神山千景には友達がいない。高校の寮で生活して二年目になるのに、たったの一人もいないのだ。これはおそらく奇跡にも近いことだけれど、千景にとっては小学校の頃から変わらない日常だった。でも今日こそは、きっと友達ができるチャンスである。寮の自室を掃除しながら、千景は息巻いていた。二段ベッドに勉強机が二つ、小さなクローゼットも二つ。部屋の奥には簡易洗面台と小さな冷蔵庫。狭苦しい空間なりにも清潔に見えるように、一生懸命掃除を進めていく。
「ほらほら、急いで」
千景を急かすのは、二段ベッドの下段に座っているカイだ。無造作にかきあげられた明るい色の髪は、まるでセットしたかのように芸術的な毛流れを演出している。身につけているのは今の千景と全く同じ中学時代の変な青色のジャージなのに、彼が足を組んで小首を傾げる様子はやけに様になるのだ。それがなんだか悔しくて、思わず唇を尖らせながらカイを見やった。整った眉に大きな目、小さく尖った鼻先、薄い桃色の唇。それはまるっきり千景の顔と一緒であるのに、どこか精悍さが感じられる。どうやったらカイのようになれるのか、それは千景の永遠のテーマなのだ。
「カイも手伝って良いんだよ」
掃除機を片手に二段ベッドへと近づくと、カイはニヤリと笑って肩を竦めた。
「残念ながら、俺らの体は一つだからね」
「でも俺には確かに見えるのに」
「それは、千景が勝手に見ているだけ」
反論したいけれど、カイの言う通りだ。カイの姿は、本来はそこにはない。もちろん触れることもできない。カイとは、千景が幼い頃にいつの間にか芽生えていたもう一人の自分だった。
「カイって本当、お化けみたい」
「ちょっと、こんなに素敵なお化けがいるとでも?」
気取ったカイの返事に思わず笑ってしまう。ただ、カイは確かに素敵なのだ。綺麗な外見に、スマートな振る舞いもできる。何をしても不器用な千景とは大違いだ。でも千景だって、不器用なりに平穏無事に生きていかなくてはならない。今日はそれに備えた大勝負である。
高校二年になる千景には、現在友達だけでなく同室生もいなかった。昨年の一年間で五人の同室生が逃げるように出て行ったのだ。理由はよくわからない。でもあまり良くない噂が広がっているらしいことはなんとなく知っていた。「変な話を鵜呑みにするような奴なんて放っておきな」とカイは言うけれど、あっという間に広がった噂は収集がつかなくなっている。
それでも今日は期待でいっぱいだ。今日から同室生になるのは新入生なのだ。変な噂は耳に入っていないだろうと信じて、ここぞとばかりに直球勝負だ。今度こそ同室生と仲良くなり、友達になり、普通の高校生らしく生きてみたい。そのために、ひとまず部屋の掃除で清潔感と気遣いをアピールするのである。新入生を嫌な気持ちにさせたくもないし、これ以上誰かに煙たがられるのは御免だった。
一通り掃除機をかけて、さて、と顔をあげる。長い一人部屋生活で新入生のスペースを侵してはいないかと、最後のチェックだ。ぐるりと部屋の中を見回してみる。
「あれ、あそこが」
目についたのはクローゼットの上だ。埃まみれのそこは、どう見ても見栄えが悪い。千景は掃除機のノズルを短く調節してクローゼットに近づいた。ひとまず背伸びをして手を伸ばしてみる。きっと奥の方まで汚れているのだろう。
「千景、クローゼットに手をかけたら危ないよ」
「大丈夫」
カイの気配が強く感じられる。カイは何かとリスク管理に優れているから、千景を止めたいのかもしれない。でも、千景は千景として、自分がやろうと思ったことはやりたい性質なのだ。カイにはいつも頑固だと言われているけれど、カイに甘えてばかりでは成長がない。そう思ったのに、気がついたらカイの声が頭に響いていた。
『千景、一瞬俺が体を主導するからね』
有無も言わさずに、意識が遠のく。そう思ったら、次の瞬間には掃除機を床におろしていた。ふと見上げるとクローゼットの上に見えていた埃がなくなっている。また助けられてしまった。それを理解した瞬間に、こめかみのあたりがツキツキと痛んだ。
「……ありがとう」
痛みに耐えながらお礼を言うと、脳内から『どういたしまして』と聞こえてきた。
掃除機を片付けて、さて、と部屋の中を見回してみる。
