千景には最近友人ができた。相手にしてみたら友人ではなくて、ただの先輩と後輩。いや、ただの同室生かもしれない。それでも同室になって早二週間。すでに千景には大切にしたい存在になっている。
「千景くん」
学生服に身を包んだ爽やかの具現化、それが千景の友人である新川光希だ。すでに身なりは完璧に整っていて、あとは千景を待つのみらしい。千景は簡易洗面台の鏡を覗き込んだ。今日もひどい寝癖だ。一生懸命に水で濡らすけれど、言うことを聞いてくれる気配はまるでない。そろそろカイに助けを求めようか。でも、光希の前で人格が変わる瞬間を見せるのは気が引ける。悩みながらも、もう一度水をつけようと蛇口を捻った。
「千景くん」
思ったよりも近くで聞こえた声に驚いている間に、蛇口を握る千景の手に光希の手が重なった。キョドキョドとしながら光希を振り返ると、彼の手にはドライヤーと櫛が握られている。
「やってあげる」
「え?」
戸惑っている間にものすごい強風に煽られて、思わず目を瞑った。その間にも漏れ聞こえる光希の笑い声。千景は今きっと変な顔をしているのだろうけれど、ひとまず身を委ねることにしてみる。
『まったく。甘えた』
頭の中で聞こえたカイの声に、少しだけ唇を突き出した。もしかしたら明日はカイにお願いするかもね、と頭の中で言ってみたけれど、伝わっただろうか。
「はい、いいんじゃない?」
そう言われて目を開けると、鏡の中には綺麗に髪がまとまった自分が写っている。
「わあ、すごい」
嬉しくてニコニコと振り返ってみると、光希は一瞬だけ千景を見て、すぐに目を伏せた。
「光希?」
「ん?なに」
「どうかした?」
「いや。……ただ」
「うん」
「千景くんが、今日も可愛いなと思って」
そう言ってチラリと目を覗かれる。千景が目を瞬かせていると、光希はふわりと笑って「なんてね」と言った。そしてドライヤーを片付けると、ベッドの方へと行ってしまう。
「なんてね」
なんとなく復唱してみる。それはつまり。
『冗談だよって、ことかな』
頭の中で響いたカイの言葉に、少しだけ心が沈んだ。なんだ、冗談か。千景の顔は、多分同世代の中では可愛い方だと思う。それでもきっと、光希のような爽やか美男子には通用しないのだ。例えば、カイだったらどうだろう。千景は鏡の中を覗き込んだ。カイは千景と同じ見た目なのに、髪は綺麗に流れて、目には強い光と力が籠る。あとは、唇もなんか違うのだ。千景は口角が自然に上がっているけれど、カイは口元まで神経が行き届いる感じだ。つまりは、同じ造形なのにすごくかっこいい。
「いいなあ」
なんとなく呟くと、光希が「なにが」と言った。カイが独り言に反応してくれるのもすごく嬉しいけれど、光希の相槌も良いなと、千景は少しだけ心が晴れた気がする。我ながら単純だ。
「ううん、なんでもない」
「ふーん。早く朝ご飯食べに行こう」
「うん」
光希と同室になって、千景は朝の食堂が怖くなくなった。普段は学校帰りにスーパーに寄って、翌日の朝食を買って帰っていたのだ。寮の食堂は朝の開放時間が限られている。寮生全員と会うことになりかねないその時間は元同室生に会ったら気まずい上に、変な噂を信じている寮生に絡まれたら面倒で、そして大多数からの腫れ物扱いが居た堪れないのだ。そこに現れた光希は千景にとって救世主だった。光希が一緒にいてくれると、千景は様々な視線を気にしないでいられる。
自室の鍵を閉めて光希と食堂へ向かう間も、千景は上機嫌に歩いた。カイ以外といるのに心が穏やかでいられるのは、そうそうないことである。なんだか口のあたりがむずむずして、しっかりと引き締めていないとふにゃふにゃになってしまいそうだ。
「千景くん」
「ん?」
「なんか、ご機嫌ですか?」
「あ、わかる?俺は今、すごくご機嫌」
