光希に心をときめかせるわけにはいかない。千景は何度も何度も自分にそう言い聞かせた。
次の日の朝、千景は目覚まし時計が鳴るよりもずっと早くベッドから起き出して、簡易洗面台の鏡を見てガッカリしていた。昨日はまるで眠れなかったせいか、まったく寝癖がついていないのだ。昨夜考えついた限りでは、朝の寝癖直しタイムは光希をカイに会わせてあげられる一番のイベントである。
「あれ、千景くん」
遅れて起きてきた光希が、二段ベッドの下段から立ち上がるとゆっくりと千景に近づいてきた。光希のパジャマはただのグレーのスウェットで、髪の毛は寝起きらしく無造作なのにすごく様になっているのが羨ましい。頭の中でカイを呼び見せてあげようと思ったのに、カイは『光希のパジャマ?なんだっていいよ』と言って頭の奥に引っ込んでしまった。
「お、おはよう。光希」
「おはよう。なんか、顔色悪くない?よく眠れなかったの」
「あ、いや。それよりもさ、今日は全然寝癖ついてなかったんだ」
頭を指さして報告すると、光希は「それは、残念」と言って優しく微笑んだ。そうだよな、と思う。光希だってカイに会いたかったはずだ。千景のピンチにカイは現れるから、千景がピンチであればあるほど、光希には好都合になる。これは、とっても複雑な話だ。
「明日は、いっぱい寝癖つけるからね」
「うん。そうして」
「そしたら、きっとカイに会えるから」
「カイさんに?」
「カイは寝癖直すの得意なんだよ」
えへへ、と笑って報告をしたのに、光希は笑顔から一転して少し不貞腐れてしまった。一瞬後になって気がついた。見ようによっては他の男の寝癖を好きな人が直す姿なんて、絶対に見たくないだろう。なんてデリカシーのないことを言ったのかと、思わず額に手をあてる。
「千景くん」
「う、うん」
名前を呼ばれたことに慌てて光希に向き直ると、彼は複雑そうな顔で微笑んで見せた。これは多分、光希なりの優しさで許してくれようとしているのかもしれない。
「千景くんの寝癖はさ、俺に任せてよ」
「……光希に?」
「うん。俺、朝の千景くんのこと、すごく」
その瞬間、千景の目覚まし時計が盛大に鳴り響いた。思い切り飛び跳ねて、慌ててハシゴを登り、枕元へと突っ込む。目覚まし時計とは、どうしてこんなにうるさいのだろう。それでもなんとか止めることができて心底ホッとした。
「大丈夫?」
下から光希の声が聞こえてくる。
「う、うん」
光希はきっと、カイにやらせるくらいなら千景の寝癖直しくらい自分がやろうという思考回路だろう。そんな恋、かわいそうだ。でも千景は千景であって、カイは千景の一部だ。カイは特別な時しか千景の体を操らない。それが千景とカイの暗黙のルールだった。理由はお互い明言したことないけれど、カイが千景の意識を主導すればするほど、意識を戻された時に千景の頭は割れるように痛くなる。でも、光希のためなら少しくらい。いや、カイのためにもなるだろうか。とにかく光希はすごくいい男だから、カイだって結ばれたら嬉しいに決まっている。
「千景くん、そろそろ降りておいでよ」
「……うん」
二段ベッドのハシゴをそろりそろりと降りながら考える。光希はカイが好きで、カイはきっと光希のことは嫌いではない。そして千景はその二人にとって。
「うわっ」
考え事をしていたせいか、残り数段のところで足を滑らせた。手も上手くハシゴをつかめずに落下する。大したことのない高さとはいえ、きっと尻餅をついたら痛いだろうなと思った。でも次の瞬間、千景の体は後ろから抱きしめられていた。ふんわりと香る石鹸の匂い。
「大丈夫?」
耳元で聞こえた光希の声に、胸がトクトクと高鳴って、体がじんわりと痺れた。
「はあ、びっくりした」
思い違いでなければきゅっと力を入れて抱きしめられて、それから体を解放される。慌てて振り返って光希の顔を見上げた。光希はまるでカイのように髪をかきあげて、「あんまり驚かせないでね」と眉尻を下げた。
「あ、ありがとう」
頭をかきながらそう言っている自分が情けない。今の一連も、もっと高いところから落ちたらカイが現れて着地していただろう。光希の手を煩わせず、そして光希とカイを引き合わせてあげられた。軽く握った拳で頭を叩く。本当に、何をやっても不器用なのだ。
すでに光希は朝の準備を進めている。それをしばらく眺めていたら、視線に気がついた光希が「ん?」と眉を上げて仕草だけで尋ねてきた。それに対しては首を横に振りながら、自分に言い聞かせる。大丈夫、大丈夫。まだまだ始まったばかりなのだ。光希と千景が同室生である以上、チャンスはたくさんあるはずだ。千景は拳を握って天井へと突き上げた。気合いは十分。あとは計画性と、運とタイミング。そのポーズのまま大きく頷くと、歯を磨いていた光希が「どうしたの?」と可笑しそうに笑った。