『あ、来るよ』
「え?」
カイの声と同時に聞こえてきたのはノックの音。一瞬ぽかんとしたものの、同室生となる新入生がやってきたのだと理解して、「はーい」と返事をしながら入り口へと向かう。扉をゆっくりと引くと、そこには。
「こんにちは」
挨拶の言葉を返し忘れたのは初めてだった。千景より高い位置にある太陽のような笑顔。彼はお手本のように爽やかな挨拶と共に、肩に担いだエナメルバッグを軽く背負い直した。
********
ゆっくりと目を開けて、枕元の目覚まし時計を見上げる。時刻は六時三十分。時計が鳴る前に目が覚めたのは久しぶりだった。千景は誰かが同室にいると思うと緊張感で早朝に起きられるタイプである。
『おはよう、千景。いつもは俺が起こすまで起きないのにね』
頭の中でカイが何か言っているけれど、こんな時は聞こえなかったふりだ。
二段ベッドの下段から衣擦れの音が聞こえてくる。昨日同室になった彼も起きたのかもしれない。
「新川光希です」
初対面で、まっすぐに目を覗き込まれてそう声をかけられたことを思い出す。彼はまるで太陽のような明るさに、青空のような空気を纏った美男子だった。『ほら、挨拶』という頭の中のカイの言葉にやっと我に返って、千景は辿々しく「か、神山、千景です」と答えたあの瞬間。どうかもう一度やり直したいと思ってしまう。光希は何も気にしていなさそうに笑っていたけれど、年上なのに挨拶でさえも器用にできない自分に嫌気がさした。でももう起こってしまったことは仕方がない。今日から頑張るのみだ。
今日は入学式があるために、新入生は早くに登校する必要があるらしい。そのためか、ベッドから立ち上がった光希は既に制服のシャツとスラックスを身につけていた。
「あっ」
何かに驚いた様子の光希は、慌てたように机の上にある寮のルール表を眺めて頭を抱えた。何か困っているのだろうか。声をかけようかと息を吸い込むのと同時だった。突然振り返った光希と、はたと合ってしまった視線。色々と思うところはあるけれど、朝から爽やかだ。涼やかな目元に通った鼻筋、強い意思を感じる唇まで、見惚れるほど端正な顔立ちだと思ったのはカイ以来である。
「すみません」
「え?」
「起こしちゃいましたね」
「あ、いや」
それよりも、何に困っているのだろう。モゾモゾと布団から這い出て、上体を起こしてみる。
「何か、困ってるの?」
「いや、それが」
「うん」
黙って先を待っていると、渋い顔をした光希が寮のルール表を見せてきた。
「食堂、七時十五分からだって、ここに」
「そうだね」
「でも、俺は今日七時三十分には学校の講堂でリハーサルなんです。新入生代表の挨拶があって」
「……ほお」
「講堂は遠いって聞きました。七時までは寮の門も開かないし、コンビニもちょっと遠い。これは、朝ご飯は我慢かなと思いまして」
「ほおほお」
知らぬ間に千景の勉強机に堂々と足を組んで腰掛けているカイが、「ほおほおって、ちゃんと聞いてるの?」と笑った。正直、新入生代表という文言が気になって後半はあまり聞いていなかったけれど、つまりは朝ご飯にありつけないことを嘆いているということだ。千景は一瞬考えて、そして布団から飛び出した。頭の上で寝癖がふよふよと動く気配をそのままに、勢いよくハシゴを下る。
「え、先輩?」
「朝ご飯、あるよ」
「あるって?」
「俺のスペシャル朝食でよければ、食べて行って」
そう言いながら、千景は勉強机の一番大きな引き出しを開けた。光希と一緒にカイも覗き込んでくる。
「メロンパンと、バナナ、お煎餅」
組み合わせは思ったよりも変ではなさそうだ。「十分変だよ」とカイは言ったけれど、どれもハズレがない美味しさのはずである。
「きっとエネルギーになるよ」
千景が光希を見上げてそう言うと、光希は一瞬目を丸くしてから面白そうに笑った。
「そうですね。良いんですか」
「どうぞ。全部あげるから」
光希からは進んで取り出しづらいだろうと、メロンパン、バナナ、煎餅に関しては大袋ごと光希に押し付けるように渡した。
「本当に全部?」
「うん」
「ふはは!ありがとうございます」
光希の笑顔に心が満たされる。その後も千景なりにせっせと世話を焼き、七時には部屋から送り出した。きっと誠実そうな人柄の光希なら、立派に新入生代表挨拶ができるだろう。朝から晴れやかな気分だ。人の役に立つって、すごく気持ちがいい。