「もうすぐご飯だもんね」
右隣を歩く光希は千景を見下ろして、「お腹すいたね」と優しく言った。
「千景、食いしん坊だと思われてるね」
いつの間にか左隣を歩くカイはそう言ってから、きゅっと肩を竦めた。
「まったく、よくもまあ口が回るよ。可愛いだとか、それは冗談だとか、お腹すいたねっとか」
そうしてカイはやれやれと首を振ったけれど、少しして「でも、まあ」と続けた。
「千景がちょっとでも学校生活が楽しくなったなら、俺は嬉しいよ」
口元を緩めたカイと視線が交わって、思わず笑みがこぼれた。カイは千景であると同時に、本当に良い相棒なのだ。
そうして今日も平和に朝食を食べて、学校へ行って、昼食も光希と学校の食堂で食べた。この調子で午後の授業もなんとか頑張ってそそくさと寮に帰り、また光希と寮の食堂へ夕食に行こう。そう計画していたのに、五時間目の生物の授業中、突然に今日が園芸委員会の活動日だと思い出した。会合は放課後だ。そこで花壇に花を植えたり、水遣り当番などを決めたりするのだろう。そうなると、光希との夕食に間に合うだろうか。お腹が空くと大変だから、もし千景が遅くなるようなら光希には先に食べていてほしい。
『千景、あの子の連絡先知ってたっけ?』
頭の中で聞こえてきたカイの言葉に唖然とする。最悪だ。距離の近さに安心して、うっかり連絡先を交換していなかった。
『どうする?』
どうするって、どうにかしないといけない。光希のためにも、勇気を出すのだ。
五時間目と六時間目の間の十分休みになると、千景は光希の教室を目指した。頭には体育の授業用に持ってきていたスポーツタオルを被り、変装は万全だ。一年一組めがけて進む中で隣にいるカイは堂々と歩いていているけれど、千景は目立つわけにはいかないのである。千景にまつわる噂のことはあまり詳しく知らないものの、これ以上変に目立つのは困るのだ。
「千景、結構見られてるね」
「大丈夫だよ。誰も俺だとは気づいてない」
「そうかな」
そうしてやっと辿り着いた一年一組の教室を身を伏せながら覗き込む。上手いこと光希にだけ気づかれないものだろうか。
「光希、それ本気で言ってる?」
唐突に探し求めている名前が聞こえてきた。声の出所を探してみると、教室の真ん中の方の人だかりからのようだ。
「昼だって、あのトラブルメーカー先輩と一緒に食べてるよな」
「朝も夜も一緒ってさ。さすがに光希、狙われてるんじゃねえの」
「あの神山千景だぞ?顔は綺麗だけど、何人もの先輩を狂わせてきたって噂、光希も聞いてるだろ?」
会話の内容は紛れもなく千景のことだ。目を凝らせば、集団の中心にチラリと光希も見える。
「絶対距離を置いた方がいいって」
その言葉が聞こえた瞬間に、胸の奥がズキンと痛んだ。必死で胸を押さえるけれど、全く意味をなさない。
似たようなシチュエーションは何回も経験してきた。でも、今回が一番堪える気がする。ゆっくりと身を引いて、ドアの影に隠れた。確かに、彼らの言うことは最もかもしれない。素性の知れない年上の男が付き纏うだなんて、怪しまれても仕方がない。そもそも冷静になってみるべきだ。光希には千景と三食を共にする意義もなければ、それによって得するようなこともない。嬉しいのは孤独な千景だけだ。光希は新入生代表挨拶をするほどに優秀で、きっと人柄から見ても人気者だろう。それを千景が自身の利益だけを見て、孤独へと巻き込んでいるのだ。背筋が一気に冷たくなった。
「千景」
ハッとして顔を上げると、カイが間近から千景の顔を覗き込んでいる。心配そうなその表情に、必死で笑顔を返した。
「カイ、行こうか」
きっと千景がいつもの時間に寮へ戻らなくても、光希はなんとも思わないに違いない。約束なんてしていないのだから当然だ。今まではなんとなく三食共にしてくれていただけ。自意識過剰だったなと、額を軽く指で叩いた。