「あれって今日の朝ご飯でしょ?あげてよかったわけ」
簡易洗面台で髪を整えていると、いつの間にか隣に立ったカイがそう聞いてきた。その顔には呆れと心配が滲んでいる。
「うん。あれでよかったんだ」
「じゃあ、千景の朝ご飯は?」
「……」
「食べないってのは無しだよ。約束したでしょ」
「……ちゃんと食堂に行くよ」
「ふーん」
カイはそう言うと、パッと姿を消した。カイは神出鬼没なところがあって、千景の一部であるはずなのに扱いが難しい。でも誰よりも優しいと、千景は知っている。その証拠に、千景が困ればすぐに出てきてくれるのだ。
「カイ、寝癖が治らないよ」
前髪がどうしてこんなにぐちゃぐちゃになるのだろう。水で髪をべちょべちょにしながら一生懸命に整えていると、痺れを切らしたカイに一瞬にして意識を乗っ取られたのだった。
*******
光希は拍手に包まれながらゆっくりと壇上から降りた。新入生代表挨拶は練習通り上手くいった。これで今日の心配事はなくなったと思うと、ほっと一安心だ。その瞬間に浮かんだのは、同室になった千景という先輩のことだった。千景は今朝一番に訪れた光希のピンチに、ひどい寝癖のまま対応してくれた。昨日初めて会った時は随分と綺麗な人だと思ったのだ。変な色のジャージを着ているのに、可憐な見た目だけでなくパッと花がある人。それは寝ぼけ眼でも変わらず、光希に煎餅を大袋ごと押し付けて見せた笑顔はずっと見ていたいくらいに可愛らしかった。年上の男相手にそう思うのなんて初めてで、だからこそ他の寮生から聞いた噂を思い出さずにはいられない。
「神山千景は、男子校であることを良いことに男を狂わせまくってるトラブルメーカーなんだ」
トラブルメーカーの意味はわからないけれど、狂わせまくっているという部分については少々納得だ。
「今までの同室生は全員二週間も持たなかった。あの部屋は、神山千景に惚れた幽霊が出るから」
昨日、到着したばかりの寮の玄関でそう教えてくれた男子生徒は最後にこう言った。
「つまり、神山千景に惚れた幽霊が、神山千景に憑依するんだよ。そうなったら、それはもう大変なんだ」
不思議な話だ。本当に幽霊なんているのだろうか。光希は幽霊を信じてもいないし、絶対にいないとも思っていない。だからこの目で見ることがあれば「いたんだな」と納得するだけだ。もし幽霊が本当にいて、千景に憑依して暴れたりするのだとしたら、それは何かしら理由があるのだろう。
入学式を終えて教室に戻り、ホームルームのあとは適当に解散だった。高校生というものは案外自由だなと思いつつ、学校にある大きな食堂へ向かう。学校は寮の食堂よりもラインナップが多いらしい。上級生らしい生徒の見様見真似でカツカレーの食券を買い、商品を受け取る列に並んでみる。
「なあ、聞いたか」
光希の前に並んでいる生徒が、その前に並んでいる生徒に話しかけている。
「なんだよ。また千景ちゃんの噂か」
「うん。千景ちゃんが、今朝は寮の食堂に来たらしい」
周りの生徒たちも巻き込んで、「嘘だろ」「大丈夫かよ」だなんて騒いでいる。千景とは、同名の生徒がいない限りは光希の同室生である千景のことだろう。
「今日もすげー可愛かったらしいけど、やっぱり独り言を言うんだって」
「あれ、なんなんだろうな」
おかしな独り言くらい、いくらでも言いそうな人だった気がするけれど、そんなに変なのだろうか。
カツカレーを受け取って空いている席を探し始める。すると生徒で溢れかえる食堂の中で、窓際に近い空間がポカリと空いていることに気がついた。中央には千景が一人で座っている。先ほど聞いた話では嫌われているというわけでもなさそうなものの、もしかしたら変な噂に距離を置かれているのかもしれない。一人で定食を食べるその姿は無性に寂しそうに見えた。
「千景先輩」
近づいて名前を呼ぶと、ふと上がった小さな顔。大きな目が瞬いたと思ったら、すぐに顔が伏せられた。
「先輩?」
何か不都合があるだろうかと、その顔を覗きながら正面の机にカツカレーを置いて、椅子を引いた。
「千景先輩、一緒に食べて良いですか」
千景は伏せていた顔を少しだけあげて、目線だけで何かを伝えてくる。それが何を示すのかがさっぱりで、光希はもう一度「千景先輩?」と尋ねた。すると千景は上目遣いに光希を見て、申し訳なさそうに口を開いた。
「……ごめんね、無理」
まさか拒絶されるとは思いもしなくて、光希の胸は正面からグサリと傷ついた。でも何か事情がありそうだ。そう思った、その時だった。
「おい」
突然に聞こえてきたドスの効いた声。その発生源を辿ると、いつの間にか大柄の男子生徒が千景を見下ろしていた。太いゴールドのネックレスは校則違反ではないのだろうか。周りには取り巻きのような生徒もいて、千景と光希のことをジロジロと見ている。
「千景。誰だ、この男」
「……」
「朝も寮の食堂に行ったって聞いたぞ。朝は寮の部屋で幽霊の恋人と過ごしてるんじゃなかったのか」
「……」
「最近は幽霊騒ぎが大人しいらしいな。一人になったなら、俺と付き合うか」
取り巻きから上がる冷やかすような声に、なんだか鬱々としてくる。割と進学校であるはずなのに、こんな人間がいるだなんて面白くない。千景はこうなることを見越して光希に近づくなと言っていたのだろう。厄介そうな男相手だけれど、このまま黙っているのは光希の正義が許さない。だから、考えるより先に「あの」と言おうと思った。
「あのさ」
腹の底から出ているようなまっすぐな声。それは光希が声をあげるより先に、確かに千景から聞こえてきた。千景の様相に、空気がピンと張り詰める。
「なんだよ」
強気な男がそう尋ねると、千景はスッと立ち上がり、前髪を掻き上げた。そのまままっすぐに男を睨みつける。
「まだ幽霊を怖がってるんだ」
「……はあ?」
「まだ同室だった頃。俺を置いて逃げた時から、変わらないね」
千景はそう言うと一歩男に近づいて、ゴールドのネックレスを人差し指で掬い取った。
「そんなに俺が好き?」
小首を傾げて上目遣いに相手を見つめる仕草。男がごくりと喉を鳴らした。それを見て、千景がサッと表情を消す。
「相変わらず俺を困らせるにも値しない」
「……お前、あの幽霊か?千景にまだ憑依しているのか」
「だったら、どうなの。君にも取り憑こうか?」
千景はネックレスを指で弾いて、それから軽く男の胸を押した。それだけなはずなのに、男たちは顔を青くして逃げていく。千景は大きな溜息と共に掻き上げた前髪を直して、それから席についた。
その直後、まるで俯くようにしていた目の前の千景がハッと顔を上げた。そしてキョロキョロと視線を巡らし、何かに気づいて後悔するかのように、そしてひどい痛みがあるかのように額に手をやる。
「千景、先輩」
「……ん?」
まるで気力をなくしたようにそう答えた千景は、顔をあげると光希に向かってふわりと微笑んだ。その青い顔から、無理しているのだとすぐにわかった。
「大丈夫ですか?」
「え?」
「憑依されて、疲れたんですか?」
一応声を顰めてそう聞くと、千景は一瞬呆気に取られたように目を見開いて、それから耐えきれないとでも言うように笑った。その笑顔は心からのものに思えて、少しだけ安心する。
「憑依じゃないよ」
「そうなんですか?」
「まあ、憑依かもしれないけど」
「え、どっち?」
光希が本気で困惑していると、千景は改めて嬉しそうに定食皿の中からほうれん草の和物を選び、光希のカレー皿の傍に載せてきた。
「心配してくれて、ありがとう」
「そりゃ、するでしょ」
「ううん。俺を心配してくれた人って、初めて」
「そうなんですか?」
光希が尋ねると、千景は「うん」と頷いて、そして今までで一番綺麗な笑顔でこう言った。
「すごく嬉しい」
光希の心が華やかな光に包まれた気がした。胸の奥が音を立てる。可愛くて、無垢で、一生懸命。それでいて、異様に謎が多い先輩だ。そして、どうしようもなく。
「千景、くん」
「……ん?」
光希がぼんやりしている間に、千景はすでに定食を食べ進めている。膨らんだ頬袋を見ただけでも、胸がキュンとなった。
「俺、幽霊は怖くないです」
「そうなの?」
「はい。……でも」
「うん」
「千景くんが傷つくのは、すごく嫌かもしれません」
「……え?」
「千景くんは、笑顔が似合いますね」