「あの」
後ろから聞こえた声に、カイと視線を合わせた。
「話しかけられてるよ。もちろん、千景が」
カイはそれだけ言うと一瞬にして姿を消した。恐る恐る振り返る。そこには、メガネをかけた小柄な生徒が立っていた。
「あの」
「は、はい」
「神山千景先輩じゃないですか?」
少し高い声がよく通る。慌てて口元に人差し指をあてると、「え、なんですか?どうしたんですか?」とさらに大きな声で問われる。
「やっぱり千景先輩だ。僕、先輩のこと、すごく気になっていました」
「だから、シー!」
「だって、幽霊と恋人同士なんでしょう?僕、幽霊研究家になりたくて」
口元にあてていた手を取られて、勝手に握手を交わされる。繋がれた手をブンブンと振られて、頭からタオルが落ちた。
「千景くん?」
背後から聞こえてきた声は、まさしく光希のものだ。思わず顔を顰める。先ほどの会話の流れで今見つかるというのは厳しいものがある。千景はメガネの彼の手を愛想笑いと共に優しく解くと光希を振り返った。
「……あ、えっと」
「やっぱり千景くん」
「や、やあやあ!光希」
「うん、お疲れさま」
「その、えっと」
「うん」
「俺、言いたいことがあって」
「……うん?」
「夕飯とか、朝とか、あと昼も。無理に俺と食べることないからね」
「……え?」
「いや、いつも俺が光希について行ってるだけだけど、一応言いにきたんだ」
「なに、それ」
「だからさ、光希は、好きな人と食べる権利があるんだよ」
言いながら、胸が締め付けられた。今まで、無意識にとはいえ千景がその権利を奪っていたのだ。新入生の身分では、同室の先輩に意見できなかったのだろう。申し訳なさでいっぱいで、光希の顔が見られない。でも心の中には悲しさや寂しさが滲んでいるから、千景は自分の勝手さに嫌気が差した。
「千景く」
「じゃあね」
光希に手を振って、駆け出した。幸せだった二週間もこれで終わりだ。きっと今夜から、光希はそれこそ好きな人と夕食を摂るだろう。それは喜ばしいことなのに、心に渦巻くこの気持ちはなんだろうか。
必死で戻った自分の教室で日本史の授業を受けて、ホームルームを上の空で過ごし、そして放課後。園芸委員会の会合場所である北校舎一階の教室で活動方針を決めて、今日は校舎裏の花壇に野菜を植えることになった。花壇の前で見知らぬ生徒と適当にグループを組まされて、トマトの苗を二つずつ渡される。
「千景、よかったじゃん。トマト係だよ」
「……うん」
「トマト、好きだもんね」
「……うん」
カイに話しかけられてもうっかり声に出して返事をしてしまう。集中したいのに、なかなかできなさそうだ。こんな気持ちで植えられるのでは、トマトも迷惑だろう。
シャベルでゆっくりと土を掘り起こして、植える前に苗を見つめる。
「収穫できたら、特別に持ち帰りましょう」
委員会担当の教師にそう言われて考える。光希はトマトが好きだろうか。
「多分、好きだと思うよ。知らないけど」
隣にしゃがむカイが気遣わしげにそう言った。そういうこと、もっと知りたかった。胸がキュウっと痛くなる。まだまだ、一緒に。
「一緒に、食べたかったな」
「誰と?」
はたと動きを止めた。今、光希の声で尋ねられただろうか。慌てて振り返ると、斜め後ろに光希がしゃがんでいる。
「それ、何の苗?」
「……トマト」
「トマト、誰と一緒に食べたかったの?」
まっすぐに見つめられて、少しも目を逸らせない。胸がドキドキと高鳴る。一緒に食べたかったのは、厳密にいえばトマトのことではない。いや、トマトも一緒に食べられたら嬉しいけれど、頭にあったのは毎日の食事の話だ。今日も明日も明後日も、ずっとずっと光希と食事を共にしたかった。でも。