昨日会った先輩相手に何を言っているのだろう。でも止められなかった。千景のことを光希が笑顔にできたら、すごく嬉しいかもしれないと思ったのだ。思った通り、おかしそうに笑った千景はとても可愛くて、光希も自然と笑顔になったのだった。
「ほらほら、急いで」
千景を急かすのは、二段ベッドの下段に座っているカイだ。無造作にかきあげられた明るい色の髪は、まるでセットしたかのように芸術的な毛流れを演出している。身につけているのは今の千景と全く同じ中学時代の変な青色のジャージなのに、彼が足を組んで小首を傾げる様子はやけに様になるのだ。それがなんだか悔しくて、思わず唇を尖らせながらカイを見やった。整った眉に大きな目、小さく尖った鼻先、薄い桃色の唇。それはまるっきり千景の顔と一緒であるのに、どこか精悍さが感じられる。どうやったらカイのようになれるのか、それは千景の永遠のテーマなのだ。
「カイも手伝って良いんだよ」
掃除機を片手に二段ベッドへと近づくと、カイはニヤリと笑って肩を竦めた。
「残念ながら、俺らの体は一つだからね」
「でも俺には確かに見えるのに」
「それは、千景が勝手に見ているだけ」
反論したいけれど、カイの言う通りだ。カイの姿は、本来はそこにはない。もちろん触れることもできない。カイとは、千景が幼い頃にいつの間にか芽生えていたもう一人の自分だった。
「カイって本当、お化けみたい」
「ちょっと、こんなに素敵なお化けがいるとでも?」
気取ったカイの返事に思わず笑ってしまう。ただ、カイは確かに素敵なのだ。綺麗な外見に、スマートな振る舞いもできる。何をしても不器用な千景とは大違いだ。でも千景だって、不器用なりに平穏無事に生きていかなくてはならない。今日はそれに備えた大勝負である。
高校二年になる千景には、現在友達だけでなく同室生もいなかった。昨年の一年間で五人の同室生が逃げるように出て行ったのだ。理由はよくわからない。でもあまり良くない噂が広がっているらしいことはなんとなく知っていた。「変な話を鵜呑みにするような奴なんて放っておきな」とカイは言うけれど、あっという間に広がった噂は収集がつかなくなっている。
それでも今日は期待でいっぱいだ。今日から同室生になるのは新入生なのだ。変な噂は耳に入っていないだろうと信じて、ここぞとばかりに直球勝負だ。今度こそ同室生と仲良くなり、友達になり、普通の高校生らしく生きてみたい。そのために、ひとまず部屋の掃除で清潔感と気遣いをアピールするのである。新入生を嫌な気持ちにさせたくもないし、これ以上誰かに煙たがられるのは御免だった。
一通り掃除機をかけて、さて、と顔をあげる。長い一人部屋生活で新入生のスペースを侵してはいないかと、最後のチェックだ。ぐるりと部屋の中を見回してみる。
「あれ、あそこが」
目についたのはクローゼットの上だ。埃まみれのそこは、どう見ても見栄えが悪い。千景は掃除機のノズルを短く調節してクローゼットに近づいた。ひとまず背伸びをして手を伸ばしてみる。きっと奥の方まで汚れているのだろう。
「千景、クローゼットに手をかけたら危ないよ」
「大丈夫」
カイの気配が強く感じられる。カイは何かとリスク管理に優れているから、千景を止めたいのかもしれない。でも、千景は千景として、自分がやろうと思ったことはやりたい性質なのだ。カイにはいつも頑固だと言われているけれど、カイに甘えてばかりでは成長がない。そう思ったのに、気がついたらカイの声が頭に響いていた。
『千景、一瞬俺が体を主導するからね』
有無も言わさずに、意識が遠のく。そう思ったら、次の瞬間には掃除機を床におろしていた。ふと見上げるとクローゼットの上に見えていた埃がなくなっている。また助けられてしまった。それを理解した瞬間に、こめかみのあたりがツキツキと痛んだ。
「……ありがとう」
痛みに耐えながらお礼を言うと、脳内から『どういたしまして』と聞こえてきた。
掃除機を片付けて、さて、と部屋の中を見回してみる。
『あ、来るよ』
「え?」
カイの声と同時に聞こえてきたのはノックの音。一瞬ぽかんとしたものの、同室生となる新入生がやってきたのだと理解して、「はーい」と返事をしながら入り口へと向かう。扉をゆっくりと引くと、そこには。
「こんにちは」