「……内緒」
思いに蓋をしてそれだけ言うと、千景はトマトの苗を土に植えた。きっと本当のことを言えば、優しい光希は千景を放っておけないだろうと思ったのだ。
「……ふーん」
光希はまるで興味がなさそうにそう言うと、すくっと立ち上がった。
「千景くん、また寮で」
「……うん、またね」
同室生であるがために、寮で絶対的に会ってしまうことが非常に気まずい。光希はきっと、教室での会話を聞かれたとわかっているだろう。だからこそ、今まで通り接してくれたとしたら泣きたくなるし、謝られたら余計に困る。この複雑な心境は一体どうしたら良いのだろうか。
園芸委員会の仕事を終えても、まだまだ日が高かった。だから図書室で時間を潰して、それからスーパーへ寄った。明朝のパンだけ買おうと思ったのに、光希がいない食堂での夕食を耐えられる気がしなくて、結局割引の弁当も買ってしまった。知らずのうちに我慢していた息を大きく吐き出す。これで本格的に光希と夕食を食べる理由がなくなった。
そうして夜の八時前、門限に合わせて寮へと向かった。遠くに見える灯りに憂鬱になりながら、トボトボと足を進める。割引弁当とパンしか入っていないエコバッグが妙に重たかった。
「千景くん!」
暗闇から大きな声が聞こえてきて、思わず飛び跳ねた。必死で目を凝らすと、門の前に人影がある。声から、それが誰かすぐにわかった。
「……光希」
慌ただしく近づいてくる足音に、千景も同じように近づく。だんだんと鮮明になる光希の顔は、なぜだかとても怒っていた。
「こんな時間に帰るなんて、どういうつもり?」
「え?」
「俺が待ってるって、少しも思わなかったの」
それはすごく思ったけれど、思考が巡り巡って、最終的に思わなくなった。それをどうやって伝えよう。
「お、思ったよ。……でも」
「でも?」
「光希の自由が」
「俺の自由?」
「お、俺が変に、何か言ったら、光希の自由が、なくなる気がして」
自分でも、これが本当に言いたいことなのかわからない。でも一生懸命に伝えた。伝わってほしいと思いながら紡いだ言葉は、喉から素直に出てくれない。
「……なるほどね」
光希はそれだけ言うと、「行こう」と言って先を歩いて行ってしまう。いつもの柔らかな雰囲気がまるでなくて、別人のようだ。必死で後を追いながら言葉を探すけれど、頭が上手く回らない。久しぶりに感じる焦燥感と孤独感に、千景は無性に泣きたくなった。
『俺がなんとかしようか』
頭の中で響くカイの声。ここで頼ったらダメだ。そう思うのに、光希がどんどん先にいってしまう姿を見て、千景は自然と頷いていた。
*****
カイは前髪をかきあげた。千景は今頃、精神の内側で泣いているかもしれない。可哀想な千景。
「あのさあ」
ガンガンと響く頭の痛みを我慢しながら腹の底から声を出すと、光希が少しだけ振り向きながら立ち止まった。
「全部、俺が悪いわけ?」
「……」
「教室まで行った時、結構勇気出したんだけど」
「……」
「本当はあの時、今日は委員会があるから遅くなるって言いたかった」
「……それなら、そう言えばよかったのに」
「言えるわけないよ。だって君、クラスメイトに散々俺を悪く言われてたのに、少しも反論してなかった」
「……あれは、勝手なこと言われて腹が立って」
「でも、俺は確かに傷ついた」
「……うん」
「もう俺に関わらないでくれる。期待させないでよ」
やっと千景が信頼できそうな人間が出てきたと思ったら結局傷つけられる。深く信頼し切ってからでは傷が深くなる一方だ。ゆっくりと歩みを再開して、そのまま光希を追い越した。
「それはさ」
突然聞こえてきた光希の強い口調に、足を止めた。
「本当に千景くんが言ってるの?」
「は?」
思わず振り返ると、光希の真っ直ぐな目と視線が交差した。
「千景くんを、返してくれる?カイさん」
「千景くん」
学生服に身を包んだ爽やかの具現化、それが千景の友人である新川光希だ。すでに身なりは完璧に整っていて、あとは千景を待つのみらしい。千景は簡易洗面台の鏡を覗き込んだ。今日もひどい寝癖だ。一生懸命に水で濡らすけれど、言うことを聞いてくれる気配はまるでない。そろそろカイに助けを求めようか。でも、光希の前で人格が変わる瞬間を見せるのは気が引ける。悩みながらも、もう一度水をつけようと蛇口を捻った。
「千景くん」
思ったよりも近くで聞こえた声に驚いている間に、蛇口を握る千景の手に光希の手が重なった。キョドキョドとしながら光希を振り返ると、彼の手にはドライヤーと櫛が握られている。
「やってあげる」
「え?」
戸惑っている間にものすごい強風に煽られて、思わず目を瞑った。その間にも漏れ聞こえる光希の笑い声。千景は今きっと変な顔をしているのだろうけれど、ひとまず身を委ねることにしてみる。
『まったく。甘えた』
頭の中で聞こえたカイの声に、少しだけ唇を突き出した。もしかしたら明日はカイにお願いするかもね、と頭の中で言ってみたけれど、伝わっただろうか。
「はい、いいんじゃない?」
そう言われて目を開けると、鏡の中には綺麗に髪がまとまった自分が写っている。
「わあ、すごい」
嬉しくてニコニコと振り返ってみると、光希は一瞬だけ千景を見て、すぐに目を伏せた。
「光希?」
「ん?なに」
「どうかした?」
「いや。……ただ」
「うん」
「千景くんが、今日も可愛いなと思って」
そう言ってチラリと目を覗かれる。千景が目を瞬かせていると、光希はふわりと笑って「なんてね」と言った。そしてドライヤーを片付けると、ベッドの方へと行ってしまう。
「なんてね」
なんとなく復唱してみる。それはつまり。
『冗談だよって、ことかな』
頭の中で響いたカイの言葉に、少しだけ心が沈んだ。なんだ、冗談か。千景の顔は、多分同世代の中では可愛い方だと思う。それでもきっと、光希のような爽やか美男子には通用しないのだ。例えば、カイだったらどうだろう。千景は鏡の中を覗き込んだ。カイは千景と同じ見た目なのに、髪は綺麗に流れて、目には強い光と力が籠る。あとは、唇もなんか違うのだ。千景は口角が自然に上がっているけれど、カイは口元まで神経が行き届いる感じだ。つまりは、同じ造形なのにすごくかっこいい。
「いいなあ」
なんとなく呟くと、光希が「なにが」と言った。カイが独り言に反応してくれるのもすごく嬉しいけれど、光希の相槌も良いなと、千景は少しだけ心が晴れた気がする。我ながら単純だ。
「ううん、なんでもない」
「ふーん。早く朝ご飯食べに行こう」
「うん」
光希と同室になって、千景は朝の食堂が怖くなくなった。普段は学校帰りにスーパーに寄って、翌日の朝食を買って帰っていたのだ。寮の食堂は朝の開放時間が限られている。寮生全員と会うことになりかねないその時間は元同室生に会ったら気まずい上に、変な噂を信じている寮生に絡まれたら面倒で、そして大多数からの腫れ物扱いが居た堪れないのだ。そこに現れた光希は千景にとって救世主だった。光希が一緒にいてくれると、千景は様々な視線を気にしないでいられる。
自室の鍵を閉めて光希と食堂へ向かう間も、千景は上機嫌に歩いた。カイ以外といるのに心が穏やかでいられるのは、そうそうないことである。なんだか口のあたりがむずむずして、しっかりと引き締めていないとふにゃふにゃになってしまいそうだ。
「千景くん」
「ん?」
「なんか、ご機嫌ですか?」
「あ、わかる?俺は今、すごくご機嫌」
「もうすぐご飯だもんね」
右隣を歩く光希は千景を見下ろして、「お腹すいたね」と優しく言った。