挨拶の言葉を返し忘れたのは初めてだった。千景より高い位置にある太陽のような笑顔。彼はお手本のように爽やかな挨拶と共に、肩に担いだエナメルバッグを軽く背負い直した。
********
ゆっくりと目を開けて、枕元の目覚まし時計を見上げる。時刻は六時三十分。時計が鳴る前に目が覚めたのは久しぶりだった。千景は誰かが同室にいると思うと緊張感で早朝に起きられるタイプである。
『おはよう、千景。いつもは俺が起こすまで起きないのにね』
頭の中でカイが何か言っているけれど、こんな時は聞こえなかったふりだ。
二段ベッドの下段から衣擦れの音が聞こえてくる。昨日同室になった彼も起きたのかもしれない。
「新川光希です」
初対面で、まっすぐに目を覗き込まれてそう声をかけられたことを思い出す。彼はまるで太陽のような明るさに、青空のような空気を纏った美男子だった。『ほら、挨拶』という頭の中のカイの言葉にやっと我に返って、千景は辿々しく「か、神山、千景です」と答えたあの瞬間。どうかもう一度やり直したいと思ってしまう。光希は何も気にしていなさそうに笑っていたけれど、年上なのに挨拶でさえも器用にできない自分に嫌気がさした。でももう起こってしまったことは仕方がない。今日から頑張るのみだ。
今日は入学式があるために、新入生は早くに登校する必要があるらしい。そのためか、ベッドから立ち上がった光希は既に制服のシャツとスラックスを身につけていた。
「あっ」
何かに驚いた様子の光希は、慌てたように机の上にある寮のルール表を眺めて頭を抱えた。何か困っているのだろうか。声をかけようかと息を吸い込むのと同時だった。突然振り返った光希と、はたと合ってしまった視線。色々と思うところはあるけれど、朝から爽やかだ。涼やかな目元に通った鼻筋、強い意思を感じる唇まで、見惚れるほど端正な顔立ちだと思ったのはカイ以来である。
「すみません」
「え?」
「起こしちゃいましたね」
「あ、いや」
それよりも、何に困っているのだろう。モゾモゾと布団から這い出て、上体を起こしてみる。
「何か、困ってるの?」
「いや、それが」
「うん」
黙って先を待っていると、渋い顔をした光希が寮のルール表を見せてきた。
「食堂、七時十五分からだって、ここに」
「そうだね」
「でも、俺は今日七時三十分には学校の講堂でリハーサルなんです。新入生代表の挨拶があって」
「……ほお」
「講堂は遠いって聞きました。七時までは寮の門も開かないし、コンビニもちょっと遠い。これは、朝ご飯は我慢かなと思いまして」
「ほおほお」
知らぬ間に千景の勉強机に堂々と足を組んで腰掛けているカイが、「ほおほおって、ちゃんと聞いてるの?」と笑った。正直、新入生代表という文言が気になって後半はあまり聞いていなかったけれど、つまりは朝ご飯にありつけないことを嘆いているということだ。千景は一瞬考えて、そして布団から飛び出した。頭の上で寝癖がふよふよと動く気配をそのままに、勢いよくハシゴを下る。
「え、先輩?」
「朝ご飯、あるよ」
「あるって?」
「俺のスペシャル朝食でよければ、食べて行って」
そう言いながら、千景は勉強机の一番大きな引き出しを開けた。光希と一緒にカイも覗き込んでくる。
「メロンパンと、バナナ、お煎餅」
組み合わせは思ったよりも変ではなさそうだ。「十分変だよ」とカイは言ったけれど、どれもハズレがない美味しさのはずである。
「きっとエネルギーになるよ」
千景が光希を見上げてそう言うと、光希は一瞬目を丸くしてから面白そうに笑った。
「そうですね。良いんですか」
「どうぞ。全部あげるから」
光希からは進んで取り出しづらいだろうと、メロンパン、バナナ、煎餅に関しては大袋ごと光希に押し付けるように渡した。
「本当に全部?」
「うん」
「ふはは!ありがとうございます」
光希の笑顔に心が満たされる。その後も千景なりにせっせと世話を焼き、七時には部屋から送り出した。きっと誠実そうな人柄の光希なら、立派に新入生代表挨拶ができるだろう。朝から晴れやかな気分だ。人の役に立つって、すごく気持ちがいい。
「あれって今日の朝ご飯でしょ?あげてよかったわけ」
簡易洗面台で髪を整えていると、いつの間にか隣に立ったカイがそう聞いてきた。その顔には呆れと心配が滲んでいる。