「千景、食いしん坊だと思われてるね」
いつの間にか左隣を歩くカイはそう言ってから、きゅっと肩を竦めた。
「まったく、よくもまあ口が回るよ。可愛いだとか、それは冗談だとか、お腹すいたねっとか」
そうしてカイはやれやれと首を振ったけれど、少しして「でも、まあ」と続けた。
「千景がちょっとでも学校生活が楽しくなったなら、俺は嬉しいよ」
口元を緩めたカイと視線が交わって、思わず笑みがこぼれた。カイは千景であると同時に、本当に良い相棒なのだ。
そうして今日も平和に朝食を食べて、学校へ行って、昼食も光希と学校の食堂で食べた。この調子で午後の授業もなんとか頑張ってそそくさと寮に帰り、また光希と寮の食堂へ夕食に行こう。そう計画していたのに、五時間目の生物の授業中、突然に今日が園芸委員会の活動日だと思い出した。会合は放課後だ。そこで花壇に花を植えたり、水遣り当番などを決めたりするのだろう。そうなると、光希との夕食に間に合うだろうか。お腹が空くと大変だから、もし千景が遅くなるようなら光希には先に食べていてほしい。
『千景、あの子の連絡先知ってたっけ?』
頭の中で聞こえてきたカイの言葉に唖然とする。最悪だ。距離の近さに安心して、うっかり連絡先を交換していなかった。
『どうする?』
どうするって、どうにかしないといけない。光希のためにも、勇気を出すのだ。
五時間目と六時間目の間の十分休みになると、千景は光希の教室を目指した。頭には体育の授業用に持ってきていたスポーツタオルを被り、変装は万全だ。一年一組めがけて進む中で隣にいるカイは堂々と歩いていているけれど、千景は目立つわけにはいかないのである。千景にまつわる噂のことはあまり詳しく知らないものの、これ以上変に目立つのは困るのだ。
「千景、結構見られてるね」
「大丈夫だよ。誰も俺だとは気づいてない」
「そうかな」
そうしてやっと辿り着いた一年一組の教室を身を伏せながら覗き込む。上手いこと光希にだけ気づかれないものだろうか。
「光希、それ本気で言ってる?」
唐突に探し求めている名前が聞こえてきた。声の出所を探してみると、教室の真ん中の方の人だかりからのようだ。
「昼だって、あのトラブルメーカー先輩と一緒に食べてるよな」
「朝も夜も一緒ってさ。さすがに光希、狙われてるんじゃねえの」
「あの神山千景だぞ?顔は綺麗だけど、何人もの先輩を狂わせてきたって噂、光希も聞いてるだろ?」
会話の内容は紛れもなく千景のことだ。目を凝らせば、集団の中心にチラリと光希も見える。
「絶対距離を置いた方がいいって」
その言葉が聞こえた瞬間に、胸の奥がズキンと痛んだ。必死で胸を押さえるけれど、全く意味をなさない。
似たようなシチュエーションは何回も経験してきた。でも、今回が一番堪える気がする。ゆっくりと身を引いて、ドアの影に隠れた。確かに、彼らの言うことは最もかもしれない。素性の知れない年上の男が付き纏うだなんて、怪しまれても仕方がない。そもそも冷静になってみるべきだ。光希には千景と三食を共にする意義もなければ、それによって得するようなこともない。嬉しいのは孤独な千景だけだ。光希は新入生代表挨拶をするほどに優秀で、きっと人柄から見ても人気者だろう。それを千景が自身の利益だけを見て、孤独へと巻き込んでいるのだ。背筋が一気に冷たくなった。
「千景」
ハッとして顔を上げると、カイが間近から千景の顔を覗き込んでいる。心配そうなその表情に、必死で笑顔を返した。
「カイ、行こうか」
きっと千景がいつもの時間に寮へ戻らなくても、光希はなんとも思わないに違いない。約束なんてしていないのだから当然だ。今まではなんとなく三食共にしてくれていただけ。自意識過剰だったなと、額を軽く指で叩いた。
「あの」
後ろから聞こえた声に、カイと視線を合わせた。
「話しかけられてるよ。もちろん、千景が」
カイはそれだけ言うと一瞬にして姿を消した。恐る恐る振り返る。そこには、メガネをかけた小柄な生徒が立っていた。
「あの」
「は、はい」
「神山千景先輩じゃないですか?」
少し高い声がよく通る。慌てて口元に人差し指をあてると、「え、なんですか?どうしたんですか?」とさらに大きな声で問われる。
「やっぱり千景先輩だ。僕、先輩のこと、すごく気になっていました」
「だから、シー!」
「だって、幽霊と恋人同士なんでしょう?僕、幽霊研究家になりたくて」
口元にあてていた手を取られて、勝手に握手を交わされる。繋がれた手をブンブンと振られて、頭からタオルが落ちた。
「千景くん?」
背後から聞こえてきた声は、まさしく光希のものだ。思わず顔を顰める。先ほどの会話の流れで今見つかるというのは厳しいものがある。千景はメガネの彼の手を愛想笑いと共に優しく解くと光希を振り返った。
「……あ、えっと」
「やっぱり千景くん」
「や、やあやあ!光希」
「うん、お疲れさま」
「その、えっと」
「うん」
「俺、言いたいことがあって」
「……うん?」
「夕飯とか、朝とか、あと昼も。無理に俺と食べることないからね」
「……え?」
「いや、いつも俺が光希について行ってるだけだけど、一応言いにきたんだ」
「なに、それ」
「だからさ、光希は、好きな人と食べる権利があるんだよ」
言いながら、胸が締め付けられた。今まで、無意識にとはいえ千景がその権利を奪っていたのだ。新入生の身分では、同室の先輩に意見できなかったのだろう。申し訳なさでいっぱいで、光希の顔が見られない。でも心の中には悲しさや寂しさが滲んでいるから、千景は自分の勝手さに嫌気が差した。
「千景く」
「じゃあね」
光希に手を振って、駆け出した。幸せだった二週間もこれで終わりだ。きっと今夜から、光希はそれこそ好きな人と夕食を摂るだろう。それは喜ばしいことなのに、心に渦巻くこの気持ちはなんだろうか。
必死で戻った自分の教室で日本史の授業を受けて、ホームルームを上の空で過ごし、そして放課後。園芸委員会の会合場所である北校舎一階の教室で活動方針を決めて、今日は校舎裏の花壇に野菜を植えることになった。花壇の前で見知らぬ生徒と適当にグループを組まされて、トマトの苗を二つずつ渡される。
「千景、よかったじゃん。トマト係だよ」
「……うん」
「トマト、好きだもんね」
「……うん」
カイに話しかけられてもうっかり声に出して返事をしてしまう。集中したいのに、なかなかできなさそうだ。こんな気持ちで植えられるのでは、トマトも迷惑だろう。
シャベルでゆっくりと土を掘り起こして、植える前に苗を見つめる。
「収穫できたら、特別に持ち帰りましょう」
委員会担当の教師にそう言われて考える。光希はトマトが好きだろうか。
「多分、好きだと思うよ。知らないけど」
隣にしゃがむカイが気遣わしげにそう言った。そういうこと、もっと知りたかった。胸がキュウっと痛くなる。まだまだ、一緒に。
「一緒に、食べたかったな」
「誰と?」
はたと動きを止めた。今、光希の声で尋ねられただろうか。慌てて振り返ると、斜め後ろに光希がしゃがんでいる。
「それ、何の苗?」
「……トマト」
「トマト、誰と一緒に食べたかったの?」
まっすぐに見つめられて、少しも目を逸らせない。胸がドキドキと高鳴る。一緒に食べたかったのは、厳密にいえばトマトのことではない。いや、トマトも一緒に食べられたら嬉しいけれど、頭にあったのは毎日の食事の話だ。今日も明日も明後日も、ずっとずっと光希と食事を共にしたかった。でも。
「……内緒」