「うん。あれでよかったんだ」
「じゃあ、千景の朝ご飯は?」
「……」
「食べないってのは無しだよ。約束したでしょ」
「……ちゃんと食堂に行くよ」
「ふーん」
カイはそう言うと、パッと姿を消した。カイは神出鬼没なところがあって、千景の一部であるはずなのに扱いが難しい。でも誰よりも優しいと、千景は知っている。その証拠に、千景が困ればすぐに出てきてくれるのだ。
「カイ、寝癖が治らないよ」
前髪がどうしてこんなにぐちゃぐちゃになるのだろう。水で髪をべちょべちょにしながら一生懸命に整えていると、痺れを切らしたカイに一瞬にして意識を乗っ取られたのだった。
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光希は拍手に包まれながらゆっくりと壇上から降りた。新入生代表挨拶は練習通り上手くいった。これで今日の心配事はなくなったと思うと、ほっと一安心だ。その瞬間に浮かんだのは、同室になった千景という先輩のことだった。千景は今朝一番に訪れた光希のピンチに、ひどい寝癖のまま対応してくれた。昨日初めて会った時は随分と綺麗な人だと思ったのだ。変な色のジャージを着ているのに、可憐な見た目だけでなくパッと花がある人。それは寝ぼけ眼でも変わらず、光希に煎餅を大袋ごと押し付けて見せた笑顔はずっと見ていたいくらいに可愛らしかった。年上の男相手にそう思うのなんて初めてで、だからこそ他の寮生から聞いた噂を思い出さずにはいられない。
「神山千景は、男子校であることを良いことに男を狂わせまくってるトラブルメーカーなんだ」
トラブルメーカーの意味はわからないけれど、狂わせまくっているという部分については少々納得だ。
「今までの同室生は全員二週間も持たなかった。あの部屋は、神山千景に惚れた幽霊が出るから」
昨日、到着したばかりの寮の玄関でそう教えてくれた男子生徒は最後にこう言った。
「つまり、神山千景に惚れた幽霊が、神山千景に憑依するんだよ。そうなったら、それはもう大変なんだ」
不思議な話だ。本当に幽霊なんているのだろうか。光希は幽霊を信じてもいないし、絶対にいないとも思っていない。だからこの目で見ることがあれば「いたんだな」と納得するだけだ。もし幽霊が本当にいて、千景に憑依して暴れたりするのだとしたら、それは何かしら理由があるのだろう。
入学式を終えて教室に戻り、ホームルームのあとは適当に解散だった。高校生というものは案外自由だなと思いつつ、学校にある大きな食堂へ向かう。学校は寮の食堂よりもラインナップが多いらしい。上級生らしい生徒の見様見真似でカツカレーの食券を買い、商品を受け取る列に並んでみる。
「なあ、聞いたか」
光希の前に並んでいる生徒が、その前に並んでいる生徒に話しかけている。
「なんだよ。また千景ちゃんの噂か」
「うん。千景ちゃんが、今朝は寮の食堂に来たらしい」
周りの生徒たちも巻き込んで、「嘘だろ」「大丈夫かよ」だなんて騒いでいる。千景とは、同名の生徒がいない限りは光希の同室生である千景のことだろう。
「今日もすげー可愛かったらしいけど、やっぱり独り言を言うんだって」
「あれ、なんなんだろうな」
おかしな独り言くらい、いくらでも言いそうな人だった気がするけれど、そんなに変なのだろうか。
カツカレーを受け取って空いている席を探し始める。すると生徒で溢れかえる食堂の中で、窓際に近い空間がポカリと空いていることに気がついた。中央には千景が一人で座っている。先ほど聞いた話では嫌われているというわけでもなさそうなものの、もしかしたら変な噂に距離を置かれているのかもしれない。一人で定食を食べるその姿は無性に寂しそうに見えた。
「千景先輩」
近づいて名前を呼ぶと、ふと上がった小さな顔。大きな目が瞬いたと思ったら、すぐに顔が伏せられた。
「先輩?」
何か不都合があるだろうかと、その顔を覗きながら正面の机にカツカレーを置いて、椅子を引いた。
「千景先輩、一緒に食べて良いですか」
千景は伏せていた顔を少しだけあげて、目線だけで何かを伝えてくる。それが何を示すのかがさっぱりで、光希はもう一度「千景先輩?」と尋ねた。すると千景は上目遣いに光希を見て、申し訳なさそうに口を開いた。