思いに蓋をしてそれだけ言うと、千景はトマトの苗を土に植えた。きっと本当のことを言えば、優しい光希は千景を放っておけないだろうと思ったのだ。
「……ふーん」
光希はまるで興味がなさそうにそう言うと、すくっと立ち上がった。
「千景くん、また寮で」
「……うん、またね」
同室生であるがために、寮で絶対的に会ってしまうことが非常に気まずい。光希はきっと、教室での会話を聞かれたとわかっているだろう。だからこそ、今まで通り接してくれたとしたら泣きたくなるし、謝られたら余計に困る。この複雑な心境は一体どうしたら良いのだろうか。
園芸委員会の仕事を終えても、まだまだ日が高かった。だから図書室で時間を潰して、それからスーパーへ寄った。明朝のパンだけ買おうと思ったのに、光希がいない食堂での夕食を耐えられる気がしなくて、結局割引の弁当も買ってしまった。知らずのうちに我慢していた息を大きく吐き出す。これで本格的に光希と夕食を食べる理由がなくなった。
そうして夜の八時前、門限に合わせて寮へと向かった。遠くに見える灯りに憂鬱になりながら、トボトボと足を進める。割引弁当とパンしか入っていないエコバッグが妙に重たかった。
「千景くん!」
暗闇から大きな声が聞こえてきて、思わず飛び跳ねた。必死で目を凝らすと、門の前に人影がある。声から、それが誰かすぐにわかった。
「……光希」
慌ただしく近づいてくる足音に、千景も同じように近づく。だんだんと鮮明になる光希の顔は、なぜだかとても怒っていた。
「こんな時間に帰るなんて、どういうつもり?」
「え?」
「俺が待ってるって、少しも思わなかったの」
それはすごく思ったけれど、思考が巡り巡って、最終的に思わなくなった。それをどうやって伝えよう。
「お、思ったよ。……でも」
「でも?」
「光希の自由が」
「俺の自由?」
「お、俺が変に、何か言ったら、光希の自由が、なくなる気がして」
自分でも、これが本当に言いたいことなのかわからない。でも一生懸命に伝えた。伝わってほしいと思いながら紡いだ言葉は、喉から素直に出てくれない。
「……なるほどね」
光希はそれだけ言うと、「行こう」と言って先を歩いて行ってしまう。いつもの柔らかな雰囲気がまるでなくて、別人のようだ。必死で後を追いながら言葉を探すけれど、頭が上手く回らない。久しぶりに感じる焦燥感と孤独感に、千景は無性に泣きたくなった。
『俺がなんとかしようか』
頭の中で響くカイの声。ここで頼ったらダメだ。そう思うのに、光希がどんどん先にいってしまう姿を見て、千景は自然と頷いていた。
*****
カイは前髪をかきあげた。千景は今頃、精神の内側で泣いているかもしれない。可哀想な千景。
「あのさあ」
ガンガンと響く頭の痛みを我慢しながら腹の底から声を出すと、光希が少しだけ振り向きながら立ち止まった。
「全部、俺が悪いわけ?」
「……」
「教室まで行った時、結構勇気出したんだけど」
「……」
「本当はあの時、今日は委員会があるから遅くなるって言いたかった」
「……それなら、そう言えばよかったのに」
「言えるわけないよ。だって君、クラスメイトに散々俺を悪く言われてたのに、少しも反論してなかった」
「……あれは、勝手なこと言われて腹が立って」
「でも、俺は確かに傷ついた」
「……うん」
「もう俺に関わらないでくれる。期待させないでよ」
やっと千景が信頼できそうな人間が出てきたと思ったら結局傷つけられる。深く信頼し切ってからでは傷が深くなる一方だ。ゆっくりと歩みを再開して、そのまま光希を追い越した。
「それはさ」
突然聞こえてきた光希の強い口調に、足を止めた。
「本当に千景くんが言ってるの?」
「は?」
思わず振り返ると、光希の真っ直ぐな目と視線が交差した。
「千景くんを、返してくれる?カイさん」