「……ごめんね、無理」
まさか拒絶されるとは思いもしなくて、光希の胸は正面からグサリと傷ついた。でも何か事情がありそうだ。そう思った、その時だった。
「おい」
突然に聞こえてきたドスの効いた声。その発生源を辿ると、いつの間にか大柄の男子生徒が千景を見下ろしていた。太いゴールドのネックレスは校則違反ではないのだろうか。周りには取り巻きのような生徒もいて、千景と光希のことをジロジロと見ている。
「千景。誰だ、この男」
「……」
「朝も寮の食堂に行ったって聞いたぞ。朝は寮の部屋で幽霊の恋人と過ごしてるんじゃなかったのか」
「……」
「最近は幽霊騒ぎが大人しいらしいな。一人になったなら、俺と付き合うか」
取り巻きから上がる冷やかすような声に、なんだか鬱々としてくる。割と進学校であるはずなのに、こんな人間がいるだなんて面白くない。千景はこうなることを見越して光希に近づくなと言っていたのだろう。厄介そうな男相手だけれど、このまま黙っているのは光希の正義が許さない。だから、考えるより先に「あの」と言おうと思った。
「あのさ」
腹の底から出ているようなまっすぐな声。それは光希が声をあげるより先に、確かに千景から聞こえてきた。千景の様相に、空気がピンと張り詰める。
「なんだよ」
強気な男がそう尋ねると、千景はスッと立ち上がり、前髪を掻き上げた。そのまままっすぐに男を睨みつける。
「まだ幽霊を怖がってるんだ」
「……はあ?」
「まだ同室だった頃。俺を置いて逃げた時から、変わらないね」
千景はそう言うと一歩男に近づいて、ゴールドのネックレスを人差し指で掬い取った。
「そんなに俺が好き?」
小首を傾げて上目遣いに相手を見つめる仕草。男がごくりと喉を鳴らした。それを見て、千景がサッと表情を消す。
「相変わらず俺を困らせるにも値しない」
「……お前、あの幽霊か?千景にまだ憑依しているのか」
「だったら、どうなの。君にも取り憑こうか?」
千景はネックレスを指で弾いて、それから軽く男の胸を押した。それだけなはずなのに、男たちは顔を青くして逃げていく。千景は大きな溜息と共に掻き上げた前髪を直して、それから席についた。
その直後、まるで俯くようにしていた目の前の千景がハッと顔を上げた。そしてキョロキョロと視線を巡らし、何かに気づいて後悔するかのように、そしてひどい痛みがあるかのように額に手をやる。
「千景、先輩」
「……ん?」
まるで気力をなくしたようにそう答えた千景は、顔をあげると光希に向かってふわりと微笑んだ。その青い顔から、無理しているのだとすぐにわかった。
「大丈夫ですか?」
「え?」
「憑依されて、疲れたんですか?」
一応声を顰めてそう聞くと、千景は一瞬呆気に取られたように目を見開いて、それから耐えきれないとでも言うように笑った。その笑顔は心からのものに思えて、少しだけ安心する。
「憑依じゃないよ」
「そうなんですか?」
「まあ、憑依かもしれないけど」
「え、どっち?」
光希が本気で困惑していると、千景は改めて嬉しそうに定食皿の中からほうれん草の和物を選び、光希のカレー皿の傍に載せてきた。
「心配してくれて、ありがとう」
「そりゃ、するでしょ」
「ううん。俺を心配してくれた人って、初めて」
「そうなんですか?」
光希が尋ねると、千景は「うん」と頷いて、そして今までで一番綺麗な笑顔でこう言った。
「すごく嬉しい」
光希の心が華やかな光に包まれた気がした。胸の奥が音を立てる。可愛くて、無垢で、一生懸命。それでいて、異様に謎が多い先輩だ。そして、どうしようもなく。
「千景、くん」
「……ん?」
光希がぼんやりしている間に、千景はすでに定食を食べ進めている。膨らんだ頬袋を見ただけでも、胸がキュンとなった。
「俺、幽霊は怖くないです」
「そうなの?」
「はい。……でも」
「うん」
「千景くんが傷つくのは、すごく嫌かもしれません」
「……え?」
「千景くんは、笑顔が似合いますね」
昨日会った先輩相手に何を言っているのだろう。でも止められなかった。千景のことを光希が笑顔にできたら、すごく嬉しいかもしれないと思ったのだ。思った通り、おかしそうに笑った千景はとても可愛くて、光希も自然と笑顔になったのだった。



